雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和62年(1987)何となく人事のややこしい年だった 54歳

2011-08-10 05:34:30 | 自分史

★サラリーマンにとって人事は大きな関心事である。 それに昇格などが絡むと余計にややこしくなる。

入社以来、殆どの職場で引き継ぎなしの新しい仕事を担当してきた。

そう言う意味で動いてきたので、自分の人事については、異動の前にどうなるのか?などと思ったことは殆どなかった。

広告宣伝をやれ、レースをやれ、仙台に事務所をつくって東北を纏めろ、大阪で大型車の販売網をつくれ、東南アジアに小型進出しよう、国内の販売網を担当せよ。

そして、二輪事業がこのままではダメだから何とか海外の販社を黒字に。

などが異動の時の指示というか、理由であって、どのように対応するかは、誰からも指示を受けずに勝手に自分で考えて対応したものばかりだった。

 

★ところが、この年の組織変更と人事は、今までと違って自分で動くわけにはいかなかったのである。

この年までの4年間で二輪事業の将来は何とか見えた状態になったと言っていい。

大庭本部長は本社に戻られてこの年6月に川重社長が決まり高橋本部長は常務に昇格された。間違いなく全社は二輪事業の再建を認めたと言っていいと思う。

そして、単車と発動機の二つに分かれていた事業部を統合するということに決まったのである。

事業規模は違うのだが、二つの事業部には企画も技術部も製造部もあって、それぞれ責任者が居るのだから、統合すると余ってしまうのである。だから統合するのだろうが、それぞれそこにいる長は大変なのである。

こんな渦の中に入っていくと大変だし、これは高橋さんにお任せしてだんまりを決め込んだのである。高橋さんは大変だったと思う。

何人かの副が出来て、私も会社に入って初めて『副』という肩書を頂いたのである。この年田崎さんもアメリカから企画に戻って副という肩書が付いたりした。

私は、安藤さんを援けて営業部門の副に移ったのである。

 

 

★直ぐ、上記のような基本認識で、営業総括部内の基本コンセプトを纏めて、動く方向を明確にしている。

ちょっと前までは250円であった為替は、この年には135円水準まで上がったりした。

圧倒的にUS市場中心の事業構造から、国内市場の拡充やジェットスキーの倍増などを起案した。

値上げなどの円高対策だけで対策出来るような生易しい円高ではなかったのである。

事業の構造から根本的に変えることが求められていたし、もしそのまま企画をやっていたら、『製造部門の別会社化』とか、『本社機能の充実』とそれに比例して、子会社への売上なのだから、『営業部門は縮小』の方向、そして特に『KMCへの円建て移行』という構造対策をなどと思っていたのに、その営業部門を任されてしまったのである。

営業に移ってからも

1.円建て移行の前提となるKMCの累損消去

2.国内市場対策

3.そしてジェットスキー事業の推進     が3本柱だと思っていた。

 

★営業部門として、直接自分でやれたのは『ジェットスキー事業の推進』だったので、当時の鶴谷主査と一緒に大いに集中したのである。

ジェットスキー事業が、単車部門の中で、アメリカ以外にどのように育っていったのかは、多分この資料以外にどこにも残っていないと思う。

そんなことで営業に移ってからもアタマの中にあったのは

 

★こんなプロジェクトを企画の中にこの年の3年前に立ちあげて、海外の連中と半ば非公式に推進していったのである。 今から思っても個性の強い奇人変人の集まり、『いいメンバー』である。サラリーマンでないこんあメンバーだったから、何とかなったのだと思っている。

具体的に、専任が付いて動き出したのは、

昭和60年に鶴谷君がオーストラリアの社長から帰任して、独り専任で担当してくれたのと、福井昇君が唯一明石でジェットスキーが乗れるライダーとして、このプロジェクトに参加してくれてから軌道に乗りだしたのである。そしてこの年の3月には、J/Sプラザ神戸が開店し、同じ3月福井君は独立して、実質国内1号店のJ/Sプラザ明石を立ち上げたのである。

福井昇君は発動機で趣味でジェットスキーに乗っていて、当時の日本では指折りのライダーだったのを、発動機から私が貰い受けたのである。彼の運命を変えてしまったのかも知れぬが、まあ成功の部類だろう。 今はNPO The Good Times の理事さんで手伝ってもらっている。

そしてこの年の5月、やっと営業本部内に正式な組織として、『市場開発室』が出来たのである。

このプロジェクトを陰になって支えてくれたのは、故武本一郎さんである。そして中心で推進したのが鶴谷君である。そんな人たちがみんな企画から営業に異動したので、こんな組織が正規に生まれたとも言えるのだろう。

 

★この年4月には、国鉄が民営化された年なのである。

国鉄も変わったが、私の仕事も企画から離れて、また自由に動きだす事が出来たのかもしれない。

この年、54歳である。

5月には副がついたりはしたが、この年の12月には理事昇格が決まって、所謂1回目の退職金を頂き、サラリーマンとしての身分はこの年で終わっている。

大庭さんは社長、高橋さんは常務、そして私と田崎さんは理事に昇格した。

今から思うと、この5年間の仕事の結果なのかも知れない。

ただ、私にそのきっかけを与えて頂いた、大西さんや山田さんは副社長を引かれて大西さんは相談役、山田さんは日本飛行機の社長になられた。

 

ここから退職するまでの10数年間は、また、結構面白くやっている。

振り返って考えてみると、この年の1月から5月まで、単車と発動機の統合が決まってからの半年間が、長い会社生活の中で、あまり何もせずにじっとしていた、ある意味『サラリーマンらしい』半年間だったのかも知れない。

翌年からは、大分県直入町にサーキットを造ろうと夢中になったり、ソウルのオリンピックに『ジェットスキーチーム』が招待されて、オリンピック村で過ごすなど、あまり普通の方が経験できないようなことばかりが続くのである。

 

★あまり覚えてはいなかったのだが、日記をめくっていると結構いろんなことがあった年である。

母校の明石高校野球部が春夏甲子園に出場している。殆ど関心はなかったのだが、明石が甲子園に出たのはこの年が多分最後だろう。そんなこともあって明石の野球部のOB会コンペがあったりした。

鈴鹿8耐に久しぶりに行った。この数年レースどころではなかったし、レース中止を宣言したりしたのに、末端では神戸スパースポーツやチームグリーンで国内は平井さんが頑張ってくれたし、カワサキフランスの遠藤さんが耐久レースで名を挙げていた。カワサキフランスが鈴鹿にも出場し、鈴鹿8耐の最盛期が始まっている。

アメリカのKMCは、新しく百合草体制になった。5年間国内販社から逆出向していた富永君たちが戻ってきたし、KMMから佐伯君も企画に戻ってきている。8月に田崎さんは本社開発部の兼務になった。そんなことでまたニューヨークの川重の社長でアメリカ勤務にその後なるのである。

娘の就職の時期で、一般に高校女子はいいが、大学女子は?と何となく就職が難しい時期だった。アシックスを受けると言うので、ジェットスキーの靴などの開発で関係もあったのだが、大西相談役に就職のお願いをしている。子どものことを人に頼んだのは、この1件だけだと思う。子どものことは殆ど家内に任せて口を出したことはなかった。

この年、銀婚式だった。 あっという間の25年だったような気がする。

今振り返ってみると、節目の年だったのかも知れない。

 

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