徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「くまもと全国邦楽コンクール」も中止に!

2020-07-31 20:59:07 | 音楽芸能
 若手邦楽演奏家の登竜門となっている「長谷検校記念 くまもと全国邦楽コンクール」は今年第26回目を迎え、当初は6月14日開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、開催を8月10日に延期することになっていたが、今日事務局より中止のアナウンスがあった。
 このところの感染再拡大に、開催を危惧していたが、中止という結果になったことは残念だがやむをえない。特に今年は「長谷幸輝検校没後100年記念」という特別な年だっただけに余計残念だ。
 こうなった以上は、来年のコンクールは今年の分も合わせて特別な企画をお願いしたいものだ。


第17回コンクールで実行委員長の幸山熊本市長から表彰を受ける最優秀賞の佐藤亜美さん(箏曲の部)


第19回最優秀・前川智世(筝曲)、第18回最優秀・中彩香能(三味線)、第16回最優秀・石垣征山(尺八)の皆さん

漱石も眺めた棚田の風景

2020-07-30 19:25:26 | 熊本
 長かった梅雨がやっと明けると猛暑が襲ってきた。花園町の図書室を覗いた後、金峰山東麓の大将陣の棚田まで足を延ばしてみた。青々とした稲が育ちつつあった。ここのロケーションが大好きで四季折々の風景を見に来るのが楽しみだ。鳥越の峠の茶屋から金峰山に向かう山道からこの棚田を見おろすことができる。実はこの道は夏目漱石の「草枕」の題材となった小天旅行の時、漱石も通った道。漱石の目にはどう映っていたのだろう。

 夏目漱石の小説「草枕」は明治30年(1897)の暮れから31年の正月にかけての小天温泉への旅をもとに描かれているといわれるが、実は漱石は31年の夏にも小天温泉を訪れている。この時は早朝から日帰りで、いつも一緒の山川信次郎を含む5人連れ。小天湯の浦で昼食をとり、前田案山子の本宅を訪れた後、前田卓(那美さんのモデル)の案内で岩戸観音の霊厳洞や鼓ヶ滝を見物し、鎌研坂を通って熊本に帰ったという。この小天旅行の体験も小説に織り交ぜてあるのかもしれない。


青田風が吹き渡る大将陣の棚田


棚田を見おろす道は漱石が小天温泉へ向かって通ったであろう「草枕の道」


豪雨とコロナと

2020-07-29 19:09:13 | 時事
〇令和2年7月豪雨と日本三急流
 昨日、最上川氾濫のニュースが流れていた。さっそくブログ友で酒田市在住の"cake"さんのブログへ状況をおたずねしてみる。cakeさんによれば氾濫したのは最上川中流域の大石田町などで、酒田市は大きな被害は無かったようでひと安心。
 日本三急流のうち、熊本の球磨川氾濫は多くの尊い命が失われるなど甚大な被害を蒙ったが、もう一つの富士川も記録的な豪雨に見舞われたものの大きな被害はなかったようで、三急流で明暗が分かれた。もちろん降水量や地形などの違いはあるにせよ、今回の三急流の被災状況の比較は、今後の治水対策に役立てられることがあるかもしれない。


最上川河口  (cakeさん撮影)


〇コロナウイルス感染の広がり
 今日は全国の感染者数がついに1000人を超えたようだが、熊本も感染者が急増しており、今日新たに16名、のべ152人に達した。テレビでは専門家らが感染者数で一喜一憂するなというが、やっぱり報道されるのはまず感染者数。感染者数が蔓延度合いの代用特性として見られるのはしかたがない。しかも相手は未知のウイルス。このウイルスを科学的に説明できる人など、まだ世界中ひとりもいない。恐れるなというのはどだい無理な話だ。長洲町や山鹿市ではクラスターが発生したと伝えられるが、いつ他の市町村に飛び火するかわかったもんじゃない。熊本県と熊本市は27日、感染リスクを1段階引き上げ「レベル3(警報)」とした。蒲島知事は県外への移動自粛を県民に要請したが、これは裏返せば県外からの移動も自粛してほしいということ。こんな状況下「Go Toトラベル」だの「ワーケーション」だの。今の政府の拙策ぶりには恐怖感すら覚える。

同世代の訃報

2020-07-27 19:10:34 | 
 今日、二つの訃報を聞いた。デザイナーの山本寛斎さんは僕の二つ年上、そして歌手の弘田三枝子さんは一つ年下。いずれも同じ時代を生きてきた同世代であり特別な寂しさを覚える。

 山本寛斎さんは僕が社会人になって1、2年経った頃、世界のファッション界にデビュー、以来、常に第一線を走り続けてきた。そのバイタリティや創造性にはただただ敬意を表するしかなかった。晩年には熊本県山鹿市の「山鹿元気プロジェクト」のアドバイザーを3年間務めた。「観光戦略ポスター」や新しいデザインの灯籠まつり衣装を発表するなど「山鹿灯籠踊り」をモチーフとした新しい山鹿のイメージを発信した。その個性的な感性には山鹿市民の間でも賛否両論があったが、力強いメッセージ性はネットなどを通じて山鹿のイメージアップに貢献したことは間違いない。哀悼の意を表します。合掌


山本寛斎さんデザインのポスター


 弘田三枝子さんは僕が高校に入った頃、ヘレン・シャピロのカバー曲「子供ぢゃないの」でデビュー。当時まだ中学3年生。小さい頃からジャズやポップスを歌っていたという歌唱力と愛らしいルックスでたちまち人気歌手となった。その後もコニー・フランシスのカバー曲「ヴァケイション」やイタリアのミーナのカバー曲「砂に消えた涙」などオリジナルに負けないヒット曲が続いた。60年代の半ば頃、一時低迷したが、69年の「人形の家」で復活。この曲は彼女の代表作となった。その後、美を追求するあまりか、方向性が僕には理解できなくなり、歌手としての活躍の場を失っていったのは残念でならない。哀悼の意を表します。合掌



 人吉旅館 復興プロジェクト(ご支援のページ)

「翁プロジェクト」と細川家

2020-07-26 21:02:29 | 伝統芸能
 2020年東京オリンピック・パラリンピックを機に、文化庁が日本の文化芸術の振興を図り、その魅力を発信するため、日本全国を舞台に展開している「日本博」事業の一つに「翁プロジェクト」がある。
 今を去ること650年の昔、観阿弥・世阿弥によって大成され今日まで受け継がれてきた能。さらにその600年以上も前に成立していたといわれ、能の上演の最初に必ず演じられていたのが「翁(おきな)」(式三番)である。「翁」は能楽の源流とされるが、「翁」の成立やその意味は謎に包まれている。「翁プロジェクト」は、いま一度「翁」を見つめ直し、世界に発信しようというもの。
 その「翁プロジェクト」の一環として現在、永青文庫(東京都文京区目白台)において「翁 ―大名細川家の能の世界―」展が開かれている。細川家では初代・細川幽斎(藤孝)を始め、歴代の藩主が能の文化に心を寄せ、藩主たちも自ら舞台に上がった。特に、文武両道に秀でた初代幽斎は七世観世元忠について稽古し、八世観世元尚に師事、謡、仕舞、囃子に通じ、中でも太鼓は名手と呼ばれる程の腕前だったという。以来、二代忠興(三斎)から昭和に至るまで、歴代当主は能を愛好した。一方、初代熊本藩主の細川家三代忠利の頃からは、金春流、喜多流の能楽師たちを庇護した。細川家の拠点となった熊本や東京には、各時代に愛用された多くの能面・能装束・楽器や小道具など約900点の能楽コレクションが今も残されている。
 今から5年前に熊本県立美術館で行われた展覧会「細川コレクション 能の世界」では今回の永青文庫での展覧会と同じような能楽コレクションが展示された。今後、日本各地で「翁」の特別公演が行われる予定だという。
※右の能面は「翁(白色尉)」(永青文庫蔵)


細川家立田別邸(熊本市中央区黒髪)



 人吉旅館 復興プロジェクト(ご支援のページ)

7月23日の光景

2020-07-25 22:05:15 | 熊本
◇北岡神社舞殿竣工
 4年前の熊本地震で被災し、再建が進められていた北岡神社舞殿(旧神楽殿)が完成、この日竣工式が行われた。コロナ感染の勢いが衰えない中、当初予定されていたこけら落としのイベントは延期となり、毎年8月1日から行われる祇園まつりも中止となっている。
 この舞殿は能楽、神楽、大祭関連行事、各種芸能等、多目的に使用される予定。


古さと新しさが混交する舞殿


◇寂しい頓写会
 清正公の御逮夜(命日前夜)にあたるこの日は、5年前まで毎年10万人を超える市民で賑わい、参道には出店も立ち並んで、熊本の夏を代表する風物詩「頓写会」の日だった。しかし、熊本地震で仁王門や参道の石灯籠などが損壊したため、出店が設置できなくなり、また本堂での万灯供養も行われなくなったため人々の足が遠のき、すっかり寂しい法要の日となっている。


人影もまばらな胸突雁木の石灯籠に火が灯され、特別な夜であることを知らせている。


 人吉旅館 復興プロジェクト(ご支援のページ)

人吉旅館を復興させたい!(ご支援のお願い)

2020-07-23 13:23:50 | 熊本
 先日の熊本県南部を襲った記録的豪雨による球磨川氾濫により人吉旅館(国登録有形文化財)は流れ込んだ土砂が1階の天井に達し、土壁は崩れ、畳や床板も流されました。4、5月はコロナ禍で休業を余儀なくされた上の追い討ちに一時は事業継続も危ぶまれました。しかし、人吉旅館を愛する人々の応援に再び立ち上がる決心をされたそうです。
 このほど、人吉旅館3代目当主・堀尾謙次朗さんと3代目女将・堀尾里美さんの娘、嘉恵さんが主体となってクラウドファンディングが立ち上げられました。
 下の「令和2年九州豪雨支援プロジェクト」の写真をクリックしていただきますと、クラウドファンディングのページが開きますので、趣旨をご理解賜りました上、多くの皆様のご支援を何とぞよろしくお願い申し上げます。





少女舞踊団ザ・わらべ時代の堀尾嘉恵さん


2011年に宿泊時の堀尾里美さんと嘉恵さん

熊本城の「正面」は 南?西?

2020-07-22 14:29:11 | 歴史
 昨日の熊日新聞朝刊に興味深い記事が載った。「熊本城の「正面」は 南?西? 特定至らず」というタイトルで、昔から諸説がある、熊本城はどちらが「正面」なのだろうか、という内容。歴史文化では定評のある飛松佐和子記者の記事。
 城彩苑のわくわく座で今月末まで公開されている熊本城本丸の模型を手掛けた模型作家の島充さんは、模型再現する時の構造分析などから「南向き」説を唱える。
 一方、江戸前期に描かれた城内絵図に示された動線は西側の西大手門、頬当御門への線が最も太く描かれており、「西向き」説を補強する。
 また、熊本大学の伊東龍一教授(日本建築史)によると、柱にはその位置を示す番号が振られており、図面には「一番」を正面右隅に書くという専門家の説がある。しかし、西南戦争で天守は焼失し、確認する術がないという。「城下町からの視点などを含め、総合的に検討する必要がある」という伊東教授の言葉でしめくくっている。

 僕がこれまで最も信頼を寄せてきた郷土史家の鈴木喬先生(2010年没)が熊本城について書かれた文書には次のように書かれている。

 茶臼山は東高西低の地形で、東・南・北の三方は断崖をなしている。そこで西南側の崖下には湧水をたたえた深堀をめぐらして、新町との間を区切り、北の京町台地との間の地峡を掘り切って一条の馬背道だけを残し北側の守りを固めた。台地の最西端の古京町、漆畑、段山は防衛の第一線で、次は一段高い宮内の藤崎台、第三線は二の丸、第四線で初めて本丸の一角西出丸に達し、最後に東端の最高地に達する。熊本城が西向きの城と呼ばれるのはこのためである。城の防衛上の配慮は、築城から270年後の西南戦争で実証され、名城の名をさらに高めた。(熊本県大百科事典より)

 つまり、熊本城築城にあたり加藤清正公は城の防衛面を最優先に考えられたであろうから、「西向き」と考えるのが自然であろうということなのだろう。

 ここから先は僕の無責任な意見なのだが、天下に熊本城の威容を見せつけるという意味で、清正公は全方位の見栄えに気を配られたのではないか。北の豊前街道からやって来る人、東の豊後街道・日向往還からやって来る人、南の薩摩街道からやって来る人、そして城下町の人々、誰もが熊本城天守を仰ぎ見てその偉容に圧倒されたことだろう。そういう意味では東西南北全面が正面だともいえそうだ。
 ちなみに文久4年(1864)2月、坂本龍馬らを引き連れて熊本城下を訪れた勝海舟は「海舟日記」の中で次のように記している。
「熊城を路二里程より望む、天守孤立、画築制他城の比にあらす、外周最大なり、武士屋敷其中にあり、郭畳高く、堅牢おもふへし」


西側の二の丸から第一・二・三の天守を望む

東海道を唄で旅しよう

2020-07-21 17:45:07 | 音楽芸能
 コロナ禍の中で活動を自粛せざるを得ないアーティストらを支援するため、彼らの作品をWEB上で発信して行こうという「アートにエールを!東京プロジェクト」に、東海風流プロジェクトの本條秀五郎さんと水野詩都子さんが参画し、作品を投稿しておられます。ぜひご覧ください。


広重画 東海道五十三次之内 日本橋

▼本條秀五郎さんのコメント
 旅が困難な今、歌でその土地土地に思いを馳せ、旅をしてみませんか。お国柄を感じながら歌で旅をしてみましょう。
 まずお聞きいただくのは東海道の宿を唄いました流行り歌「こちゃえ節」いわゆる「お江戸日本橋」を、東海風流プロジェクトの相方、民謡歌手・水野詩都子さんの唄でお聞きいただきます。東海道五十三次の宿場を江戸日本橋から京都三条大橋まで順番に唄った有名な歌です。
 次に岐阜県の飛騨高山に残された東海道を上る唄「大津絵飛騨節」をお聞きいただきます。東海道沿いではない飛騨に残ったのは、飛騨はかつての幕府の直轄地、いわゆる天領でした。この地方の豊富な資源、金銀銅・木材などに幕府が目を付けたといわれています。そんな土地柄、江戸との関わりは深く江戸で流行したものが移入されることがしばしばありました。まさにこの「大津絵飛騨節」別名「東海道」はそのひとつだといえます。


伊藤道郎の生涯

2020-07-20 23:15:15 | 日本文化
 今日のプレミアムカフェ(BSプレミアム)は2007年に放送された「異国と格闘した日本人~舞踊家 伊藤道郎~」のアンコール。
 この番組は僕は初見で、ジェリー伊藤さんのお父さんは著名な舞踊家とは聞いていたが、こんなに凄い人だったとは。
【NHK概説より】
 第一次大戦から太平洋戦争にかけ、欧米で活躍した舞踊家・伊藤道郎。東洋的な体の動きは多くの芸術家にインスピレーションを与え、ハリウッドのショーでも成功を収めたが、一方で米国FBIにスパイ容疑で逮捕され家族と引き離されるなど、波乱万丈の生涯を送った。常に夢を見続けた彼の人生をたどる。

 なかでも、伊藤道郎が世界にその名を知られるきっかけとなったのが、英国修行時代、日本の能に関心を寄せていたアイルランドの詩人イェイツと共に、イェイツの代表作となる能を取り入れた戯曲「鷹の井戸」の完成に貢献したことだ。近年でこそ、外国の題材を能劇化することが見られるようになったが、今から100年以上も前にイェイツ&伊藤が先行していたことは驚きだ。

   ▼日本に逆輸入されて演じ続けられている「鷹姫」

「ほめく」ということば

2020-07-19 20:14:28 | 熊本
 今日は日差しも強く、家の中にいてもむし暑かった。こんなむし暑い日、祖母は必ず「ほめく」という表現をした。この言葉を、子どもの頃はずっと熊本弁だと思っていた。実は立派な標準語である。
国語辞典には

 ほめく【熱く】 ほてる。熱くなる。とあり、さらにはなんと「男女が情事をする」という意味も付け加えられている。

 江戸・東京の文化を紹介する「江戸東京下町文化研究会」のサイトには、「江戸ことばいろは」というコーナーを設けて、江戸ことばの成り立ちを説明し、代表的な江戸ことばの例を掲げているが、その中に

 ほめきざかり【熱盛】 思春期。色気盛り。

ということばが紹介されている。ことばが生まれた経緯を調べていくと実に興味深い。


熊本・本妙寺の頓写会(2015.7.23)風景

昨日今日のテレビから2題

2020-07-18 21:22:49 | テレビ
◇にっぽんの芸能「土蜘蛛」(NHK-Eテレ)
 6年前に、水前寺成趣園能楽殿で行われた出水神社薪能の金春流「土蜘(つちぐも)」を観たが、昨夜の「土蜘蛛」はかなり違う印象を受けた。「黒頭 ささがに」という小書による特別な演出で、エンターテイメント性の高い舞台だった。蜘蛛の糸はこれでもかというほど投げるし、切組みの場面や最後のシテの仏倒れも迫力満点。この舞台の数ヶ月後に惜しまれつつ他界された関根祥人さんが素晴らしい能楽師だったことがよくわかった。解説の村上湛さんが言われていたが、「能は身体的表現の芸術でもある」という言葉に納得。特に、前シテの僧が源頼光に詰め寄るシーンの、橋掛かりの欄干にツツーッと進み、面を切る動作は動物的でゾッとするような迫力があった。



◇ブラタモリ「伊豆大島編」(NHK総合)
 学生時代、仲間たちと一度だけ行ったことのある伊豆大島。浜松町を船が出てすぐに海が時化り始め、そのうち暴風雨状態になった。船室ではあちこちでゲロ合戦が始まり、数少ない洗面器の奪い合いになる始末。僕もしばらくは我慢していたが、そのうち我慢できなくなりトイレへ行ったが満杯状態。仲間と洗面器を代わる代わる使う羽目となった。夜明けとともにやっと船は波浮の港に到着。上陸したものの最初は真っ直ぐ歩けない状態。島内観光が始まると徐々に治って行ったがつらい旅だった。そんなことを思い出しながらブラタモリを見る。
 「なぜ伊豆大島といえば“アンコ椿”!?」をテーマに、波浮港の成り立ちや島の歴史などを踏まえながら、「アンコ椿は恋の花」の歌詞の意味や、島を支えるアンコさんと椿の貢献について調べていく。
 機会があれば、元気な状態で再訪したいものだ。


細川ガラシャ夫人没後420年

2020-07-17 13:17:22 | 歴史
 今日は細川ガラシャ夫人が慶長5年(1600)7月17日に亡くなられて420年の日。
 一昨日、立田山のわが家の墓参りをした後、泰勝寺跡(立田自然公園)に立ち寄り、秀林院(細川ガラシャ夫人)の御廟でお参りを済ませました。
 今日は夫人が詠まれた歌三首をあらためて読み直し、お人柄を偲びました。味土野の山中に幽閉されている時の歌二首と辞世の歌一首です。

〽逢うと見て かさぬる袖の移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる

「忠興殿と再会できたと思いきや、袖に殿の残り香もなく、やっぱり夢と知りました。」

〽身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く

「隠棲の里は、奈良の吉野に喩えられる桜の名所なのに、その奥に棲む私は 花を愛でることもできず、虚しく呼子鳥の鳴声を聞いています。」

〽散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ

「花は散る時を知っているからこそ美しい。人もかくありたいものです。」




秀林院(細川ガラシャ夫人)御廟


泰勝寺跡(立田自然公園)の竹林の小道


池の向こうに茶室仰松軒

ムツばあさんの歩いた道

2020-07-16 20:41:20 | 映画
 映画館から足が遠のいてもう何年たったろうか。昨今のコロナ禍がさらに輪をかけた。今日、たまたま熊本県最古の映画館、電気館(denkikan)のサイトを覗いていたら、見覚えのあるタイトルが目に入った。「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」とあった。詳しく調べてみると、やはりかつてNHKで放送されたドキュメンタリーを映画化したものだった。映画化されたことは知らなかった。上映日を見てみると、なんと今日まで。今日はもう行けないのでDVD化されるのを待つことにした。
【概要】
 「秩父山中 花のあとさき」は、埼玉県秩父山中の急峻の地に畑を耕し、花を植え続けてきた小林ムツさん夫婦と村の人たちを、2002年から昨年まで18年にわたり追いかけ続けたNHKの人気ドキュメンタリーシリーズ。清冽な水を求めて、先祖が険しい山に分け入り、子々孫々までと願って労苦を厭わず築き上げた石垣の上に開かれた畑。夫婦はこの畑を守り続けてきた。しかし、2006年9月に夫に先立たれ、体力の限界も近いことを感じたムツさんは「畑が荒れ果てていくのはしのびない」と、畑に花を咲かせて山に返すことにした。まるで自分の身代わりにするように花ももの木を植えるムツさんの姿が心を打つ。2009年1月、ムツさんが亡くなったが、畑にはいつもと同じように花が咲き誇っている。

 僕はたしかシリーズの2回目から見たと思うが、これほど感動したドキュメンタリーはほかにない。





流れ灯

2020-07-15 21:55:13 | 日本文化
 東京を始め、各地のコロナ感染の勢いが衰えない。感染者は若者中心だから重症者はいないとか、医療体制には余裕があるとかいう話が伝わるが、どうも「Go Toキャンペーン」を進めるための気休めにしか聞こえない。お隣の鹿児島県は急に感染者が増えて来たし、熊本もいつそうなるかと気味が悪い。
 そんな中、通常であれば今日は旧盆の精霊流しが行われる日。そんな話はどこからも聞こえてこないが、やはりご先祖様より今生きている者が大事ということか。このところ毎年繰り返される、豪雨や地震や疫病などで伝統的な風習も廃れていくのかもしれない。


2013年の坪井川精霊流し