雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

野球はピッチャー

2011-06-05 05:54:30 | スポーツ

★阪神ーソフトバンク戦の2回戦、能見―杉内の投手戦で、今5回を終わって0-0である。

エースがいい投球をすると、なかなか点は入らない。

野球は9人、ベンチのメンバーも入れて10人以上でやる団体スポーツだが、ピッチャーがいいとチームの実力は大幅にアップする。

学生の頃、野球部にいて10年間も野球をやっていたが、チームのピッチャーには恵まれて、いい野球部生活を送らせていただいた。

能見―杉内の投げ合いを見ていると、高校時代の球友、溝畑圭一郎を思いだした。

彼もサウスポーだった。

 

もう60年も前の野球だから、今の高校球児のレベルと比べたら全然歯が立たないような野球ではあったが、その時代のレベルではトップレベルであったことは間違いない。

ひょっとしたら、最近の検索のことだから、『溝畑圭一郎』と検索したら何か出てくるかと思ってやってみたら、出てきたのである。

 

●不思議なことに、神奈川県の年度別戦績表1950年の夏の大会の主な出場選手の中に、明石高 溝畑圭一郎の名前が載っていた。

このころの甲子園は最初から優勝戦まで組み合わせは決まっていて、スポーツ紙の予想には、決勝戦は「瑞稜ー明石か」なと言われたりしたのも、『溝畑』というピッチャーがいたからである。

結果は、1回戦で鳴門高に4-2で負けてしまったが、決勝戦はその鳴門と松山東で争って、松山東が優勝したのである。

昭和25年、高校2年の時であった。

(ちなみにこの年、阪神の吉田義男が京都の山城高校から出場している。

山城高校、米子東と大会の後、確か豊岡市の市制何周年かの記念大会に招待されて、城崎温泉の西村屋に泊めて頂いた思い出などもある。

『吉田義男』小さいのに3番を打っていた。守備よりも打者の印象が強かった、よく打っていた。)

 

そんなに評価が高かったのは、兵庫県予選の準々決勝では灘高校を相手に『完全試合』をしていたからだろう。

当時は、完全試合が何たるやがよく解っていなかったそんな時代だったのだが

『野球はピッチャー』という典型的なチームであった。

 

★そんな溝畑がいたものだから、点をあまり取られないのである。 『野球はピッチャー』を身をもって体験した実感がある。

社会人は神戸製鋼だったが、都市対抗にはどこが勝っても補強選手に選ばれて後楽園に出場していた。

ゴルフなどやらしたら全然ダメなのだが、不思議に思うほど、野球だけ上手いのである。

 こんなブログを見つけた。そんな中に、溝畑圭一郎の名前があった

『溝畑さんは、平成20年5月の地元西宮市、尼崎市での第18回全日本古希野球大会を最後に辞められました。
彼は、神戸ロマンズが平成15年に結成された当時はチームの投打の柱で、監督は絶大な信頼をしてチーム内で特別扱いをしていました。
還暦野球とソフトボールにも関わっていたので、忙しくて神戸ロマンズの練習には全くと言って参加しないのに、全日本大会など大きな大会では先発メンバーとして使っていました。』

などと書かれている。

ごく最近75歳ころまでやっていたようである。


最近は会っていないが、元気にしているのだろうか?

高校の球友たちも半分は逝ってしまって、残っているのは溝も入れて4人だけである。

 

★阪神ーソフトバンクは、8回に入っている。

能見ー杉内 まだ0-0で投げ合っている。いいピッチャーは本当に、打てないのである。

 

大学の最後、1年卒業を延ばして、野球部の監督をしていたが、その時1年生で入部してきたのが、小山修身君である。

秋のリーグ戦、小山は54イニング連続無失点の学生野球記録を樹立した。54イニングも点を取られなかったら、勝って当たり前である。

チームメ―トのピッチャーには恵まれて、『野球はピッチャー』を体験したいい野球部生活だった。

 

能見は9回に打たれて、2-0で阪神は負けたが、いい試合であった。

7回二死満塁、能見に代打を送らなかった真弓監督、新聞にいろいろ書かれているが・・・・気持ち、解らぬでもない。

 

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コメント (2)
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