雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その2

2019-06-28 05:49:27 | カワサキワールド


★続きもモノの 『私が入社したころの川﨑航空工業という会社』 第2話である。

 3ページ、4ページ目は文章ばかりだが、ここにご紹介するので、まずその文章をお読みになってみてください。

  
 




★ざっと、こんな話なのである。
 私は昭和32年(1957)入社なのだが、最初は財産課に配属されて昭和36年11月に新しくできた単車営業課に異動するまでの約4年間の話なのである。

 私が入社した時の給料は12000円で、考えられないほど安いのだが、日本のその当時はそんなレベルだったのである。
まだまだ貧しくて、会社の机や椅子や自転車なども、今では考えられないほど皆さん『欲しがる』ので、新人ながらその分配権を持っていた私は、明石工場全体に結構『顔を売っていた』オモシロい時代だったのである。

ここでは、私が入社してすぐ配属された『財産課の償却計算』の話が主題になっている。まだこのころには日本にはIBMという会社もない時代なのである。

私自身は財産課で大量の工具器具備品の償却計算を担当していて、その償却計算に掛かる時間が『大変』だったのである。
なぜ、私が工具器具備品の担当になったのかというと、これは財産課の先輩たちに『はめられた』かも知れないのである。 
新人社員が入ってきたということで、担当分けをしようと仰って、財産課には土地建物から機械器具などいろいろムツカシイ分野もあるのだが、土地の所有権の問題や機械の処分など専門知識がいるムツカシイ分野よりは『机や椅子や自転車なら解るだろう』と言われて、私の担当は『工具器具備品と車輌運搬具』となったのである。
確かに、その分野はそんなにムツカシクはないのだが、償却計算だけは、その数が何倍もあって、1年中計算機を回し続けないとできないほどの量なのである。
 そんなことから『償却計算の機械化』をそれもIBMを使ってやろうというような『それたこと』に挑戦したのだが、新人でも好きなことを自由にやれる『会社の雰囲』があって、新人の私が『IBMでの償却計算の機械化』に取り組んだのが入社2年目のことなのである。

そのための『品名のコード化』などを本社も岐阜工場も含めて大掛かりでやったので2年程掛かったのだが、なんとか完成したのである。
そんな償却計算の機械化が完成すると財産課に計算する人間など不要になったので、私は新しく事業化された『単車事業』の新設された『単車営業課』に異動することになったのである。 

★従来は明石工場ではジェットエンジンと発動機の小型エンジンを扱っていたのだが、昭和35年度(1960)に明石工場に単車の一貫生産の工場を建設して『カワサキの単車事業』がスタートするのである。

 その生産工場に移ってきた人たちはその殆どがジェットエンジン工場からで、私がその後関係の深かった苧野豊秋髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちはみんなジェットエンジンから来た人たちで、カワサキの生産管理システムなどは当時のアメリカの新しいシステムが採用されたりして、部品ナンバーの取り方一つにしても、当時の日本の最先端を行っていたのだが、オートバイを造ったり、それを売ったりするのは初めての経験で、それはなかなか大変だったのである。

 特に私が異動した新しい単車営業は、先任者など誰もいなくて新人の私が新しいシステムをそれこそゼロから創っていったのだが、性格的に『太平楽』だったので務まったのだと思うのである。

 いよいよ次回から『カワサキの二輪事業』の創生期の話がスタートするのである。
            
                         (つづく)
     
 
 
 
 
                       





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