徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

蝦蛄(しゃこ)売り

2017-06-30 18:25:51 | 熊本
 僕が子どもの頃には、天秤棒を担いだり、リヤカーを引っ張ったおじさんやおばさんたちがよく物売りにやってきた。野菜、アサリ、ナマコ、たまご、金魚、納豆等々、実に様々な物があった。今の季節よくやって来たのが「しゃこ」。熊本では「しゃこ」のことを「しゃく」という。祖母が好きでよく買っていた。たしか長洲あたりから売りに来ていたと記憶しているが、「しゃく」は水から上げるとすぐに死んで味が落ちるといわれるので、上熊本駅で降りた後、天秤棒を担いでの販売はスピード命だったのかもしれない。
 昨日、玉名の義弟が朝採った「しゃく」を持ってきた。祖母が亡くなってから、あまり好んで食べる家族はいないのだが、せっかくの海の恵み、家内はどう料理したものかといつも頭を悩ましている。



▼四季の物売り

歌枕 ~鼓ヶ滝~

2017-06-28 21:15:53 | 文芸
 1週間ほど前、玉名からの帰りに久しぶりに河内から山越えの道を通った。いつものように道沿いの鼓ヶ滝を覗いて見た。雨が少ないせいか水量がやけに少なく濁っている。(写真は1年ほど前の様子)対岸の歌詠場に回ってみたが、やはり前回同様、草木が茂って降りるのは難しそうなのであきらめた。

音に聞く鼓ヶ滝をうち見ればただ山川になるにぞありける

 鼓ヶ滝の代表的な歌として知られているこの歌は、平安時代、肥後国司であった清原元輔の歌とも、閨秀歌人・檜垣嫗の歌とも、あるいは修行僧の歌ともいわれているがさだかではない。この鼓ヶ滝は、平安時代から歌枕として広く知られていたとみえ、能の「鼓滝」や古典落語の「西行鼓ヶ滝」では、西行法師が訪れた摂津(大阪)の鼓ヶ滝に置き換えられてこの歌が引用されている。


水無月の夏越の祓する人は・・・

2017-06-27 20:04:06 | イベント
水無月の夏越の祓する人は千年の命延ぶといふなり(拾遺和歌集 詠人知らず)

 今日27日は、藤崎宮段山御旅所での「夏越の大祓」。かつての門前町、新町のために毎年この日に行われている。ここ数年参拝しているが、ここの「夏越の大祓」はアットホームでいい。午後4時の開始時には参拝者10数人。茅の輪くぐりや人形の扱いについて神職の方から懇切丁寧な指導があり、最後にお祓いを受け、お神酒をいただいた。
 今年も、御旅所すぐ上の藤崎台童園の子供たちが数人来ていた。みんな明るく可愛い。年上の子が小さな子の手を引いて薬師坂を登って帰る姿を見て今年もウルッときた。








六・二六水害(ろくにろくすいがい)

2017-06-26 21:54:17 | 熊本
 熊本では「六・二六」といえば、昭和28年6月26日の大水害のことを指す。しかし、これを知らない世代が圧倒的になってきた上、昨年の熊本地震の強烈な印象が、「六・二六」をますます風化させていくようだ。
 あれから64年。当時、小学2年だったが、あの時の光景は今でも鮮明に憶えている。朝起きてみると、高台にあるわが家から見える熊本市内が一面の海と化していた。屋根の上で助けを求める人々。行き交う小船。わが家は浸水の恐れはなかったが、裏庭の崖崩れの危険にさらされた。幸いその時は崩れなかったが、数年後の大雨で崩れた。水が引いた後の汚泥と悪臭。DDTの白い粉。家々の軒下にくっきり残る水位のあと。熊本県内だけでも537名の死者・行方不明者を出す大災害となった。
 大災害となった原因の一つ、白川などの河川改修は今日も続けられている。しかし、「想定外の豪雨」に見舞われたら、今でも万全ではないという。やっぱり忘れるわけにはいかない。

▼「六・二六」の惨状

上通り


下通り

驚き! 市川華菜の復活!

2017-06-25 19:32:35 | スポーツ一般
 陸上競技の日本選手権、注目の男子100㍍、200㍍はいずれもサニブラウンがリオ五輪日本代表勢を抑えて優勝した。これで日本の男子短距離陣はますます戦国時代の様相を呈してきた。
 一方、女子は王者・福島千里の衰えもあって、これまた100㍍、200㍍ともに市川華菜が制するという意外な結果になった。市川華菜はニューヒロインというわけではない。2012年のロンドン五輪には女子4×100㍍リレーに出場しているし、地味ながらずっと実績を残してきている。しかし、正直、ピークは過ぎた選手だと思っていたので、ここにきて短距離二冠に輝くというのは驚きだ。再びヒロインの座にカムバックした彼女の身体的能力やトレーニング法などの秘密を知りたいと思う。




6年前にニューヒロインとして注目されていた頃の市川華菜

「一日亭」の数奇な運命

2017-06-23 18:19:10 | イベント
 肥後銀行本店ギャラリーで行われている展覧会「御用絵師、肥後の山水を描く。」を観に行った。
 熊本藩の御用絵師は、矢野派と肥後狩野派だが、展示されているのは風景画を得意とした矢野派の絵師たちにより描かれたもの。
 多くの作品の中に、かつて熊本城二の丸(現在の国立熊本病院附属看護学校)にあった八代松井家のお茶屋「一日亭(いちにちてい)」の図屏風があった。この「一日亭」はその後、数奇な運命をたどることになる。

 明治4年に廃藩置県が施行されると、二の丸にあった「一日亭」は、坪井立町の三浦栄次という人物に払い下げられた。三浦は慶応年間に京町1丁目に「ゆくとせ」という料理屋を開業して成功していた。三浦は「一日亭」を新堀町に移築し、「一日亭」そのままの名前で営業を続けた。さすが松井家のお茶屋だっただけにその風格ある店構えに、地位ある人々の行楽の場所となった。「ゆくとせ」時代から抱えていた多くの芸者に加え、「一日亭」となってからも新たな芸者が加わり大いに人気を集めた。明治7年、熊本に初めて公許の遊郭が誕生することになった。その区域は新堀、京町1・2丁目に限るということであった。新堀、京町が指定されたのは町が劃然と一つの区画として整っていたこと。加えて、「一日亭」、「鱗開櫻」などによって既に花街の体をなしていたこともあった。明治9年の神風連の乱の際には、京町柳川の邸に襲撃を受けた熊本鎮台の聨隊長輿倉中佐が「一日亭」に逃げ込み、髭を剃り落し、使用人の法被を纏って姿をくらましたという逸話もある。全盛を誇った京町の廓、丸3年の栄華の夢も、明治10年の西南の役で焼けて灰燼に帰した。戦争が終結したその年の冬、時の熊本県令富岡敬明は、当時畑地であった二本木一帯に公娼地の許可をした。ここには、「一日亭」など京町から移って来たものや新たに開業するものなどもあった。二本木遊郭は西日本屈指の遊郭として繁栄して行った。「一日亭」は三浦栄次の娘、三浦ジンの経営手腕によって大いに繁盛したが、大正に入り女将三浦ジンの死後、次第に経営は衰微した。昭和10年に行われた「新興熊本大博覧会」のガイドブックに掲載された二本木遊郭の妓楼一覧の中に「一日亭」の名前は既にない。
※参考資料「熊本県大百科事典(昭和57年発行)」「紅燈夜話(大正14年発行)」



一日亭春秋真景図屏風(秋景)江戸時代後期 松井文庫所蔵

八百万の神がすむ山河 ~村治佳織・白洲正子祈りの道を往く~

2017-06-22 18:10:58 | テレビ
 BSプレミアムのプレミアムカフェ選で「八百万の神がすむ山河~村治佳織・白洲正子祈りの道を往く~」を6年ぶりに見た。初見は、東日本大震災の直後だった。あれから6年の歳月が流れ、その間、熊本地震もあり、僕自身の心境も当時とは変わっている。また、今回はゲストの宗教学者・山折哲雄さんから、日本人の独特な宗教観の解説もあって理解が深まったような気がする。後日、まとめてみたい。


白洲正子さん



村治佳織 ~花は咲く~

熊本ラーメンのはなし。

2017-06-20 21:46:24 | 熊本
 先日放送された日テレの「おしゃれイズム」で、MCの上田晋也クンが、熊本市北区高平の熊本ラーメンの店「大黒ラーメン」へ出演者を案内していた。もともと相方の有田クンがその近くに住んでいた頃からのなじみの店だったらしい。この店はわが家から近いので何度か訪れたこともあるが、芸能人がよく訪れているらしい。
 熊本ラーメンの歴史が始まったのは昭和30年代の半ばだったと記憶しているが、これまでの熊本ラーメンで歴代ナンバーワンの美味しい店はどこかと問われたら、僕は文句なしに二本木の黒亭を選ぶ。最近はあまり食べに行かないのでわからないが、今から30年ほど前の黒亭ラーメンの美味さは特別だった。初めて行ったのは、僕が東京から出張で熊本に帰って来た時だった。その時、乗ったタクシーの運転手さんにおすすめのラーメン店をたずねた。すると運転手さんは間髪を入れず「黒亭ですよ!」と言った。さっそく店へ案内してもらったが、まさに今まで味わったことのない感動の美味さだった。それから10年後、会社を辞めて熊本に帰って来てから何度か黒亭へ行ったが、最初の時の感動はなかった。熊本の他の店にもいろいろ行ったが、今でも、あの初めて行った時の黒亭ラーメンを超える味に出会ったことはない。



いよいよ本格的な梅雨入りか・・・

2017-06-19 21:45:50 | 熊本
 明日から熊本地方も本格的な梅雨に入りそうだ。
 田植の時機をうかがっていた農家にとっては恵みの雨になるだろう。
 たしか昨年の今ごろ、豪雨に見舞われ、熊本地震に続いて今度は集中豪雨の追い討ちかという状況だった。坪井川も危険水位を超え、打越あたりの道路は冠水したと記憶している。あんな豪雨だけはゴメンだ。

▼金峰山麓・大将陣の棚田の今


▼秋にはこんな風景に

熊本放送局の歴史

2017-06-18 17:43:37 | 
 熊本市中央区花畑町の花畑公園北側に、NHK新放送会館が完成しオープンした。
 実に54年ぶりに熊本放送局が街中に戻ってきた。3代目のNHK熊本放送局となる。
 昨日、外観だけ眺めて来たが、初代放送局の時の思い出などで、ちょっと感慨深いものがあった。



NHK熊本放送局・新放送会館オープン



2代目NHK熊本放送局(千葉城町 昭和38年3月~平成29年6月)



初代NHK熊本放送局(城見町 昭和3年6月~昭和38年3月)



熊本市役所裏・立駐の前にある初代放送局の跡碑



◆熊本放送局 余談

 昭和26年、幼稚園に通っていた僕は、数人の仲間や先生とともに、城見町にあったNHK放送局に行き、スタジオで童謡「木の芽草の芽」を録音した。その時のスタジオ内の張りつめた空気は今でもハッキリと憶えている。

 先月24日、他界された規工川佑輔先生の著書「評伝 海達公子」によれば、昭和3年7月19日、放送開始したばかりの熊本放送局へ、郷里柳川に帰郷していた北原白秋が招かれ、特別番組が放送された。その時、白秋は自分の愛弟子ということで海達公子を伴っていた。
 さらに、それがきっかけとなり、2ヶ月後の9月24日、熊本放送局の番組「コドモの時間」に荒尾北尋常小学校の児童が出演。海達公子の談話「児童自由詩の作り方」が放送された。

鎌研坂(かまとぎざか)のはなし。

2017-06-16 20:20:28 | 熊本
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ 情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ
 とかくに人の世は住みにくい。」

 これは漱石の「草枕」の冒頭の一節だが、漱石は山川信次郎との小天旅行の時、島崎の岳林寺から鳥越峠まで沢沿いの急坂を登って行った。岳林寺からしばらく登ると、現在は、鎌研坂の登り口という標識が立っている。この鎌研坂が漱石の言う山路だといわれている。しかし、漱石の時代、岳林寺あたりは人家もまばらな山道で、鎌研坂は現在の登り口よりもずっと下から始まっていた。また、当時この道は芳野や河内の行商人などの往来が多かったとも聞く。漱石がこの一節を思いついたのが本当に鎌研坂だったとしても、今日、われわれがイメージするようなロケーションではなかったかもしれない。
 そもそも鎌研坂という名前の由来は、地元では、鎌の刃を研いだように鋭く急な坂道という意味だという言い伝えがあるそうだが、道沿いの沢を覗いてみると水量は少ないが清流が流れ、鎌を研ぐには絶好の岩場が続いている。案外、本当にここで鎌を研いでいたのかもしれない。


草枕の道の出発点・岳林寺


現在の鎌研坂の登り口


前半は竹藪の中を進む道


後半は鬱蒼とした木々に覆われた道


ゴツゴツとした岩だらけの急坂が続く


山路沿いに流れる沢


鳥越の峠の茶屋

熊本城本丸御殿 思い出の宴(4)

2017-06-15 20:05:10 | 音楽芸能
 本丸御殿における宴の大きな楽しみの一つが、斯界で活躍されている邦楽演奏家のナマ演奏を間近で聴けること。初めて本丸御殿で聴いた時、西洋音楽の吹奏楽は長年聴きなれていた僕も、その迫力には驚いた。これまで多くの演奏家の皆さんが出演されたが、僕が聴いた中から、特に心に残っている曲を3曲選んでみた。

★くまもとをどり2013(2013年4月6日)から「檜垣水汲み踊り」
 
 これは本来、野外の二の丸広場特設ステージで演奏される予定だったが、雨のため、本丸御殿に会場を移して演奏されたもの。野外を想定して準備されたためか、参加された演奏家も多く、いつもの本丸御殿の演奏よりも迫力のある音が御殿内に響き渡った。杵屋六花登さんの作詞作曲、中村花誠さんの作調。
 この時以来、この曲をナマ演奏で聴く機会はない。なんとかもう一度、ナマで聴いてみたいものだ。立方は城北高校ダンス部。



★春の宴2012(2012年4月28日)より「おいでまっせ」
 作詞:佐藤幸一、作曲:今藤珠美、作調:中村寿誠のトリオによる軽妙洒脱な新邦楽とでもいったらいいだろうか。このトリオによるもう一つの「とっとっと」と一対をなす。ふだんはザ・わらべの舞踊付きで見ることが多いが、こうして演奏だけで聴いても実に味わい深い名曲だ。今藤珠美社中、中村花誠と花と誠の会による演奏。



★春の宴2011(2011年5月28日)より「俚奏楽 島めぐり」
 民謡・端唄の大御所、本條秀太郎さんが創始した「俚奏楽」の中でも、この「島めぐり」は伊豆諸島や小笠原諸島に残る民謡を集めて歌い込んだ異色の組曲。神津節(神津島)、御蔵島節(御蔵島)、八丈ショメ節(八丈島)などの伊豆諸島民謡に、「夜明け前」、「ギダイ」、「ウワドロ」などの小笠原諸島民謡などが織り込まれている。本條流直門師範の本條秀美さんの演目の中でも最も好きな曲の一つである。本條秀美社中、中村花誠と花と誠の会演奏。合唱は秀美会の子供たち。立方はザ・わらべ。