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89年2月に当時の事業部から『カワサキのパーソナルウオータークラフトの事業展開について』という一文が出ている。
多分、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が纏めたものだと思う。
そこにはジェットスキーの歴史なども纏められている。抜粋をしてご紹介をしながら当時を振り返ってみたい。
『1973年に開発商品化されて74年よりアメリカ市場でのみ販売されてきた。』
アメリカ以外の市場の開拓を目指したのは、鶴谷君がオーストラリアの社長から復帰して、ジェットスキー担当として専念した85年8月以降のことである。
当時、ジェットスキーを扱う組織も担当者も明石にはいなかったのである。
そういう意味で彼は、アメリカ以外の地区のジェットスキー販売の先駆者である。
『昨年度(88年)はアメリカを中心に5万台の販売に達したものと推定される。
日本、豪州、欧州では対前年比150~250%の増加率となっている。
この間、78年にはアメリカにIJSBAのレース協会が設立され、日本でも84年にはJJSBAが設立された。
昨年のアメリカの最終戦レークハバスでは世界各地域からチャンピオンが派遣され文字通り国際レースが展開された。
また、9月に開催されたソウルオリンピックに際しては、組織委員会の要請によりオリンピックスタジアムのすぐ前の漢江において、開会式と並行して世界4カ国の代表ライダーによるデモンストレーションが行なわれた。』
とジェットスキーが世界的に認められ新しい水上スポーツとして広がりつつある兆候と分析している。
85年8月から僅か3年ほどであったが、世界の事情は様変わりしていた。
前述したように、新しく世界市場に臨もうとしたときは、事業部にその担当部門もなく企画室企画部で担当をした。
ジェットスキーに乗れる人もいなくて、たまたまジェとスキーのレースをやっていた福井昇君を発動機から移籍してもらって始めたプロジェクトであった。
当時の鶴谷君以下藤田、宇田川、福井君その上司であった故武本君たちの努力の賜物であったし、JJSBAをはじめカワサキ以外の西部自動車や大南君などなど社外の先駆者たちのご尽力も大きかったと思っている。
そんなジェットスキーも事業部の主力商品の一つに成長して、今後更に積極的な展開を図るとしている、
その第一は
商品開発の幅広い展開である。
そして第二は
この水上モタースポーツが社会に定着するよう安全操縦の推進、ゲレンデの確保など積極的な環境対策である。
第三は
『遊びの開発』ならびに多様化の推進であった。
レースの展開とともにジャンボリーの開催などイベント展開も計画展開することとし、遊びに必要なアクセサリーの開発なども積極的に行なう。
そして最後に
販売網の整備強化を上げている。
こんな事業部の基本方針に呼応して、JJSBAのレース協会の強化育成、
遊びの開発のための専門会社KSSの設立、販売網強化のためのジェットスキー専門の販売会社、当時これを担当していた。
ジェットスキーはカワサキにとって珍しく業界トップメーカーであったのである。
ヤマハさんと一緒に設立したウォータークラフトの安全協会もカワサキが会長役を引き受けたのである。
7万台の販売を目指した国内市場の於いて、その内訳は
M/C 63000台、 J/S 7000台だったのである。
この文書が出た時期の実績は3000台であった。倍増以上を目指す目標であった。
この丁度2年後、ジェットスキーの売上はピークの9270台を記録した。
M/Cとあわせて7万台を達成したのである。
いい時代の幕開けであった。
89年2月に当時の事業部から『カワサキのパーソナルウオータークラフトの事業展開について』という一文が出ている。
多分、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が纏めたものだと思う。
そこにはジェットスキーの歴史なども纏められている。抜粋をしてご紹介をしながら当時を振り返ってみたい。
『1973年に開発商品化されて74年よりアメリカ市場でのみ販売されてきた。』
アメリカ以外の市場の開拓を目指したのは、鶴谷君がオーストラリアの社長から復帰して、ジェットスキー担当として専念した85年8月以降のことである。
当時、ジェットスキーを扱う組織も担当者も明石にはいなかったのである。
そういう意味で彼は、アメリカ以外の地区のジェットスキー販売の先駆者である。
『昨年度(88年)はアメリカを中心に5万台の販売に達したものと推定される。
日本、豪州、欧州では対前年比150~250%の増加率となっている。
この間、78年にはアメリカにIJSBAのレース協会が設立され、日本でも84年にはJJSBAが設立された。
昨年のアメリカの最終戦レークハバスでは世界各地域からチャンピオンが派遣され文字通り国際レースが展開された。
また、9月に開催されたソウルオリンピックに際しては、組織委員会の要請によりオリンピックスタジアムのすぐ前の漢江において、開会式と並行して世界4カ国の代表ライダーによるデモンストレーションが行なわれた。』
とジェットスキーが世界的に認められ新しい水上スポーツとして広がりつつある兆候と分析している。
85年8月から僅か3年ほどであったが、世界の事情は様変わりしていた。
前述したように、新しく世界市場に臨もうとしたときは、事業部にその担当部門もなく企画室企画部で担当をした。
ジェットスキーに乗れる人もいなくて、たまたまジェとスキーのレースをやっていた福井昇君を発動機から移籍してもらって始めたプロジェクトであった。
当時の鶴谷君以下藤田、宇田川、福井君その上司であった故武本君たちの努力の賜物であったし、JJSBAをはじめカワサキ以外の西部自動車や大南君などなど社外の先駆者たちのご尽力も大きかったと思っている。
そんなジェットスキーも事業部の主力商品の一つに成長して、今後更に積極的な展開を図るとしている、
その第一は
商品開発の幅広い展開である。
そして第二は
この水上モタースポーツが社会に定着するよう安全操縦の推進、ゲレンデの確保など積極的な環境対策である。
第三は
『遊びの開発』ならびに多様化の推進であった。
レースの展開とともにジャンボリーの開催などイベント展開も計画展開することとし、遊びに必要なアクセサリーの開発なども積極的に行なう。
そして最後に
販売網の整備強化を上げている。
こんな事業部の基本方針に呼応して、JJSBAのレース協会の強化育成、
遊びの開発のための専門会社KSSの設立、販売網強化のためのジェットスキー専門の販売会社、当時これを担当していた。
ジェットスキーはカワサキにとって珍しく業界トップメーカーであったのである。
ヤマハさんと一緒に設立したウォータークラフトの安全協会もカワサキが会長役を引き受けたのである。
7万台の販売を目指した国内市場の於いて、その内訳は
M/C 63000台、 J/S 7000台だったのである。
この文書が出た時期の実績は3000台であった。倍増以上を目指す目標であった。
この丁度2年後、ジェットスキーの売上はピークの9270台を記録した。
M/Cとあわせて7万台を達成したのである。
いい時代の幕開けであった。