雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時代 46歳からの10年間  その1   自分史

2021-01-18 07:58:59 | 自分史

★ 長い人生、自分なりによく頑張って生きてきたと思っているが、
 『一番頑張った時期は?』と言われると、
 それは『46歳からの10年間』かも知れない。

 ずっとこんな記録を付けているのだが、
 46歳からの10年間は、こんなことがあった時代なのである。

  

 
 時代は1978年から89年まで、
 会社の職位は課長から部長になり、89年には理事に昇格している。

 ずっとカワサキの二輪事業を担当しているのだが、
 その前半はカワサキの単車事業が大変な時期だったが、
 その再建対策のど真ん中にいたのである。

 家庭では息子・娘が高校から大学そして就職・結婚と一番経済的には大変な時期だった。
 我が家は全くの専業主婦で収入は私の給料だけだったので、ホントに大変だったのである。

 89年に理事に昇格して退職金を頂いて一息ついたのは、この時期以降のことなのである。
 この時期になると家の土地・建物の借金もなくなって、
 『金が要らなくなったら、金が入ってきた』のである。 

 家のこと、こどものことは全て家内に任せきりで、私自身は会社の仕事に掛かりきりの時代だった。


★つい先日、『私と田崎さんの人事を決めた方たち』というブログをアップしているが、
私と田崎さんコンビ』を中心に『カワサキの単車事業が回っていた』時代でもあったと言っていい。
 先日のブログでこのようにその、経緯を書いている。


話のスタートは1978年にアメリカでハーレーが起こした『ダンピング訴訟』で、これは日本の4メーカーに対するものだったのだが、
この『ダンピング対』を担当したのが課長時代の田崎さんなのである。

別にアメリカ市場で安売りなどはしていないのだが、アメリカ市場での『経費率以上のものは認めない』という規定があって、国内市場で『カワサキオートバイ販売』というカワサキだけがひとつ多い流通段階を持っていたために、
このままでは『カワサキだけ』がダンピングになってしまうという状況で、
カワサキオートバイ販売』をどうするかという具体的対策が必要だったのだが、この具体的対策が川重本社も絡んで対策案を起案したのだが、なかなか上手くいかないのである。

本社も事業部も困り果ててしまって、突然、当時の塚本本部長に呼ばれて『私に対策案を作れ』という指示があったのである。
私自身はそれ以前にカワサキオートバイ販売に10年間出向していて、その実態はよく解っていたのだが、当時の『カワ販のトップ人』にも関わる問題なので、『古谷にやらすのは気の毒だ』と気を遣って頂いていたのだが、どうしようもなくなって、事業本部長からの直接の指示となったのである。

そんなことから、約1ヶ月掛って小さくした『新カワ販案』を創り、本社の財務本部の了解もとれたのである。当時の本社財務本部長は堀川運平さんで、私が単車企画に復職した時の企画室長でもあったことから、『古谷君が1ヶ月も掛かって創った案ならそれに乗りましょう』とOKして頂いたのである。

この案は『カワ販本社』を10名くらいの小さなものとして、形では残したのだが、この最終案を当時の髙橋鐵郎部長が当時の財務担当役員の大西常務に説明に行ったのだが、大西さんから『このカワ販は実際は誰がやるのか?』という質問があって、高橋さんが『古谷が川重の営業から旗を振ります』と答えたら、『それを常務にせよ』という指示があって、私は突如、当時の大カワ販グループの常務となったのである。


 さらっとこのように書いているが、このダンピング問題は、事業本部にとっても大問題で、アメリカのKMCが中心で事業が回っていた時期なので、この問題の対応そのものが、単車事業の緊急課題であり、その解決対策は国内の販売会社『カワサキオートバイ販売の構造改革』という大問題の対策だったのである。
 
カワ販』という会社はかっては川崎航空機の専務や常務の方が社長を兼務されていた本社機構も大きいい重たい会社だったのである。
 そんな会社の社長以下重役陣をすべてなくすという思い切った策を講じない限り、『ダンピング対応』に効果的な経費率削減は不可能で、
私が立案した『新カワ販案』はそんなドラスチックなものだったのである。

 かっての川崎航空機の役員、当時の理事・部長といった先輩方をみんな除いて、当時まだ『課長であった私』が常務として旗を振るというものだったのである。
ただ、社長は塚本本部長・副社長には髙橋鐵郎部長と会社の形だけは外から見てもおかしくないようになっていたのである。


★グループ全体は400名以上もいたので、結構な世帯なのだが、
 グループ全体で10億円近い累損もあり大変な会社だったのだが、
 私自身は『運がよかった』と思っている。
 『カワ販』を担当したその年に『Z400FX』が世に出たのである。
 

 


 これが空前のヒット作となり、何の対策もしなくてもバックオーダーが2年も続いて、勿論経営は黒字だし、かっての累損も消去出来てしまうのである。

 この時期は私は殆ど何もやっていない。
 やっていたのは私を常務に指名して頂いた、当時の川重財務担当の大西常務毎月経営状況の報告を行うのが主たる業務だったのである。

 ところがどんどん経営内容がよくなるものだから、
 大西さんは2年目に『こうなることなることははじめから解っていたのか?』と仰るのだが、
そんなことが解っていたなど全くなくて、私が改革案を作った時には、
Z400FX』が世に出ることすら知らなかったのである。


★上の年表に、『兵庫選抜』などとあるが、この時期息子は未だ高校生だが、
 サッカーの兵庫選抜に選ばれたりしているのである。
 小学4年生ぐらいから始めたサッカーだが、中学時代も三木選抜で兵庫県で優勝したりして、サッカーに熱中していたので、私もずっと応援に行ったりしていたのである。
 
 『禁煙』などとも書いているが、これは髙橋鐵郎さんが禁煙を始められて、
 『今どき煙草を吸う奴は・・・』などと仰るものだから、
 ある日決心して『禁煙』することにしたのである。
 その日以来、1本の煙草も吸っていない。
  そういう意味では、髙橋さんに感謝である。

 81年には『ゴルフ・ハンデイ 18~13』 と書かれているが、
 ゴルフを熱心にやってた時期だと思う。
 ホームコースが『播磨カントリー』でコースレートが難しいので、
 ハンデイ20からスタートしたのだが、18の時に5アンダーが出たのだと思う、そのままハンデイが『上がる』のである。
 ここに記録はないが、その後『3アンダー』が出て『ハンディ10』になるのだが、それで月例に出るのは止めてしまったのである。

 『なぜシングルを狙わないのか?』と仰るのだが、
 8ぐらいまではなるかも知れぬが、『片手シングル』はムツカシイだろうから『これで充分』と思ったのである。

ゴルフに限らず、私の性格は『専門家』のレベルは狙わないことにしている。
それは苦しいだけで、『専門家の中の一流レベル』にはなれないだろうから、
『何事もそこそこでいい』と思ってしまうのである。

 そういう意味では『ハンデイ10の人生』だと思っている。


★ 80年に『髙橋・田崎KMCへ
  81年に『発本赤字100億』と書いているが、
  これ以降は、次回にアップすることにする。

 

 
コメント
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