雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

政治と金の問題

2010-08-29 11:06:46 | 政治
今テレビでまた討論会である。

菅さんと小沢さんの問題、視聴率が上がるからテレビ局は取り上げるのか?

くるくる直ぐ変わってしまう市場調査の『民意』とやらをなぜそんなに尊重するのか?

その民意を操っているのはテレビ局やマスコミではないのか?

『政治と金』 今までの政治の金のかかる構造、利権体質からは、政治に金が絡んで当然である。
その体質、構造は直さねばならぬがーー。

それ以上に、日本を引っ張る『リーダー』は、『リーダーらしい人』であって欲しい。

官僚政治からの脱皮、政治主導の政治は、少々強引さがないと言うだけでは実現しない。

今コメンテーターやいろんな政治家が、それぞれ個別の意見を言っても、何の役にも立たない。

今は、この日本を菅さんに任すのか、小沢さんに任すのか?と言う単純判断でいい。

それくらい日本の現状は、政治的にも経済的にも、厳しい。

大阪の橋下さんのようなやり方こそ、求められている。橋下さんが就任した直後、マスコミや評論家は何と言ったのか、思い出してほしい。

政界再選に繋がれば一番いいのではないか?

私なら、小沢さんに1票であるが、残念ながら投票はできないのである
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東京オリンピックの想い出

2010-08-29 05:55:34 | 発想$感想
★東京オリンピックの柔道無差別級を制したへ―シングが亡くなったというニュースである。
76才と言うから私より1年若いのである。
人間不思議なものでまだまだ死なないと自分では思っているのだが、別にいつ死んでもおかしくない年齢に達しているのである。

ヘーシンクの東京オリンピックでの優勝は、柔道は当然日本と思っていた時代だから衝撃的だった。
2メートルに近い巨体で、日本選手もどうにもならなかったのである。
その強さは、圧倒的であんなに体格が違ったら仕方がないかと思ったものである。

開会式があったのが、1964年10月10日だから、もう46年も前のことなのである。
日本国民の半分以上が東京オリンピックを知らないのであるから、昔々の出来事になってしまった。

日本の戦後もようやく終わって、日本の発展は東京オリンピックを契機に一気に近代化が図られていったのだと思う。
そして、1970年の大阪万博までの6年間に、カラーテレビもマイカーも一般家庭に普通のものとして備えられ、さらにマイホームへと進んで行った、
そんな幕開けの役目を果たしたのが、東京オリンピックだったのである。

★まず、東京オリンピックのことで、覚えていることと言えば、



●競技関係では、へ―シングの柔道優勝や、マラソンのアベべの2連勝もあるのだが(確かこのときはアベべは裸足ではなくて靴を履いていた)
何といっても日紡貝塚の大松博文監督が率いる東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールの金メダルだろう。 それは明確に覚えている。

●東京オリンピックに合わせて東京―大阪間に新幹線がスタートしたのである。東京都内に高速道路がお目見えしたのもこの時期である。

●東京オリンピックのコンパニオンだったお嬢さんと、ジャイアンツの長嶋茂雄が結婚したのも大きなニュースであった。

●個人的なことで言えば、この年に私は車の免許を取得している。

●日本にコンピューターがお目見えしたのは東京オリンピック以降のことだそうである。
これはIBMの研修会の時に、コンピューターに関連して自己紹介をと言うので、IBMに出会ったのは昭和32年だったと言ったら講師の先生に、
『10年間違っていませんか、日本にコンピューターが普及しだしたのは、オリンピック以降のことです。』と言われたのである。
川崎航空機には米軍がいてIBMがあったので、私が新入社員の分際で償却計算のIBM化を図ったのは昭和32年だったのである。


★それはともかく、
1964年10月10に、オリンピックの開会式当日を鮮明に覚えているのは、
当日、MCFAJの全日本モトクロスが伊豆丸の山高原で行われ、カワサキは4種目中3種目に優勝し、モトクロスでのカワサキの地位を確固たるものとした大会だったのである。
それまでにも、春の全日本で優勝したりはしていたが、まだまだ久保和夫,荒井市次や三吉一行の時代で、カワサキはこの3種目優勝で初めて認められる存在になったのである。

当時は広告宣伝課長をしていたが、何よりもレースに力を入れていた。
予算は当時の金で1億2千万円と信じられぬほどの額を持っており、ヘリコプターも持っていて、この大会にもヘリ持参で出かけている。
サラリーマンの年収40万円、年収ですよ、の時代なのである。
免許を取ったのも、レースに車を運転して行くためだった。
免許取り立てで、明石から伊豆まで夜車を運転して出かけたのである。
帰りは、車は人に任せて、開通したばかりの新幹線に乗って帰ってきた。

このときのことは、伊豆丸の山、富士朝霧高原、松崎 というブログや、
1965年ごろのレース界 などのブログに詳しく書いている。

カワサキコンバットの全盛期ともいえる時期で、星野一義がデビューするのは、この丸の山の1カ月後のことなのである。
詳しくはリンクのブログをどうぞ。



46年経って、今年1月当時のメンバーを中心にしたレースOB会
会社のメンバーで元仲間の高橋さんや田崎、大槻さんなど錚々たる顔ぶれだったが、
メインゲストはやはり、星野や歳森、でもみんな歳をとったがいつまで経っても昔のまま。



星野は安良岡健さんや岡部の先輩たちと一緒の部屋割で、布団の上げ下ろしをさせられたそうである。

そんなこととの関連で、1964年の東京オリンピックは、特にそのころが懐かしいのである。
こんなこと書いたら、すぐ60おじさん(山本隆)が、いろいろコメントくれそうである。
春の朝霧も、秋の丸の山も彼は優勝しているのである。彼にとっても一流ライダーの仲間入りをした年であった。
コメント (4)
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