徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

あの日から35年

2020-08-12 20:21:04 | その他
 520人の犠牲者を出した日航ジャンボ機の墜落事故から今日で35年が過ぎた。当時、栃木県の黒磯(現那須塩原)に在住、この数日前に、まだ小学生や幼稚園児だった息子たちをANAの子供のひとり旅(ジュニア・パイロット)を利用して熊本まで帰省させたばかりだった。事故の第一報を聞いた時、表現しがたい戦慄におそわれたことを思い出す。一生忘れることのない出来事だ。
 今日も御巣鷹山に眠る犠牲者の皆様のご冥福を祈り手を合わせた。


法界廻向(桧垣のこぼし坂に坐す野仏)
「法界廻向(ほっかいえこう)」縁のない人であっても供養するという意。

小ネタ集

2018-11-08 22:58:15 | その他
◇今しか見れない
 二の丸広場や加藤神社など熊本城周辺へ行くと必ず出会うのが黄色いユニフォームの観光ボランティアガイドが観光客の集団を引き連れて案内をする光景。そしてガイドの話に耳をかたむけると、必ずと言っていいほど聞こえるのが「今しか見れませんよ!」という言葉。復旧工事中の熊本城は今しか見れないということなのだろうが、よくよく考えてみると、人はいつでも「今」しか見れない。

◇最近の小学生
 中坂を歩いていると、下校中の壺川小学校の男女7、8人の集団と出くわした。しばらく一緒に歩きながら彼らの話を聞いていた。その中の一人がある先生のことを形態模写付きでディスって大受けしていた。テレビのバラエティ番組をよく見ているせいかスベらない。思わず僕も笑ってしまった。

◇ソフトのアップグレード
 知人から、筆まめの新しいバージョンをインストールしたのだが動かないので見てほしいという依頼。原因もよく分らないのでアンインストールしてインストールし直したら動いた。最新バージョンはなんと29。僕が初めて筆まめを使ったのはたしかバージョン6くらいだったと思う。ここ数年はアップグレードもサボっているが、いったいいつまでアップグレードが続くんだろうか。


加藤神社から熊本城大小天守の復旧工事を見る観光客

夏の終りの花たち

2017-08-31 20:36:16 | その他
 8月も今日で終わり。日差しは強いものの、これまでとは明らかに違う涼しい風が吹き渡って来るので熊本城まで歩いて行ってみた。道すがら見かける花々にも、なんとなく夏の終りの寂寥感を感じてしまう。
 海達公子の自由詩からひとつ。
「秋の朝」
  朝顔が 少ししか 咲かんやうになつた
  こほろぎが どつかでないてゐる
  足にさはつた夏水仙の花も しぼんでゐる
(赤い鳥 昭和3年1月号 尋常小6年)


ノウゼンカズラ


朝顔

いずれ アヤメ か カキツバタ

2014-05-10 20:24:15 | その他
 立田山湿性植物苑のカキツバタを見たくなり、母を連れて見に行った。出会った人の話では、残念ながら3日ほど盛りを過ぎたそうでしぼみ始めていた。それでも十分に艶やかさの名残りは味わえた。

「何れ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」

 南北朝時代の軍記物語「太平記」の一節に典拠を持つこのことわざは「どちらも優れていて選び迷うこと」の意である。
 ところで、僕はつい最近まで「ショウブ」「アヤメ」「ハナショウブ」「カキツバタ」の違いを知らなかった。実は四つとも別ものだそうである。まず、端午の節句にお風呂に入れる「ショウブ」だけは他の三つと異なり「サトイモ科」の植物だという。残りの三つはいずれもアヤメ科の植物だが、「アヤメ」は乾燥した山野に生える植物で水辺に生えることはないそうだ。となると「水郷潮来のあやめ祭りのアヤメってホントにアヤメ?」てな疑問もわいてくる。「ハナショウブ」はもともと水辺や湿原に自生する「ノハナショウブ」が栽培品種化されたもので、肥後六花の一つ「肥後花菖蒲」もその一系統である。「カキツバタ」も水辺や湿地に群生する植物だが園芸植物となったのは「ハナショウブ」よりも歴史が古いという。
 ちなみに、能「杜若(カキツバタ)」は室町時代の金春流中興の祖、金春禅竹によって作られた。




▼「潮来あやめ踊り」とも呼ばれる「潮来音頭/潮来甚句」

【備考】
 「潮来甚句」は「牛深ハイヤ節」を源流とすると言われている。

花へんろ

2014-03-24 19:28:14 | その他
 今日は母と家内を連れ、春爛漫の一日を次の行程で巡った。

・笹尾の枝垂桜
・吉次公園
・半高山公園
・荒尾メディア交流館(海達公子まつり)
・JR新玉名駅前・菜の花畑
・玉名・梅林天満宮


笹尾の枝垂桜は気品漂う趣き。


吉次峠の桜の枝越しに田原坂を望む。


新玉名駅前は菜の花の匂いでむせ返るよう。

木原美樹さんは今・・・

2013-11-15 20:51:27 | その他
  4年前、「NNNドキュメント'09 ~20ヘクタールの希望 木原美樹27歳 私は『農』に生きる~」という番組が放送された。永年、祖父が守ってきた20ヘクタールの米づくりを継いだ、木原美樹さんの苦闘の日々を見続けたドキュメンタリーだった。農業の中でも米づくりの大変さ、困難さを実感を伴って見せてくれた番組で、放送後、かなり反響があったらしい。彼女が農業を営んでいる山口県の佐山というところは、僕が防府に住んでいた頃、よく近くを通ったところでもあったので、余計印象強かった。
 最近、減反政策が廃止されるなどというニュースが流れたので、ふと木原美樹さんのことを思い出し、今どうしているだろうと気になった。4年経っているから31か32歳になっているはずだが、などと思いながらネットで「木原美樹」と検索してみるとすぐにブログが見つかった。既に結婚し、 中澤という姓に変わったようだ。子供も生まれたらしい。優しそうな旦那様と一緒に元気に農業に励んでいる様子を見て何だかホッとした。これからも大変なことは変わらないだろうが、どうか家族で力を合わせて頑張ってほしい。

   ▼中澤美樹さんのブログ「おこめちゃん日記3

山口県の旅

2013-10-29 17:01:53 | その他
 昨夜のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」はゲストに阿川佐和子を迎えて山口県下関市の旅の前編だった。下関の豊北町に阿川という地区があり、かつて父の阿川弘之とともにルーツ探しに来たことがあるという阿川佐和子のリクエストによる旅だった。
 番組を見ながら、6年前の家内との山口旅行を思い出した。旅行の主目的は防府勤務時代の同僚の墓参だったが、旅の最後に悲しい偶然が待っていようとは思いもしなかった。防府での墓参を済ませ、津和野や萩、長門へ足を延ばした後、北浦街道沿いに西下し、豊北町の角島を見物した後、豊北町の神田上という地区に住んでいるかつての同僚を訪ねた。すると玄関に「還浄」の張り紙が。まさかと思いながらおそるおそる声をかけると、懐かしい元同僚が現れ、「実は妻が2週間前に逝ってね」と衝撃のひと言。社宅仲間で奥様とも親しかった家内は僕以上に衝撃を受けたようだった。弔いに始まり、弔いに終った山口旅行だったが、そろそろもう一度訪れてみたいなという思いがうごめき始めた。


角島大橋


映画「四日間の奇蹟」のセットの礼拝堂(その後撤去されたらしい)

モニターたちとのお別れ

2013-10-21 22:53:11 | その他
 マイクロソフトのOS「ウィンドウズXp」のサポートが来年4月9日で終了するが、これによるユーザーへの影響がメディアで取り上げられている。僕は「Windows7」機とともに、まだXpのパソコンも1台使っているので正直不安だ。
 そんな折、今日、Xp機で使っていたブラウン管式のモニターを2台処分した。処分したといっても無料の家電廃品置場に持って行っただけなのだが。この2台のモニターはXp全盛時代に使っていたモニターのうち最後まで残っていた2台で、10年以上にわたって仕事に趣味に使ってきて愛着も強かった。もう何ヶ月も前に色がよく出ないなどの不具合が発生したため、使わなくなっていたのだが、いざ捨てるとなると何だかしのびない気がして今日までズルズル部屋の隅に置いていた。
 パソコンやその周辺機器に限らず、例えば車を買い替える時や、その他の家電品を廃棄する時など、僕はこれまで無造作に捨てていた気がするが、先般、「こんまり流整理術」を見ていて、その中に「捨てる時には感謝の気持ちを込めてお別れすること」とあって「ハッ!」と気付かされた。今までの自分を大いに反省した。今日はモニターたちと別れる時に「長い間頑張ってくれてありがとう!」と心の中でつぶやいた。

日本の伝統文化 大丈夫!?

2013-10-19 22:20:16 | その他
 朝から熊本城二の丸公園に「武田流騎射流鏑馬(たけだりゅうきしゃやぶさめ)」を見に行く。特設馬場の縄張りの程よいところに陣取って開始を待つ。3回の騎射をする前に神事があったり素馳(すばせ)が行われたりと結構待ち時間が長い。気がつくと隣りにうら若き外国人の女性が一人、芝生に腰を下ろして開始を待っていた。他にも外国人の姿が結構目立つ。やがて騎射が始まった。それとなく周りの様子を観察していると、どうも日本人より外国人の方が熱心に見ている。写真撮影が目的の「カメラじじい」(かくいう僕もそうだが)はともかく、日本人の観光客は「何これ!やぶさめ、フ~ン、行こ!」てな感じの人が多い。外国人の観光客はもともと日本文化に興味があってやって来た人が多いのだろうが、明らかに日本人との観る眼の温度差を感じた。オイ!日本文化、大丈夫かぁ?


流鏑馬


能楽


邦楽と日本舞踊

今朝の風景 ある老夫婦

2013-08-21 12:59:51 | その他
 今朝、中坂を車で通りかかった。中坂というのは坪井方面から京町台に登る狭い急坂だが、ここを歩いて下って行く老夫婦と思しき二人連れが眼に入った。妻は腰が大きく曲がり、杖をつきながらの足取りは覚束ない。夫はこの妻の片腕を両手で掴みながら付き添っている。朝と言ってももう10時近く、このところ連日の猛暑が容赦なく二人に降り注いでいる、にもかかわらず、二人は日傘をさすこともままならない。咄嗟に「これは見過ごせる状態ではない」と思い、車を停めた。「どちらまでいらっしゃいますか?」と声をかけた。すると意外にも腰の曲がった妻の方から「ありがとう!すぐそこのお寺までですから…」と品の良い物腰で返事が返ってきた。夫は僕の顔を見ながらにこやかに頷いている。中坂の登り口にある専念寺へ墓参りにでも行くところらしい。「お気をつけて」とだけ言って僕は発車した。バックミラーの中の二人の姿を目で追いながら僕は「熱中症にならないだろうか…」とか「子供たちは遠く離れて暮らしているんだろうか…」とか「他人事ではないが、老々介護は大変だな…」とか、いろんなことが頭の中を駆け巡った。

世の中はせまい! ~ 今日のサプライズ ~

2013-04-11 16:57:45 | その他
 東京に住んでいる大学の後輩で水球のチームメイトでもあったA君から何年ぶりかの電話がかかってきた。その後のお互いの情報交換をした後、A君が「高校の同級生でKKさんという人を知っていますか?」という。実はA君は数年前から、小平市にあるブリヂストン・スイミングの会員になっているのだが、そこの女性インストラクターの父親が僕と高校の同級生らしいというのだ。さっそく高校の同窓会名簿で調べてみた。しかし、同級生にその名前はなく、1級下の名簿の中にその名前があった。そこでハタ!と気づいた。なんとなく聞き覚えのあるその名前は僕の妹の親友の兄貴ではないかと。妹の携帯をコールして確認すると間違いなくそうだという。そしてまたなんという偶然か、今まさにその親友のKKさんの妹と一緒にいるのだというではないか。どうもKKさんの娘さんが父親の卒年を1年間違えていたらしい。その娘さんは東京の体育系の大学を卒業してからブリヂストン・スイミングで働いていることなど、詳しい情報まで即わかってしまった。世の中はせまい!


危機一髪で破壊を逃れた吉野ヶ里遺跡

2013-04-03 16:06:27 | その他


 1990年の夏、僕は東京本社から佐賀県の鳥栖工場に転勤した。工場の脇を走る国道34号線を佐賀市に向かって車で10分ほど西下すると吉野ヶ里遺跡がある。僕が転勤したちょうどその頃、吉野ヶ里は騒動の渦中にあった。もともと脊振山地の南麓丘陵地帯にある吉野ヶ里には企業を誘致するため工業団地が開発されることになっていた。そのために事前の文化財発掘調査が行われた。その結果、かなり大規模な遺跡が広がっているらしいことはわかったものの、一部を保存し、大部分は予定どおり工業団地として造成されることになった。そして1989年に入り、造成工事が始まった。遺跡が破壊される前に考古学関係者による最後の見学会が行われることになった。その見学会のメンバーの中には朝日新聞やNHK等の記者たちがまじっていた。調査員の口から「これは大変な遺跡では・・・」との声が漏れる。翌朝、朝日新聞一面には「邪馬台国時代のクニ・・・」の文字が大きく踊った。NHKは朝7時のニュースワイドで「女王卑弥呼の住まいか・・・」のアナウンスが流れ、日本中が大騒ぎとなった。その日から吉野ヶ里フィーバーが始まった。遺跡の保存や工業団地計画凍結の世論の高まりにより、1990年に入ると吉野ヶ里は史跡として指定され、全体が保存されることになった。そんな騒動のほとぼり冷めやらぬ時に僕は初めて見学に行った。まだ遺跡として整備が始まったばかりであまり見るべきところはなかった憶えがある。あれから23年、久しぶりに訪れてみたいと思っている。

▼万歳くずし(佐賀県民謡)


♪御代も栄える 千代に八千代に 万々歳のご繁盛
 エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ

♪めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
 エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ

♪門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
 エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ

マイブログ2012 ベスト10(パート4)

2012-12-24 20:01:34 | その他
華やかに「秋夜の宴スペシャル」!(10月13日)
 さて、最後の一つはやっぱり年間80本もの記事をアップしたイチオシ“わらべ”ネタから。写真はいずれもクリックしてラージサイズへ。

 “わらべ”の踊りを見始めて3年が過ぎた。初めて見たのは2009年10月のイベント「みずあかり」の時だった。“わらべ”はNTT桜町ビル前の特設ステージで踊っていた。「俵はごろごろ」のメロディと太鼓の音に魅かれて幾重にも取り囲んだ人垣のすき間から垣間見た。そこには可愛らしい女の子たちが、まるでおとぎ話のような世界を繰り広げていた。その日からすっかり“わらべ”の踊りと演奏される邦楽の世界のとりこになってしまった。それから3年、“わらべ”はすっかり成長し、今や大人の女性の色香を感じさせるようになった。おかげで僕も日本舞踊や邦楽のことがだいぶわかるようになった。もし“わらべ”に出逢わなかったらそんなことなど一生知らずに終っただろう。