徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本城 観光客V字回復!?

2018-01-31 17:05:15 | ニュース
 今朝、熊日新聞を手に取ると1面の見出し「熊本城、観光客V字回復 9年ぶり200万人超」の文字が目に飛び込んできた。だがすぐに妙な違和感を覚える。熊本城本丸などへは誰も入っていないはずだが・・・? 記事を見直すと「観光客V字回復」とあり、入場者とは書いていない。本丸御殿が完成した2008年度の222万人というのは入場者数だったはず。さらに記事をよく読むと「二の丸広場周辺の通行量や、付近の市営駐車場の利用台数に基づき集計した」とある。え~、そういうのあり!?なんだかぬか喜びだったような。
 ただ、観光客が最近多いのは実感しているし、それは喜ばしいことには違いない。記事には、クルーズ船の寄港が増えたことによる外国人観光客の増加や大規模イベントなどの効果があったと分析していた。この活況が復興復旧特需で終わらないように願いたいものだ。


2017年9月2日に行われた「熊本復興ねぶた」

有為転変は世の習い…

2018-01-30 10:30:21 | 音楽芸能
 鶴屋百貨店サテライトスタジオ前特設ステージで踊る花童の映像を見ながら、7年前の同じようなシーンを思い出し、有為転変は世の習いとは言いながら、時の流れに、しばし感慨にひたった。

▼現 在
舞踊団 花童〜hanawarabe」フェイスブックより
2018年1月28日
熊本城稲荷神社音頭(詩:南良輔 曲:本條秀美)
はつ喜月若&花童(あかね・ゆりあ・ゆうあ・れいな・かな・きみか・すず・みこと・あやか・ここね)

▼7年前

2011年7月17日
くまもと音頭(詩:小川芳宏 曲:今藤珠美)
ザ・わらべ(くるみ・あやの・かえ)

わが青春の日劇も遠くなりにけり。

2018-01-29 19:44:43 | 音楽芸能
 東京・有楽町の「TOHOシネマズ 日劇」が2月4日に閉館するという。1981年に劇場が閉館し、残った映画館も今回なくなり、懐かしい「日劇」の名前が完全に消えてしまう。一つの時代が終った。
 僕は学生時代、正月に熊本へ帰省し、1週間ほど過ごして再び上京すると、その足で必ず日劇の正月公演「初笑い ほんとにクレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」を見てから寮に帰るのが楽しみだった。当時、観客の入れ替えはなかったので2ステージ続けて見たものだ。おかげで、1回目見た時、植木等さんのアドリブだと思ったセリフが完全に台本通りだった、な~んて思い出も懐かしい。
 当時の公演のプログラムが、ザ・ピーナッツのファンサイト「INFANT LAND」さんに詳細に記されていた。下は昭和41年(1966)のプログラムだが、演目を見ていくと、当時の舞台の様子がまざまざと甦ってくる。


劇場閉館時の日劇(1981年)


1968年のプログラムから(クレイジー・キャッツとザ・ピーナッツ)


日劇ダンシングチーム


▼今年もクレイジーだよ! ザ・ピーナッツ(日劇)
    昭和41年1月7日~14日

第一景 寿・八木節囃子
 ♪八木節ーーーーーー(ザ・ピーナッツ)
 ○恒例 クレージーの新年ご挨拶
          (クレージー・キャッツ)

第二景 新春・歌うザ・ピーナッツ
 ♪悲しき願い
    (ザ・ピーナッツ)
    (クレージー・キャッツ)
 ♪夜霧のしのび逢い(ザ・ピーナッツ)
 ♪キャラバン   (ザ・ピーナッツ)

第三景 クレージーの昨年のヒット・パレード
 ♪愛しちゃったのよ
 ♪さよならはダンスの後で
 ♪柔
 ♪涙くんさよなら
 ♪女心の唄
 ♪夢みるシャンソン人形
 ♪帰ろかな
 ♪赤来の子守唄
 ♪赤坂の夜は更けて
 ♪エレキー
     クレージー・キャッツ
     木の実ナナ
     ザ・ピーナッツ

第四景 新春・ナナの謡い初め
 ♪ギッチラ舟唄 (木の実 ナナ)

第五景 シンデレラものがたり
 シンデレラ姫Aーーー伊藤エミ
 シンデレラ姫Bーーー伊藤ユミ
 その継母ーーーーーーハナ肇
 意地悪な姉妹Aーーー植木等
 意地悪な姉妹Bーーー犬塚弘
 妖婆ーーーーーーーー谷啓
 王様ーーーーーーーー石橋エータロー
 王子様ーーーーーーー桜井センリ
 大臣ーーーーーーーー安田伸
 家来ーーーーーーーーNDT
 従卒--------NDT
 舞踏会の男女----NDT

第六~七景
 配役ーーーーーー第五景と同じ

第八景 チャチャチャ・フラメンコ
 ♪チャチャチャ・フラメンコ
 (木の実 ナナ)

第九景 グラナダ
 ♪グラナダ    (ザ・ピーナッツ)
          (ギター:松宮庄一郎)

第十景 今年も無責任だよ
 ♪スキーツーーーーー(植木 等)

第十一景 クレージーコンサート・ホール
 演奏:スカイ・ライナーズ/日劇オーケストラ

第十二景 新春ヒット・パレード
 演奏:スカイ・ライナーズ
 ♪誠に遺憾に存じますーー(植木 等)
 ♪夢みるシャンソン人形ー(ザ・ピーナッツ)
 ♪明日になればーーーーー(ザ・ピーナッツ)
 ♪500マイルーーーーー(ザ・ピーナッツ)
 ♪大冒険マーチーーーーー(クレージー・キャッツ)
 ♪パブリック讃歌ーーーー(クレージー・キャッツ)
             (ザ・ピーナッツ)
             (木の実 ナナ)
 ♪フィナーレ      (全員、NDT)

上村新さんのこと

2018-01-27 22:14:33 | 友人・知人
 今年に入って一番ショックだったこと。それは上村元三さんのお父様、上村新様の訃報に接したことだ。1月8日、成人式を迎える上村文乃さんをお祝いするためお伺いした時に初めてお聞きしたので余計ショックだった。大晦日の晩、ご家族そろって食事をとられた後、静かに息を引きとられたという。なんという大往生だろうか。
 ご生前、僕はお名前を呼んだことがない。文乃さんのお祖父さんだから、いつも「おじいちゃん」と呼んでいた。今日初めて「新さん」と呼ばせていただく。新さんと初めてお会いしたのはたしか8年前の夏、古桶屋町の普賢寺で行われた城華まつりの時だったと思う。そして翌年の熊本城本丸御殿で行われる「春の宴」からは、毎回のように隣同士に座ってお孫さんの文乃さんがいる「ザ・わらべ」の舞台を観たものだ。そして、ご自身の生い立ちのこと、ご家族のこと、ご趣味のことなどいろんな話を聞かせていただいた。芸事にも造詣が深く、いかにも趣味人といった粋な風情が魅力的だった。こんなお爺さんになりたいと思ったものだ。熊本地震で本丸御殿も使えなくなったが、昨年、城彩苑でお会いした時、またいつか本丸御殿でご一緒しましょうねとお話ししたのが最後の会話となってしまった。享年90歳。合掌。

2014年10月25日、本丸御殿の「秋夜の宴」の映像。最後に隣りに座る新さんが写っている。


「滝流し」と「タモリの勧進帳」

2018-01-26 18:10:03 | 音楽芸能
 長唄「勧進帳」の詞章を調べようとネット検索していたら、「邦楽村blog!」というサイトに入り込んだ。邦楽愛好家のコミュニティ.ポータルという趣旨のサイトのようだ。「勧進帳」のページに見慣れた動画が埋め込まれていた。ちょっとドキッとした。2016年1月の熊本県邦楽協会演奏会で演奏された長唄「勧進帳」のうち、終盤のいわゆる「滝流し」部分を僕がアップした映像だった。こうしてご紹介いただくのはありがたい。解説文を読み進めて行くと、最後に「タモリの勧進帳」の話が付け加えられていた。歌舞伎「勧進帳」の有名な場面、弁慶が関守の富樫の前で、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げる場面。富樫の追及を、豪胆さと機知で乗り切る名場面である。
 「タモリの勧進帳」というのは、10年前、タモリを世に出した大恩人である漫画家の赤塚不二夫の葬儀で弔辞に立ったタモリが、手に持った白紙を見ながら、8分間にわたる弔辞を堂々と述べた出来事のことだ。後日、ワイドショーなどで取り上げられ大きな話題となった。あってほしくないが、もしそんな場面に立たざるを得ない場合は、僕もかくありたいものだ。


歌舞伎「勧進帳」の弁慶(市川海老蔵)



第51回 熊本県邦楽協会 演奏会 長唄「勧進帳」(花と誠の会・蓑里会・うらら会)


▼タモリはこんな弔辞を原稿なしで話した(日刊スポーツ記事より)


弥生人 長寿の秘密

2018-01-25 15:29:11 | 日本文化
「魏志倭人伝」に「百歳まで生きる」と記された弥生時代の人々の長寿の秘密は主食の「赤米」にあったのではないか。米を赤くする色素「タンニン」には強い「抗酸化作用」がある。人間が生きて行く上で不可欠な酸素だが、呼吸をして酸素を取り入れる過程で一部の酸素が有害な「活性酸素」に変化する。この「活性酸素」が増え過ぎると血管や細胞を傷つけ、体の内側を酸化させ、その結果、老化現象をひき起こす。この「活性酸素」の働きを抑えるのが「抗酸化作用」。「抗酸化作用」のある「タンニン」を「赤米」から日々摂ることで老化を防ぐ。この「赤米」こそ弥生人の長寿を支えた秘密ではないかと考えられる。
(NHK総合「偉人たちの健康診断」より)


7世紀後半(約1300年前)に、大和朝廷が築いた鞠智城(きくちじょう)と赤米の田圃

二つの観音像の奇しき縁

2018-01-24 17:47:29 | 日本文化
 幕末から明治時代にかけて活躍した生人形師・松本喜三郎の手による谷汲観音と聖観世音菩薩。谷汲観音は熊本市高平の淨国寺、聖観世音菩薩は熊本市春日の来迎院にそれぞれ納められている。この二つの観音像には奇しき縁があった。
 明治11年、喜三郎は浅草での興業を最後に東京を離れ、各地を巡業しながら熊本に帰って来る。彼の最高傑作との評価が高い谷汲観音はこの時点では浅草寺伝法院の所蔵となっていたが、喜三郎は松本家の菩提寺である淨国寺に奉納したいと願っていた。その願いをかなえるため奔走したのが喜三郎の興業を世話していた永野弥七という人。実はこの人、来迎院のご住職・永野隆光上人の親戚にあたる。上人は前々から谷汲観音を来迎院へと願っていた。事情を察した喜三郎が、その替わりとして新たに制作したのが聖観世音菩薩なのである。生人形の興業用として作られた谷汲観音に対し、聖観世音は最初から観音像として作られた。
 ちなみに観音像が身に纏う衣装は経年劣化するので、何年おきかに修復するのだそうだが、数年前に修復を手掛けたのが博多織屋次平さん。二つの観音像の修復に約2年の歳月を要したそうだ。

▼左が谷汲観音、右が聖観世音菩薩
 

ブラタモリを見ながら…

2018-01-23 16:49:37 | 日本文化
 先週の「ブラタモリ」は田園調布だった。僕が学生時代、東横線で通学したのはもう50年も前のこと。田園調布駅で降りた記憶はない。当時も高級住宅街として名高い地区だったので縁のない駅だった。だが、となりの多摩川駅では何度も降りた。当時は多摩川園という遊園地があったので駅名は多摩川園前だったのだが。何の用事で降りたかと言うと、巨人軍多摩川グラウンドの練習を見に行くためだった。長嶋・王の全盛期だった。
 番組の中で「国分寺崖線」の話が出た。6年ほど前の「ブラタモリ-国分寺編」の時に出たが、「国分寺崖線」とは、多摩川が10万年の歳月をかけて武蔵野台地を浸食することによってできた30kmにも及ぶ「浸食崖」のことである。田園調布辺りまでそれが延びていたとは!。
 6年前、「ブラタモリ-国分寺編」を見ながら、僕は熊本市北部の湧水地「八景水谷(はけのみや)」のことを連想したことを思い出す。それは「国分寺崖線」のことを、地元の人たちは「ハケ」と呼ぶという話が出てきた時だった。「ハケ」というのは原始日本語で崖のこと。崖は台地の地下水が湧く。「八景水谷(はけのみや)」の名前の由来は、江戸時代中期、熊本藩主の細川綱利公がここに御茶屋を造り、辺りの景観を近江八景や金沢八景などになぞらえて「八景水谷」と名付けたと伝えられる。しかし、もともと地元民はこの崖のことを「ハケ」と呼んでいたらしい。ここも「国分寺崖線」と同じく、菊池台地の崖端にあり、湧水量が豊富である。かつての湧水量に比べれば随分減ったと言われるが、世代を継いで残すべき大事な熊本市の宝である。


八景水谷公園

坪井川歴史ロマン

2018-01-22 21:09:42 | 熊本
 城下町熊本を象徴する川、坪井川。幼い頃から慣れ親しんだ川の姿は大きく変容したが、今でも「母なる川」であることに変わりはない。
 その坪井川を河口から遡りながら、主な船着場の歴史を振り返ってみた。

▼百貫港

 百貫港は、熊本市の都心部より西方約10kmの坪井川河口にあり、歴史は古く加藤清正が入国後築いたといわれ、細川藩時代から明治の初め(三角西港が開港するまで)にかけては、熊本の外港として賑わっていた。また、大正5年から昭和19年までは熊本市田崎町から同港まで電車が走り、鮮魚介・木材雑貨、その他の交易上の重要な港となっていた。

▼高橋

 古くから高橋の津と呼ばれた港町であり、加藤清正が入国してから本格的な河口港として整備された。加藤氏の後に入国した細川忠利は肥後五ヶ町制度を設け、高橋をその一つとした。高橋は城下と海路を結ぶ河口港として、城下の日用消費物資の大半を積み降ろし発展した。高橋港は島原、筑後、柳川、天草、八代、芦北などや大坂、鹿児島、長崎からも荷船が入った。貨物の主なものは天草、芦北の薪炭、天草の海産物、鹿児島の泡盛、焼酎、砂糖、三池の石炭、長崎の舶来品、その他陶磁器、瓦、石灰、塩などで、熊本から肥後米、雑穀などが移出された。町には問屋が軒を並べて繁栄し、これらの貨物は、高橋平田船で坪井川を上り下りした。港は明治以降、鉄道の開通で舟運の時代が終わり、急速に衰えた。

▼船場

 この一帯は古くは湿地だったが、加藤清正は坪井川を付け替える時、この湿地帯を利用して水路とし、両側に船着場を設けて高橋港から舟が上がれるようにした。船場の名の由来である。大正の初めまでここには高橋舟が上り、さまざまな物資が運ばれ、城下町の需要を満たし、新町や古町の繁栄をもたらした。

▼厩橋

 加藤清正が熊本城を築城する頃まで、白川が大蛇行しており、今の長塀前の辺りを白川が流れていた。清正はこの河運を利用して、築城に必要な石材、木材ほか必要な物資を運んだといわれる。その後、白川を直線化して坪井川と分離し、坪井川は城下町物流の大動脈となった。厩橋から竹の丸辺りにかけては船着場や船溜まりが造られた。

▼新堀

 明治7年に錦山神社(加藤神社)が城内から新堀に遷座し、下を流れる坪井川の船着場には、天草、島原を始め九州各地から錦山神社の参拝客が次々と港付けし、錦坂を登ったのである。そして、京町の本通りには公許の遊郭が出来、西南戦争が起きる明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は港町、門前町、商業の町、そして遊郭の町として栄えたのである。

▼舟場

 坪井川を高橋の津から上る舟の終着場であった名残りの舟場。かつては坪井川の支流が奥まで入り込み、帆をたたんだ三十俵積みの平田舟が、竿さしながら荷を運んだ。今では支流も姿を消し、沼沢地が広がっており、バス停名にのみ名残りを残す。

※参考文献 熊本県大百科事典(熊日新聞社)、ふるさと―史跡と風土をたずねて(熊本県文化協会)

相撲の相撲たる所以

2018-01-20 22:23:20 | 日本文化
 今日、大相撲の中継を見ていたら、解説の舞の海さんがしみじみと「大相撲の吊屋根を残してくれてよかった」と言っていた。なぜかアナウンサーもそれ以上話をふくらませず、それっきりで終わったが、察するに、舞の海さんは「相撲は単なるスポーツではない」という趣旨のことを言いたかったのだろう。
 僕が相撲に興味を持ち始めた昭和27年頃まで、土俵は四本柱で支える神明造りの屋根に覆われていた。地方巡業も屋外で行われることが多く、基本的には本場所と同様の土俵が造られていた。神社と同じ神明造りは、まさにそこが神事が行われる神聖な場所であることを意味している。テレビ中継の時代が始まることなどもあって四本柱が廃止されることになったが、屋根は天井から吊り下げる方式で残った。
 1300年前の朝廷行事「三度節」(さんどせつ)の一つとして始まった「相撲節会」(すまいのせちえ)を起源とする相撲は他のスポーツとは根源的に異なる。昨今の相撲界を見ていると、この伝統を守ろうとしているのか、あるいはそうでないのかよくわからない。次代に継承していくべき相撲のあるべき姿を、今、われわれは原点に立ち戻って考え直す時期なのかもしれない。


現在の吊屋根


四本柱の時代

熊本地震 義捐能 ~ 復興を祈って ~

2018-01-19 13:41:30 | 音楽芸能
 熊本の能楽の歴史は加藤清正の肥後入国に伴った金春流武家能役者・中村靭負に始まるといわれます。能をこよなく愛した細川家の時代になると、喜多流(本座)と金春流(新座)の二流が御流儀となり、本座は祇園社(北岡神社)に奉仕する喜多流友枝家が、新座は藤崎八旛宮に奉仕する金春流桜間家が肥後能楽の高い水準を支えたといわれます。
 そんな歴史を受け継ぐ熊本の能は、今日でも喜多流、金春流、両流の演能は度々見ることができますが、他流派の演能はなかなか見ることができません。
 この度、「熊本地震義捐能」として観世流の演能が行われることになりました。室町時代に観阿弥、世阿弥が大成した能を継承し、今日、最大の流勢を誇る観世流。熊本が誇る観世流女性能楽師・菊本澄代さんがシテを務める「羽衣」をご覧になりませんか。

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ハーンと大地震と銚子

2018-01-18 15:46:56 | 文芸
阪神・淡路大震災から23年、東日本大震災からやがて7年、そして熊本地震から1年9ヶ月に際して

 明治29年(1896)ラフカディオ・ハーンは、獲り入れたばかりの稲むらに火を放って村民に大津波の襲来を知らせ、高台に避難させて多くの命を救った村長の浜口五兵衛という人物の物語「生ける神(A Living God)」を著した。ハーンは、この年の6月、2万2千人もの犠牲者を出した三陸大津波に心を痛め、江戸時代後期に発生した安政南海地震津波の浜口梧陵の逸話をもとに再話を試みたのだろう。この2年前、ハーン自身も熊本で2軒目の居宅、坪井西堀端の家に住んでいた明治27年8月、地震に遭ったことがある。友人のチェンバレン宛の書簡には「地震が頻発し、庭で夜を明かさなければならなかった」と恐怖の一夜を書き綴っている。そんな実体験も浜口梧陵の逸話の再話を促したのかもしれない。
 浜口家は紀州の出だが、江戸時代前期より総州銚子で醤油業を創業し、後に銚子の経済を支える産業の礎となる。浜口梧陵はその七代目で銚子と紀州を行き来していて、たまたま紀州に帰っていた時に件の大津波が起きた。
 銚子と言えば思い出すのが「銚子大漁節」。元治元年(1864)、銚子はかつてない鰯の大漁で、これを祝って創られたのが「銚子大漁節」。ハーンは「銚子大漁節」を英訳し、「漁師の数え歌」として欧米に紹介している。これも彼の再話文学の一つと言えるのかもしれない。
※右の写真はハーンの坪井西堀端旧居跡の前にあった地蔵堂(数年前に撤去された)


♪ Firstly,
  The first ship,filled up with fish,
  squeezes her way through the river-mouth,with great shouting.
  O this ship of great fishing!
♪ Secondly,
  From he offing of Futaba even to the Togawa,
  the ships,fast following,press in,with a great shouting.
  O this ship of great fishing! 
♪ Thirdly,
  when,all together,we hoist our signal-flags,
  ee how fast the cargo-boats come hurrying !
  O this ship of great fishing!
♪ Fourthly,
  Night and day through the boiling be,there is still too much to boil-oh,
  the heaps iwasi from the three ships together.
  O this ship of great fishing!
♪ Fifthly,
  whenever you go to look at the place where the dried fish are kept,
  never do you find any room-not even a crevice.
  O this ship of great fishing!
(以下省略)

清正公 もがりの丘

2018-01-16 19:27:44 | 歴史
 JR上熊本駅から京町台へ登る新坂は明治24年(1891)に九州鉄道が熊本まで開通した時、池田駅(上熊本)から坪井方面へ馬車を通すために新設された道路ですが、その登り口から左手へ分かれる細い坂があります。これが昔、「赤尾口の坂」と呼ばれていた坂で、この坂の南側の丘の上に、清正公の頃まで熊本城の外城として、北からの侵入を防ぐ役割を持つ「赤尾丸城」がありました。慶長16年(1611)に清正公が亡くなった時、この赤尾口の丘の上で荼毘に付され、遺骸は中尾山に運ばれ埋葬されました。殯(もがり)が行われた赤尾口の場所には庵が建てられ、「静慶庵」と名付けられました。今では「静慶庵」もなく、九州森林管理局の土地となっていますが、明治42年の「清正公三百年遠忌」の際に「静慶庵」の跡に碑が建てられています。

▼加藤公殯處碑


≪碑文≫


▼赤尾口の西方に、埋葬された中尾山の浄池廟とその後方に金峰山を望む

インスタ映え

2018-01-15 23:08:17 | 世相
 テレビで「インスタ映え」とか「SNS映え」とかいう言葉を聞かない日はない。言葉の定義もハッキリしないが、こちとらは「ブログ」に「YouTube」に「Facebook」と手を出し、さらに「インスタグラム」まで手を出す余力はない。それよりも、10年以上も前の古いコンデジをいまだに使い、肝心の腕前もちっとも上がらず、手を出す方が無理というもの。
 さりながらも、これまでブログにアップした写真の中に「インスタジェニック?」な写真がないかと探してみた。とりあえず下の5枚をピックアップしてみたがいかがだろうか。


熊本城の石垣


熊本城の桜吹雪


小雪舞い散る舞初め(水前寺成趣園)


本丸御殿の舞初め


熊本城薪能(奉行丸広場)

第53回熊本県邦楽協会演奏会より

2018-01-14 19:25:03 | 音楽芸能
 この演奏会を見るのも今年でたしか8回目。今回の僕の見どころ聞きどころは、まず「娘道成寺」。この曲はテレビの歌舞伎中継などで何度か見ているが、先日、「にっぽんの芸能」で坂東玉三郎さんの歌舞伎女方として役に込めた想いを聞いたばかりなので、また今までとは違った聞き方ができたような気がする。
 次に、この演奏会初登場の「俚奏楽 島めぐり」。本條秀美さんのお得意曲だが、今回は、7年ほど前に本丸御殿で初めてこの曲を聞いた時以来の感動があった。本條さんのコンセントレーションが相当高かったようだ。
 「雨の五郎」は久しぶりの登場。前回登場の映像と聞き比べてみたい。

▼長唄・囃子「雨の五郎」--- 花と誠の会・蓑里会・うらら会



▼長唄・囃子「娘道成寺」--- 花と誠の会・蓑里会・うらら会

花のほかには松ばかり 暮れ初めて鐘や響くらむ