雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

母、退院

2010-10-19 05:06:16 | 発想$感想
★『明治42年6月28日生まれ、101歳です』とはちゃんと言える。

今年の6月28日の誕生日で、101歳を迎えた。
その誕生日の日にこんなブログを書いている

4か月前の話だが』『こんな風に書いている。

『お蔭様で元気と言うべきか、自分のことは大体自分で出来る。
今日は、妹たち4人が誕生日を祝ってくれると言うので、私の次の妹の明石に送っていって何日か、そちらで面倒を見てもらっている。
幾つになっても、女性の話は独特で、女ばかりの話のほうが気が休まるはずである。』

そのころはまだ元気だった。
妹たちが何日か預かって面倒をみてくれたのである。

その時にちょっとあたりが暗いと言うので、眼科に診てもらったら、『眼底出血』だという診断。
その治療に西神の医療センターに通いだしてから、急に調子がおかしくなった。
それでもそのころはまだ駐車場から300メートル余りを自分で歩いて通っていた。

★ひと月のうち24日を養老院のショートステイでお世話になって、残りの1週間ほどを家で過ごす生活が、もう何年も続いていた。
家でも食事も、トイレも風呂も、すべて自分のことは自分でする。
面倒は見ていたが介護をするという感覚は皆無であった。

それが、お盆休みの真ん中の8月14日に、突然膝が痛くて歩けないと言いだしたのである。
医者は休みだし、歩けないし、困り果てて救急車をお願いして、病院まで運んで頂いたのである。
検査の結果、体に炎症があるからと、そのまま入院となってしまったのである。

今まで白内障の手術で入院したぐらいで、大きな病院のお世話になることもなく100年を生きてきた母だが、
入院して病院生活をすることで、環境が変わったからか一挙に病人らしく弱ってしまったのである。
ちょうど介護の級の変更を申請していたのだが、
一番軽度の『介護1級』から、一番重い『介護5級』に認定されるまで弱ってしまった。

一時は、妹たちが見舞に来てくれたが、全く解らずに話も出来ずに帰った時もあった。


★このときは写真にはちゃんと写ってはいるが、認知症がひどくて何も解らなかった。
写真でも撮っておかねばと思って撮った写真の中の1枚である。



それからいろいろとあったが、
10月に入って順調に戻ってきて、昨日退院と言うことになったのである。
ただ、退院と言っても今度は家には戻れない。
養老施設の方に直行なのである。



病院まで迎えに行った。
昨日はチャンとよく解ったが、家に戻らぬのが不服なのである。
ただ、迎えに来てくれたとご機嫌で、何となく笑顔らしき表情も出て、よかったと思っている。

今車椅子に坐っているが、自分で歩き自分の事は自分でする4か月前の生活に戻るのは無理かもしれない。


★超長寿社会になって、長寿を祝うのが一般的だが、
他人の方の長寿は祝えても、いざ自分の周りのことになると祝ってばかりもおれないのである。
『介護と言う現実』に直面すると、如何に母が望んでも自宅での『老々介護』には限界があると思う。

ただ、私の身近な人たち、父も伯父も祖母もみんな自宅で介護をした。
私がしなかっただけで誰かがしたのである。
然し『老々介護』でなかったことは間違いない。
今は社会の仕組みが変わってしまったのである。

90歳とは言わぬ、せめて95歳以上の超長寿者はすべて、専門の介護者が面倒をみる仕組みを造るべきである
親の介護だと言っても、95歳の親の子どもは70歳を超えていることが多いだろう。
面倒をみるべきだとは思うが、現実の日々介護となるとお手上げなのである。

母の面倒をみていた6月までと、『介護』をしなければならなくなった8月以降では、その環境が一変している。
母は当然不満なのだが、退院先は自宅ではなくて『りんどうの里』だったのである。



りんどうの里では、係の人が優しく出迎えてくれた。
言葉づかい一つでも、なかなかこうはいかない。
介護や養護のプロたちなのである。

そういうシステムのお世話になれる、母は非常に幸わせだと思っている。


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