雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その54 昭和58年(1983)

2017-05-20 05:27:05 | 自分史

昭和58年(1983)は、アメリカのKMCの経営の危機が言われ始めて3年目に入っていたと言える時期で、『カワサキの二輪事業再建の目途が立った年』なのである。

80年あたりから川重本社財務部門が乗り出してその『対策』を建てたのだが、81年度もその効果は現れず、82年4月からは当時の単車出身の山田専務が対策委員長となってその具体策に乗り出されたのである。

82年10月には高橋鐵郎さんがKMC会長から企画室長に戻られ、私もカワ販常務から企画部長に呼び戻されることになるのである。

この時期の問題点『海外販社の赤字』を止めることであって、別に製品や明石の生産構造などには大した問題もなく『販売会社の経営対策』だけだったのである。

そういう対策だったので、明石の企画の政策立案とそれを受けてやる現地の販売会社社長との連携が中心課題であったことから、その対策に当たった人はホントに限られていて、大勢いた技術屋さんには何の関係もなかったのである。

中でも一番問題であったのがKMCだったので極言すると、『私と田崎さん』の二人の新米部長がその対策の焦点だったのである。そしてそれを陣頭指揮されたのは83年6月までは山田専務で、7月からは再建屋と言われた大庭浩本部長が来られるのだが、対策の中心は『財務対策』であったことから、私や田崎さんの報告先は事業本部長ではなくて、川重本社の大西副社長、堀川常務、松本取締役であり、その方たちと一緒に さらに川重社長への経営会議を経て、取締役会に報告するという普通では考えられない体制だったのである。

83年の株主総会は、この単車事業の影響で川重は無配転落ということだったので、川重自体の対策として進められていたのである。この年の4月からは毎月取締役会でKMC問題が報告され、その報告者は単車事業本部長ではなく財務担当の松本取締役で、その報告書は、KMCからの報告を受けてが作成し、それを松本取締役に報告するという状況が続いていたのである。

 

★こんな状況に追い込まれてしまった理由はいろいろ考えられるのだが、HY戦争がアメリカまで飛び火して、4メーカーの競争が激化したこと、それ以前から日本の4メーカーのアメリカ市場への進出が厳しくて、ハーレの経営を圧迫したことなどがいろいろ重なったりしたことなどが原因なのである。

当時アメリカを担当された田崎さんは、このように言われている。

 1983年は、またもやハーレーの要請にもとづく米国ITCによる救済処理勧告で幕をあけた。ハーレーを救済するために、日本の大型二輪車の輸入を6千台に制限し、それを超えるものには追加的な高関税を課す、というものである。米国当局は、我先にと輸出してくる日本四社に公平を期するため、西東の港湾、時差などを考慮した特別プロジェクトチームを立ち上げ対処しようとしていた。それが何と、6001台で輸入がピタリと止まったのである。ちなみに高関税を支払った1台はカワサキであった。

 唖然とした当局は、ライバルどうしで話し合いによる調整が出来る日本の業界に不信感を抱き、そんなことが出来るのならと、後の自動車の対米輸出自主規制要求へとつながっていくのである。 政府の介入による数量割り当ては、独禁法違反にはならないのだが、そもそも米国では、政府が生産数量を割り当てる事などあり得ない事なのである。 

 

これはこれでまた大変だったのだが、82年までのKMCの赤字の原因は、スノーモービルの赤字や、在庫過多によるリンカーン工場の生産減少による赤字が大きな原因の一つだったのだが、この年からはその対策は終了していて、

この問題は米国産業として認められているリンカーン工場を持つカワサキには追い風であり、他の三社には無言の圧力をかけていた事になる。こんなこともあり1983年は、大きな改革の山場を越え、KMC,KMMともまずは順調なスタートを切ったのである。

 

★いろいろあったが、前年10月からは海外販社の経営対策は、明石に関連事業課を創って、中央コントロール体制で世界の販社の事業計画の骨子は協働して創るという方向を徹底していて、83年度の事業計画は全販社黒字計画が組まれたし、前年まで大赤字であったKMCの事業計画も288千ドルの黒字計画が組めるまでになっていて、ほぼ計画通りの推移をしていたのである。

こんな販社やKMC対策を具体的に進めてくれたのは、新設した関連事業課の五百井・湯朝さんやカワ販から復帰した前田裕作と繁治コンビ、それに何よりも本社から参画してくれた小川優さんなど、財務・経理・販売に詳しい人たちやそれを受けてくれたKMCのカワ販から逆出向してくれていた富永・日野コンビ造船から援けてくれた実務家の奥寺課長、本社財務の当時は若手の中村・松岡さんなどホントに川重の事務屋の総力を挙げての対策だったから出来たのだと思っている。

この年の前半までは、本社サイドからも未だ100%の信頼はなかったのだが、7月大庭浩本部長が来られるころには、それなりの信頼が芽生え始めていたのだと思うのである。

3月頃に次期本部長には『大庭さん』という噂が出たころには、大庭さんと一緒に来る人の名前がいろいろ取りざたされていたのだが、最終的に大庭本部長が来られるということを6月大西副社長から伺った時は『大庭くん独りで行くからよろしく』と髙橋さん、私、小川優さんに直接仰られたのである。その頃には何とか単車の印象も幾らかよくなっていて、『その信頼』も幾らかは芽生えていたのかも知れない。

 

★大庭浩本部長は、7月に単車に来られた。前評判は無茶苦茶怖い』ということだったのだが、単車の何事も本音で言う雰囲気が気に入られたのか、アメリカなど海外での展開の規模などもご覧になって、2か月後の9月には、川重本社の会議で『単車は思ったより確りしている。将来川重の柱になる事業になるだろう。』と発言されるまでになったのである。

それは、まずKMCとリンカーンをご覧になって、田崎さんと佐伯さんという今まで川重の中ではお会いになっていないタイプの人たちを見て、印象はだいぶ変わったのではないかと思うのである。

田崎さんは、このように書いておられる。

 

ここで、大庭本部長の登場となる。 

   

 

7月には大庭本部長が来米、米国人役員を含めた経営幹部が集められ「事業には団結が必要である、一か所でも弱い所があれば全体が崩壊する」とお得意の「溶接部の脆性破壊」の話になった。これを的確に通訳せよ!といわれてモタつく私を横に、白板に英語で「Brittle Fracture 脆性破壊」と書いた。 後でアメリカ人に、判ったか? と聞いてみたが答えはあいまいだった。

 

     

 

 『脆性破壊 ぜいせいはかい』 は、しょっちゅう口にされた。大庭さんの博士論文のテーマなのである。

 どんな理論かは、聞いてみないと解らないから、そんな英語を知ってる人はアメリカ人でもまずいないだろう。

 

11月には1984年モデル、待望の「GPZ900R」のUSテスト、プレスイントロで大庭本部長以下高橋さん、安藤さんも来米し、1984年1月にハワイで開催する、全米ディーラーミーティングに備えた。 

Ninjaのネーミングは、当初は本部長以下日本サイドはネガティブであった。イメージが「忍びの者」で暗いというのである。私は弁護士や医者といったインテリ層にも聞いてみたが、イメージは「007」、「スーパーマン」に近く面白いという意見が多く、たまたまニューヨークで「the NINJA]という本が600万部売れた、という情報も入り、少々の反対があっても、これで行こうと決め、日本から送ってくる広告宣伝物の上に貼る「NINJA]のステッカーを大量に用意して、日本側の説得にかかった。 

この「NINJA」が以後カワサキの重要なブランド資産になるのである。

 

 この11月には、私もアメリカに行っていて、この田崎さんと大庭さんの話には同席しているのである。

以前にこんなブログをアップして、同じようなことを書いている。

  

 

当時、日本側では Ninja のネーミングは不評で、83年モデルで『Ninja』と名付けたのはアメリカモデルだけでヨーロッパ仕様は、GPZ900R だったのである。

若し、あの時田崎さんが大庭さんを口説かなかったら、カワサキに『Ninja』は生まれていないのである。

ほかの事業部なら本部長がダメだというものを無理やり口説き落とすようなことはないし、而もその相手が大庭さんだったことが当時の単車の面目躍如たるところなのである。

 

   

 

    

 

10月には北村さんが組合の田中支部長とともに来米し、駐在員の日本人学校(補習校」)アサヒ学園の運動会も視察して貰い駐在員子弟の特別教育費をPRした。 

   

 

  田崎さん、こんな写真も送ってくれたので・・

 大庭さん、田崎さん、佐伯さん、北村さん。

 

 

 

 

 

 杉沼 浩 さん、大庭さん、砂野耕一さん、田崎さん。 杉沼さん、田崎さんは『7人の侍』でもあるのだが、杉沼さんは英語が達者なので、大庭さんの海外出張には常に同行されていた。後 MFJ常務理事もされてるのでご存じの方も多いかと思う。

砂野常務は、砂野仁さんのご長男で私の神戸一中の先輩なのである。砂野さんも私も当時は明石で、砂野さんが神戸一中に行かれてたので勧められて私も入学したのである。現役時代ずっとお世話になりました。

 

★この年は、海外販社対策が主力だったので海外出張も多く、私はアメリカには2月、7月、11月の3回、ヨーロッパに4月と行っている。同時に田崎さんも川重本社報告などに2回ほど日本に戻ってきていて、私はKMC担当みたいなものだったので、田崎さんとこの年から数年、一緒に過ごすことが多かったのである。

この年の秋には、海外全販社の黒字化が実現して、翌年からは事業本部の黒字化と、KMCの38百万ドルの累損消去が目標になっていくのである。

本当に順調に回復して、この秋には サンタナの事務所から Irvine への新事務所構想なども具体的に動き出すなど、83年はアメリカ事業が再スタートしたともいえる記念すべき年になったのである。

 

 

 最後になりましたが、

 大庭さん、ご自身の写真にもうるさい方だったので、ずっと使っておられた写真を掲載しておきます。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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