雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

神戸木の実レーシング―山本隆―加園工業―下仁田ねぎ

2010-12-16 05:55:17 | M/Cレース

★一昨日ツイッターにこんなつぶやきが流れた。

motoyrs_spl MFJランキング認定表彰式が12/26に日経ホールで行われる。招待受けているが、今年も行けそうに無い。

そのかわりと言ってはなんだが、我がふるさと「木ノ実レーシング創立50周年を祝う会」が、1/29にグリンピア三木で行われる、これは楽しみである。

『神戸木の実レーシング創立50周年を祝う会』とあったので早速、山本隆君に電話をして聞いてみた。

神戸木の実レーシングは、片山義美さんが主宰した名門クラブである。

カワサキがレースを本格的にスタートさせたころ、片山義美さんにも、クラブメンバーたちにもいろいろお世話になった。

ある意味、カワサキのレースの『育ての親的』存在であった。

当時は東は三橋実が主宰する『カワサキコンバット』に安良岡健や彼を慕って参加した星野一義などがいて、西には『神戸木の実』に山本隆、歳森康師、金谷秀夫などがいてカワサキのレースを支えてくれた。

御大片山義美は当時はスズキの契約選手であったが、クラブ員の主力がカワサキとの契約であったこともあって、しょっちゅうカワサキに出入りをしていたのである。カワサキのGP125の開発などにも少なからず助言してくれたりしたのである。

そんなことで片山義美さんの引退パ―ティーにも出席したし、今年初めのカワサキファクトリーのOB会には顔を見せたりしてくれた

つい先日も、BUG IN MIKI で会って旧交を温めたばかりである

今回の50周年を祝う会は、清原明彦や金谷秀夫が世話役だと言うので、厚かましく『私も出席してお祝いしたい』とキヨさんに言っておいて欲しいと電話を切った。

 

山本隆君は、NPO The Good Times の理事さんだし、片山、金谷、清原も、ここに名前が上がった安良岡も星野も歳森もみんな会員さんで仲間なのである。

その山本隆君は、もう65歳をたしか超えているのだが、いまだに三木アネックスパークで、春と秋行われるヴィンテ―ジMX, ON ANY SANDA には出場して、トップを走ったりする健在ぶりなのである。

昔々のこととはいえ、3年連続全日本MXチャンピオンの実力は流石と思わせるものがある。

まだまだ、この世界では人気があって何十年前の旧い雑誌に彼のサインを求めたりするファンもいるのである。

 

★突然『下仁田葱』の写真だが、昨日我が家に東京の西多摩郡の加園工業の加園さんから、こんな立派な『下仁田ねぎ』が送られてきた。

その加園さんは、東京から毎年三木であるON ANY SANDAに来られて、自分でも走られる熱狂的な『山本隆ファン』なのである。

山本隆君にネギを贈られるついでに、我が家にも送ってくださったのである。一度お会いしてお話したが、『カワサキコンバットの話』が十分通じるお年だが、今でも元気に走っておられるのである。

下仁田は加園さんの奥さんのお里だそうである。

徳川幕府にも献上されて、「とのさまねぎ」とも称されるとか。下仁田は土質が栽培に適していて名実ともに日本一と称されているそうである。

加園さん、ありがとうございました。また来年4月アネックスパークでお会いしましょう。

ちなみに言えば、NPO The Good Times の三木アネックスパークは団体会員、加園さんは、個人会員さんなのである。

 

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不思議な統計、でも県で1位、日本で第5位はビックリである。

2010-12-15 05:37:09 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ツイッターを始めて、5月にNPO 法人The Good Times の公式ツイッターとすることに決めて、その情報発信力の向上のために定めた、

『フォロワーを10万人確保』という目標は、私の今年最大の目標であった。

そのためには、『フォローする人を増やさないと』有名人でもない限り、フォロワーが増えたりはしないのである。

そんなことで5月以降、毎日フォロワーを1000人フォローし続けるための周辺作業も含めて、決して難しくはないのだが『単純作業を日課として』続けていたら、

目標の10万人はめでたく達成できたのである

それも年内という期限を1カ月以上も早く11月に達成できた。

 

★その時の順位などは別にどうでもいいのだが、上にいる方が気持ちがいいことに決まっている。

そんな順位を周辺のサイトがちゃんと数えて並べてくれたりするのである。

 

ツイッターの周辺サイトに 『twitrag』 というのがある

この表のページに、発言数、フォロー数、フォロワー数の『全国ベスト20』が載っているのだが、

真ん中のフォロー数のところに、今のところ『全国第5位』に名前が載っているのである。

私が調べたところでは、この私の数字はあっているのだが、どうも他の人の数字はちょっとおかしいように思われるのだが、

twitrag独特の数え方なのか?とにかく間違いなくずっとこのあたりに位置しているのである。

 

ちなみに、フォロワー数で言えば、このtwitragの評価では、

現在全国62位に位置している

これも、どうもおかしい。全国100位以内にいるのは、間違いないのだが、私が解っている、私より上の人の数字がおかしいのである。

何か数え方の基準が、異なっているのだと思うがーーーー。

 

★そんな順位は兎も角、10万人の効果は歴然である。

つい先日アップした『タコフェリー存続のお願い』でも、それをツイッターで流したら『ネット署名のお願い』には、現実に大勢の方から署名が寄せられたようである。

このあたりは、やはり数は力と言えるのではなかろうか。

NPO The Good Times の会員さんたちの『いいツイート』を今後も援けていきたいと思っている。

 

★こんな具体的な使い方の効果はさらに研究していくものとして、世のなか、なんでも順位を付けたがるものである。

BEST 10 だとか、BEST 20 などはその類なのだが、なかなか『一番』にはなれないものである。

今までの人生の中で一番になったことと言えば、子供のころの徒競争がそれこそ一番多くて、

そのほかに考えられるのは、会社でのマージャン大会とか、プライベートのゴルフコンペの優勝ぐらいのものである。

 

『一番』の前には、必ず何かがついているもので、それは大概大したものではないのである。

県で一番は、高校の時の夏の大会があるが、これはチームが一番で、決して個人ではないのである。

ツイッターで目標の10万人が達成できて、おまけに『兵庫県で一番』がついてきた

今年一瞬の実績かも知れぬが、今年はまず間違いなく『一番』で年を越すことができるのである。

今、『兵庫県で一番』と威張っておかなくては、もう2度とこんなことは訪れないのである。

 

喜寿を迎えた今年の、だれかがくれた『一番のご褒美』である。

多分来年の今頃は、どなたかがこの椅子にお座りだろうと思う。

5月から11月の半ばまで、毎日毎日、目標に向かって単純作業をやり続けた自分の努力褒めてやりたい気分である。

 

まあ、そんなことで『年寄りの自慢話』 をお許し願いたいと思っている。

 

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アメリカの道路をW1で走行した初めての日本人は多分私です。

2010-12-14 06:05:35 | カワサキワールド

 ★アメリカに4サイクルの大型車を持ち込んだ最初の日本メーカーはカワサキ!

アメリカの道路をW1で走行した初めての日本人は多分私です。

という説明文付きで何枚かの写真が私の手元に送られてきた。私のパソコンの技術がダメで、写真がちょっと不鮮明だが、

この若いライダー誰だか解りますか?

 

 

 W1の話

   メグロのK1(500cc)をボアーアップしたW1の試作テスト車がアメリカに送られてきたのは1965年末、フリーウエイの高速走行で

   激しい振動に見舞われ次々と部品が脱落した。日本ではまだ高速道路でのテストが出来ていなかった。

   アメリカに4サイクルの大型車を持ち込んだ最初の日本メーカーはカワサキ!

   アメリカの道路をW1で走行した初めての日本人は多分私です。

   写真は対策後のフォローアップを兼ねディーラーを訪問中のもの

    1) シカゴのディーラーとW1の評価を確認(1966年春)

    2)ネブラスカのディストリビューターを訪ねディーラーサービススクールを開催 、途中子供たちとW1で遊ぶ(1966年春)

  

   

その頃の状況

 

   19658月にシカゴに着任、カナダを含め全米にまたがる大問題が発生していた。

    1) J1 のプラグかぶりが発生、意味の無いキャブ対策に振り回された。(後に国産電機製フラマグが原因と判明)

    2) B8が工場出荷後、ガスタンク内の残留ガソリンの劣化でキャブが詰まるという問題を抱え、全数分解洗浄の

       必要があった。

  そんな状況のなかで19663月、シカゴにAmerican KAWASAKI MORTORS Corp. (資本金5万ドル)を設立、

 部品サービスセンターとして業務を開始した。これが現在のKMCの母体である。

   

 ★こんなレポート付きで写真は送られてきた。

その報告者は、元川崎重工業社長の田崎雅元くんである。

こんな若いころの写真を見ると、つい『君付け』で呼びたくなる私たちの昔のレース仲間なのである。

私の方が1年先輩で、歳の方は二つ上だから、この序列だけは何年経っても抜かれることはない。

一緒にやっていたレースチームから、大槻さんがドイツに、田崎さんがアメリカに行くことになって、明石で送別会をやったのは、1965年7月23日の事である。

このW1の写真は65年末とのことだが、世に『カワサキの7人の侍』などとカッコよく言われてはいるが、まだその当時は英語もろく喋れずに、杉沼さん頼り、バイクに乗って走ったりするのは、確かに田崎さんだけだったのかも知れないない。今でもオートポリスをバイクで走ったりして周囲を困らせたりするようだが、このころならW1のテストもどきの事をしたのはよく解る、

『アメリカの道路をW1で走行した初めての日本人は多分私です』というのも、間違いなくそうだろう。

 

★その田崎さんとは若いころから何となくご縁があって、私の会社生活で『一番一緒に、何度も仕事をした』のは田崎さんかも知れない。

労働組合の常任幹事の時も、源平芸能合戦も、カワサキが鈴鹿にロードレーサーを初めて走らせた時も、東南アジア対策で市場開発室を創った時も、日本の二輪車工業会がダンピング問題で揺れて今のKMJの構造改革をやった時も、

HY戦争のあおりを食って単車事業が潰れそうになった時、私が企画で、田崎さんはKMCの社長、故大庭社長が単車に来られて『大庭対策』や『本社対策』が必要だったころも、みんなコンビを組んでの仕事であった。

二人とも『日本人じゃない』と言われた大陸育ちのネアカな性格が良かったのかも知れない。

少々大げさに言えば、そんなことがなかったら『カワサキの単車事業』も別の形になっていただろうし、川重の社長に大庭さんや田崎さんはなっていなかっただろう。

現在のような世界基準の発想ができる、バランスシートの中味の良くなった、そんなスマートな川崎重工業になったのは、彼が『柔工業』を目指したからだろう。

そのベースにあるのは、ホンダがトップ企業として常に世界を見つめて発展した二輪業界の血が流れているからだと思っている。

ごく最近では、今年は、もう3年目ですっかり定着した『神戸メリケンパークでのミニSLフェスタ』を神戸市に繋いでくれたのは田崎さんである。

今年の1月、20年ぶりに開催したカワサキファクトリーライダーたちのOB会にも高橋鉄郎さんとともにジョインしてくれた。

『思い出を共有する人たちのことを仲間という』 私はそう思っているのだが、高橋さんも、田崎さんもみんな仲間なのである。

 

★昨日だったか、これも仲間のthiraiさんが、カワサキのレース仲間とレースファンを集めたこんなイベントを来年3月4日に企画している。

集まるのは全員、NPO The Good Times の仲間たちで、かつレースに関心を持つカワサキファンたちである。

夜のパーティー、翌日のカワサキワールド見学と続くのだが、

多分田崎さんは顔を見せるだろう。勿論NPOのメンバーだし、カワサキがレースをスタートさせたころの『レース委員会のメンバー』なのである。

工場見学、歴史車見学、立食パ―テイ、2次会、ホテル宿泊、翌日カワサキワールド見学、で先着50名限定、会費2万円。

より詳細は,1月10日発表とか。兵庫メグロファンクラブ主催で、The Good Times 会員だけだが、メグロ会員は無料で会員になれる特典がある

どんな内容に発展するか? ご期待下さい。

 

今朝、60おじさん山本隆君が、

60おじさん! 昨日申し忘れましたが、加古川地区の申込み受付窓口を(NPOTheGoodTimes入会含む)を山本レーシングでもさせていただきます」 とコメントしていました。

多分、

はっぴーえんどさんも、協讃企業として、参加されるのではないかなどと思っています。

 

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タコフェリ―存続のお願い

2010-12-13 05:48:44 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

古谷錬太郎

rfuruya1  タコフェリーがなくなると、淡路島の人たちは、明石大橋を通れない原付などのバイクで本土に渡れないのです。それで二輪協会がネット署名のお願いです。ネット署名よろしくお願いします。http://rfuruya2.exblog.jp/15597686/
 
Miho KatsukiMai Sada [Marsuke] まっちゃん4649にぐにぐシェフ中村 中村詠吉や~なかひらさかいゆきとろぷのーるしのぶ一ノ瀬友博 (T. Ichinose)サキYupうちだtetsunotsukiハラダ ケイコ
showing latest 15
thirai さんとしては二輪車協会の『タコフェリー存続のお願いネット』のお手伝いをされたかったのでしょうが、リンクの仕方が解らないと、そのURL だけをブログにアップされました。
●そのブログを見たbunC さんがツイッターで、
兵庫県二輪組合による、「タコフェリー存続のお願い」     http://toshihirai.exblog.jp/13796614/  ネット署名ページへのリンクは http://hyogo-nirin.com/ のようだ、、。 』 とthirai さんのブログと二輪車協会のホームページをリンクしています。
●私はそれを見たたのですが 、その話題とその仲間たちをexcite のブログにアップ、したのです。
●そして、それをリンクしてその前に少しの説明文をつけて流したのが、一番上に出ているツイッターなのです。
★最初に、thiraiさんが、ブログをアップした想いは、二輪車協会の
だと思います。
出来るだけそうなるように仕組んだつもりです。
この情報は、全国106000人以上のフォロワーに向けて発信されましたが、
30人を超す人たちに、共感頂いて『リツイート』して頂きました。
私は、直ぐネット署名をしましたが、果たして何人の人が『ネット署名』をなさっていただいたのか?
Hirofumi Ikeda ikeda33 自転車乗りも協力したいです RT @rfuruya1: タコフェリーがなくなると、淡路島の人たちは、明石大橋を通れない原付などのバイクで本土に渡れないのです。それで二輪協会がネット署名のお願いです。 http://rfuruya2.exblog.jp/15597686/
ilkeda33さんはこんな風に言っていただきましたし、60おじさんも署名をしてくれたようです。広がりを期待したいものです。
タコフェリーがなくなると、淡路島の人たちは、明石大橋を通れない原付などのバイクで本土に渡れないのです。それで二輪協会がネット署名のお願いです。
 
このブログをお読みになった方には、バイクファン大勢おられると思います。
是非、 『ご署名のご協力を』 よろしく、お願いしたいと思います。
 
 
NPO法人 The Good Times の仲間たちは、こんな仲間を繋ぐ活動をみんなでやっています。
 
Let the  goodtimes  roll  ! !      が基本コンセプトです。
 
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首長パンチ

2010-12-12 05:23:32 | 樋渡啓祐さんのこと

★『首長パンチ』 樋渡啓祐さんが書かれた本なのだが、どれくらいの方がご存じなのだろう?

一昨日の夜、家に届いて、昨日午後1時半ごろから4時過ぎまで一気に読み終えた。

樋渡さんは、この数年私の生き方そのものに、大きな影響を与え続けている人である。

何か不思議なご縁で繋がっている。

いま、樋渡さんは佐賀県武雄市の市長さんなのだが、それはこの本によると平成18年4月16日の投票で武雄市長に全国最年少市長として登場されているのである。

私が地方行政などに興味を持って、三木市長の薮本さんに初めて市長メールを送ったりしたのが、ちょうどそのころひょっとすると同じ日なのかも知れない。担当部門から返事を頂いて2度目のメールを送ったのが翌月の5月の初めなのである。

それ以来ずっと地方行政にも、三木市政にも、三木そのものにも、少なからず関心を持ち続けているのである。

★三木市政の中で、当時薮本さんが掲げられていた『三木のイメージの向上』という一点に絞って、その後100通を超す市長メールで提言を続けることになるのだが、

そのために全国の市のホームページを片っ端から見た中の一つに、樋渡さんが市長公室長を務める高槻市があったのである。

そのホームページの『こちら部長室』で、日本一のホームページを目指すと宣言して頑張っていた『市長公室長樋渡啓祐氏』に共感して、一途に樋渡さんを追っかけだしたのである。

残念ながら、今は高槻市のホームページから当時の記事は消えてしまっているが、

60回にもわたって投稿され続けた樋渡さんのユニークな発想は新鮮で、その中の『ブログ、ブログ、ブログ』などに影響されて、私も三木市も、ブログをスタートさせたりしたのである。

実はその時すでに、武雄市長になっておられたなどとは夢にも思わず、総務省に戻られたとばかり思っていた。

その年の秋に書いたこんなブログに、ご当人の樋渡さんからコメントを頂いて、コメントのご返事も出来ないほどブログの初心者は舞い上がってしまったのである。

 

そんなことから繋がって、このブログのカテゴリーも延々と続いているし、武雄と三木市は一時人事交流などもあったり、三木に来られた樋渡さんともお会い出来たりして、ほんとに不思議なご縁で繋がっているのである。

 

★私の気持ちの中では、高槻時代のどちらかと言えば市長などの肩書のない樋渡さんに懐かしさや親しみを覚えていて、

『首長パンチ』の中でも沖縄時代や、官邸から大阪へのころの樋渡さんに、特に興味を覚えて読ませていただいた。

 

特に印象に残っているのは、『どこか市役所に出してください』の中の

『僕が沖縄で学んだことの中でいちばん大切なこと、それは、人は人と人との間に入っていかなければならないということだ。人と人との間で生きていくからこそ。、人間なのだ。

人生は、誰にとっても1回限りのドラマである。----後悔しない生き方をしたい。---』

というくだりには共感を覚えるし、私自身がそんな生き方をしてきたと思っている。

 

★世のなかで『リーダーシップ』とか『実行力』ということが言われるが、

権限のある地位に就いた人の『リーダーシップや実行力』はあってって当然なのである。

高槻の市長公室長時代にみせた『高槻を動かした樋渡さんのリーダーシップや実行力』こそホンモノなのだと思っている。

だから、そのころの樋渡さんに特に注目をしたのである。

そして、それが『出来る』樋渡さんに興味、関心を覚えたのである。

それが出来るのは、『広報がホントに解っている』からだとも思っている。

 

★本の後半は武雄市民病院問題だが、これは日本の共通する構造問題である。

その対応策の一つとして民営化で対応されたのだが、末端の医療問題よりは自らの組織を守る事のほうを優先する医師会との確執は、日本独特のこれもまた構造問題なのだろう。

ここのところは大変であったとは思うのだが、ある意味市長という地位にある人が避けて通れなかった仕事の一つだったのだと思っている。

ただ、あちこちの市長さんがこの問題を解決できずに、ウロウロされているのが現状なのである。

 

★最後の章『新しい力』でツイッターの事にも触れておられる。

『ツイッター学会』の今後の展開も関心事ではあるが、

●私がいま、樋渡さんに一番注目し期待しているのは、『地方院』の今後の展開である。

 

なぜなら、『地方院』は、今樋渡さんが持っておられる武雄市長という『首長の権限』内の事柄ではなくて、もっと大きな事柄だからである。

別にそのままの『地方院』が実現できなくてもいい。

『地方主権』という本来の目的を、橋本さんや国定さんや倉田さんなど、それこそ人と人の間での大きな仕事を、日本のためにやって欲しいなと思っている。

樋渡さん、武雄の枠を超えて、真のリーダーシップを発揮して、是非、『実現に向けて』頑張ってください。

 

私自身も樋渡さんに、いっぱい元気を頂いている。

今日は、NPOの運営委員会である。

私なりに、三木社協やe-音楽@みきの仲間たちと一緒に、別に権限も部下もいないけれど、人と人の間で、何かもう少し大きなことができないかなと思ったりしている。

その前日、『首長パンチ』が読めたのも、何かのご縁だと思っている。

 

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空の運賃いろいろ

2010-12-11 06:29:13 | 発想$感想

★昨日だったか、こんなニュースが流れた。

安航空会社が羽田就航、マレーシアまで5000円で飛べるというのである。

航空運賃も従来なら考えられないような値段である。 

どんな条件であろうとも5000円は格安である。7月までの予約が売り切れたというのもよく解る。

 

背景には、運賃や路線設定を自由化するオープンスカイ政策の世界的流れ、があるという。

 『格安航空会社(LCC)の参入が相次いでいて、航空各社は本格的な料金競争を求められる淘汰の時代を迎えている。

 何事も国の保護に頼ってきた感が強い日本の業界だが、これを新たなビジネスチャンスとして体質改善を急ぎ、国際競争を勝ち抜く工夫と努力が必要だろう。

 整備費用節減のため、機材の更新はむしろ大手航空より早いとか、安全性でも安かろう悪かろうの代名詞とされた出現当時のイメージは払拭されつつある。

、国内大手の全日空もLCC設立に動き始めた。そんな新しい時代なのである。』

産経の『主張』は空の運賃問題をこのように解説している。

 

★そんなニュースが流れた昨日、同じ空の運賃だが、こちらは荷物を運ぶ航空運賃の話である。

アメリカにいる孫たちの弁当箱なのだが、何か3段になっている保温も出来る弁当箱がアメリカでは売っていないので、日本で買って送って欲しいと娘に頼まれたらしい。

それを買ってきて、ついでにポカリスエットはアメリカでは高いので、日本で売っている粉末のものをわざわざスーパーに頼んで1カートン、それにおかきなども添えて、クリスマスプレゼントで送ってやることになった。

 

私は郵便局からのその発送だけを家内から頼まれたのである。

航空運賃は結構高いのでと、送料として5000円だけは預かって出かけたのである。

郵便局に行って、重量を量って、『何便で送られますか?』

いろいろあるのだが船便は4500円だが、2カ月以上もかかるのでダメ、

航空便の一番早いのは11000円もかかる、その次が9600円というのである。

あまりの高さにビックリした。

掛の女の人もこれはちょっと高過ぎると思ったのか、『中味をつめかえられますか?』 などと気を遣ってくれるのだがーーーー。

 

送付伝票の記入欄には、品目の名前や値段など詳細に記載しなければならないのだが、その購入金額は6000円ほどなのである。

アメリカでは売っていない弁当箱は兎も角、ポカリスエットがアメリカでは高いからという理屈は、航空運賃9600円ではどうしても損得計算からは答えは明らかなのである。

どうしようか迷ったのだが、結論はそのまま送ることにした。

 

★『送ることにした判断の基準は?』 と言われると困ってしまうのだが、『まあいいか、送ることにしよう』と送ってしまったのである。

9600円の送料がかかっても、多分頼んだ家内は 『文句を言わないだろう』 と何となくそう思った。

結果は、家内はビックリはしたが、予想通り文句は言わなかった。

『3人の孫に5000円のお年玉を上げたことにしよう』などと理屈をつけて、この件一段落着だったのだが、

マレーシアからの航空運賃が5000円という同じ航空業界で、小さな箱がアメリカまで9600円は、如何にも高すぎる気もするが、

世の中いろいろあるものである。

人の判断もいろいろあるものである。

女性の『高い安いという判断基準』もオモシロイ。

 そして、納得の仕方もオモシロイ。

 

私の『頼まれごとに対する判断』、今回は結果的には合格であった。 

空の運賃もいろいろである。

 

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昭和37年、(1962)単車営業に異動そして結婚、スタートの年

2010-12-10 05:18:44 | 自分史

★前年末に1年間の療養を経て退院、新しい職場は単車営業に決まった。

まだスタートしたばかりの単車事業は、みんなが初めての経験で営業と言っても私を入れて3人だけの陣容で、品質保証部の機能のサービスもたった3人だけであった、そんな時代だったのである。

肝心の車は125ccがB-7の時代でフレームに欠陥があって今で言うならリコール、そんなものはない時代だが毎日全国の代理店から返品が続いたのである。

当時は125cc以上には物品税がかけられていて出荷の時点で掛けたものを返却の時点で当然のことだが戻してもらわねばならない。払うのは至って簡単なのだが戻入手続きはいろいろと条件があって難しいのである。

明石税務署の現物検査立ち会いなどもあって、手間もかかるし出荷時の姿のままであることがMUSTなのである。走行距離が出ていたらダメだし、とにかく理屈上は出荷の時の姿のままでないと認めて貰えないのである。

営業とは言いながら、返却物件処理掛のような営業だった。

 

★単車事業としても、販売はカワサキ自動車販売がやっていて、全国に自前の代理店が各県ごとにあった時代である。輸出などはゼロで国内100%であった。

4サイクルのメグロはその時点ですでに吸収はしていたが、カワサキの明石工場では2サイクルオンリーの生産であった。

事業としてもまだとても一本立ちは出来ていなくて発動機の中の一部門だったのだが、不安定でこの年の間に3月1日付で単車部になったかと思ったら5月には事業制になって発動機事業部に、10月にはさらにその中身の変更など年中職制変更を繰り返していた。

そんな組織の中で一貫して業務というか管理畑をやらされて、掛長は課長兼務で掛長心得みたいな立場であった。今考えてみると管理事務ではサラリーマン生活で一番忙しかった1年であったかもしれない。

月はじめは、カワ自との営業連絡会議、そのあと生産連絡会議と定例会議の事務局、議事録の作成など定例業務があり、そのほかに広報もサービスも雑務全般いろいろなものをぜんぶ背負っていた。

それらの仕事も、だれも経験がなく形が決まっていなくて、それをぜんぶ勝手に決めねばならなかった。

8月にあった岐阜での展示会には、カワサキとともにメグロも展示されて、その時には目黒はもう存在しなかったので、目黒の車の会場でのネームプレートに『カワサキメグロ』と書いたのだが、『カワサキメグロってなんですか?』と質問されたりして困ってしまった。

この年8月14日は、唯一『カワサキメグロ』なるバイクが存在した記念すべき日である。

10月4日には、やはり広告の看板の関係で、まだ建設中で完成していなかったスズカサーキットを訪ねている。土を盛ったままのメインスタンドの前を130キロのスピードでレーサーが駆け抜けていく姿を観て、そのスピードにも爆音にも驚いたと当時の日記に書いている。130キロは当時では考えられないスピードなのである。

多分間違いなくカワサキの人で鈴鹿サーキットに初めて行ったのは私に違いないと思っている。

 

★販売を担当していたカワサキ自販は、川航の土崎専務が社長で高野さんが専務をされていた。

総務課長兼広告宣伝課長をされていたのが、小野田滋郎さん、あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の弟さんである。この小野田さんに会ったことで、私のその後の進路、レースや広告宣伝なども決まったのではないかと思う。

人生で出会った人の中で、『この人にはとても敵わない』と思った人はそう何人もいないのだが、小野田滋郎さんの仕事ぶりをみて、とても太刀打ちできないと思った。その小野田さんに出会ったのがこの年である。別に上下の関係ではなかったのだがいろんなことで小野田さんを手伝ったし、小野田さんからは可愛がって貰った。

何事にも出来ないなどと弱音など絶対に吐かなかった。出来るまでは時間などに関係なく仕事を続けた。手伝っていただけだが何度徹夜をさされたか解らない。会社で徹夜で仕事をしたのは小野田さんと組んだこの年だけである。

お兄さんの寛郎さんを探しにフィリッピンに出かけるときにも、『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じていた。

 

そんな小野田さんの広告宣伝の手伝いで、この年の7月にはモペットのM-5の撮影に三木の175号線の池のあたりにロケに来ている。モデルには会社の女子社員を使っている。

8月25日にB-8の発売準備を始めて、この年の秋の晴海のモータショーにはB-8が出展されている。そんなに人気にはならなかったが、この車が出なかったらカワサキの二輪事業はなかったのだと思っている。

このエンジン設計者が、後マッハや東南アジアでヒットした名車GTOのエンジンを担当した松本博之さんである。

9月には鳥取砂丘にヘリコプターを持って行って、翌年の『カレンダーの撮影なども行っている。一度目は天気が悪くて 撮影できずに1週間置いて2度鳥取に行っている。

そして2度目の時は帰りはヘリで明石まで戻ってきた。山を越えるともののなん十分で明石まで着いてしまう。京都周りで何時間もかけてきた鳥取がウソのようであった。

★そんなこんなで忙しかったこの年の12月21日に、神戸の六甲荘で結婚式を挙げている。

立派なところで、教職員の関者しか使えない場所だったが、野球部の友人の親父が校長先生だったので、そのコネで使えるようになったのである。

めちゃくちゃ忙しい時期だったし仲人を次長の小野さんにお願いしたこともあって、月初は会議などの事務局を担当していたのでダメということで、21日というややこしい年末の時期になった。その代わり正月休みも含めて半月ばかりの連休となった。

野球部の連中は、金はなんとかするから出来るだけ沢山呼べ、その代わり忘年会の一次会代わりだから披露宴は3時からにしてくれなどと勝手なこと言って他人の結婚式の中味を勝手に決めたのだが、私は幾らだったか忘れたが一定額を出したのだが、あとは会場を取ってくれた球友以下がやってくれたのでよく解っていないのである。

朝鮮時代の小学校の恩師やトモダチや、高校、大学時代の球友など大勢集まって誠に賑やかきわまる披露宴で、司会を会社の先輩の坂口さんと小野田滋郎さんが取り合いになるなど、まさに忘年会の一次会のような披露宴であった。わたしも飲まされたし、歌も歌えと言うので神戸一中の校歌などを歌った。

お陰で終わりは2次会にちょうどいい時間にはなったのだが、新婚旅行に出かける時間としては誠に中途半端で、京都に宿をとったのだが、そこまでは三宮から普通電車で、それも大阪までは小野田さんと一緒に出かけたりしたのである。

もうあれから50年近くになる。仲人をしていただいた小野助治さんも坂口さんも小野田さんも、球友の何人もがこの世を去ってしまわれた。

新婚旅行は山やスキーの好きな坂口さんの言うとおりにしたのだが、北陸の湯湧温泉などはよかったが、長野の赤倉のスキー場は本格的すぎて一度もスキーの経験のない二人には『リフトで登ったらリフトでしか降りて来られませんよ』と脅かされて、直ぐヨコのバスの停留所うのようなところでスキーの真似ごとをしただけの赤倉スキー場であった。

考えてみると、披露宴も新婚旅行も忙しかったので、トモダチや先輩が半分手伝ってくれたようなものだった。

いい加減なところもあったが、兼六園も善光寺にも行ったし、特急の1等車にもちゃんと乗って戻ってきた。

 

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昨日は、いろいろありました

2010-12-09 05:52:11 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨日はいろいろありました。

久しぶりに朝から神戸に出て、夕方家に戻りました。

昨日書いた『アメリカの孫たち』というブログに対して、娘からクレームのコメント、ちょっと気になるらしくて。

こんなコメントです。

『 少し訂正をさせていただきます・・・・。英検は1級ではなく準1級です。
この違いはかなり大きいので・・・・・(汗)。
あと「ゴールキーパー」はやらされているのではなく本人の希望でやっています。
キーパーのポジションが1番好きらしいです。
・・・でその末っ子は3歳からいるのに未だに英語が上手に喋れません・・・以上です~。』

 そのうち頑張って、難しいと言う英検1級、取ってください。

いろいろ書きましたが、あとは合っていると言うことでしょうか。

 

 ★昨日は、カワサキの昔の仲間たちと灘の酒心館で昼間からこんな美味しいお酒を頂いていました。

 

仲間といっても、錚々たるメンバーです。

高橋鉄郎さん、桑畑さん、田崎さん、野田さんと私の昨日は5人だったのですが、いつもの通り話題はあちこちに飛んで、時間がいくらあっても足らないようないい会合でした。

このメンバーで、『カワサキの単車やジェットスキーの海外も含めて、国内も大まかなところは、全て語れる』と言ってもいいかも知れません。

企画、営業、技術、生産、品証、部品、メーカーの資材を除く部門は全て担当していますし、マーケットもアメリカ、国内、東南アジアと専門的にこなしているメンバーです。

最近、特に国内関係は、昔のカワサキについてのユーザーの関心も強く、業界雑誌などもカワサキを取り上げることは多いのですが、歴史をより正確に伝えるためにいろいろと努力が必要だなという感じもします。

昨日は田崎さんが、40年前のアメリカでの貴重な写真を何枚か持ってきてくれましたので、そのころの話など、また別の機会に纏めたいと思います。

 

昨日の雑談は、単車事業だけでなく川崎重工の経営全体にも及んだ、なかなか示唆に富んだいい話でした。

 

★そのあと、甥っ子がやっているこんなギターの専門店、TONE Blueを訪ねました。

今度、NPO The Good Times の団体会員に参加すると言うのでどんな様子なのか、初めて訪ねてみたのです。

これもなかなかオモシロそうでした。

★神戸は今ルミナリエです。

6時に点灯だそうですが、その1時間以上も前の5時前なのですが、もうこんな人出で、点灯の瞬間を観ようとする人たちでいっぱいでした。

 元町から三宮まで歩いたのも、本当に久しぶりです。

師走の神戸の街は、やはり静かな三木のまちとは全然違った表情です。

ここも久方ぶりのセンター街午後5時の様子ですが、人の流れは多いのか少ないのか。

街はすっかりクリスマス、年末商戦の雰囲気でした。

ここから三宮の地下街を通って、駅の東から三木への快速バス、5時20分発に乗って、6時10分に家に着きました。

時間的には意外に近いのですが、このごろは神戸の街もご無沙汰です。

昨日はそんな神戸で、いろいろあった1日でした。

 

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アメリカの孫たち

2010-12-08 05:22:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★娘の一家がアメリカで生活するようになってもう何年になるのだろう。

男ばかり3人兄弟の孫たちも、今では高校、中学、末っ子も小学生4年にもなって、すっかりアメリカの生活にも馴染んで毎日を楽しんでいるようである。

娘は昨年突如、Danthree in California というブログを立ち上げて、殆ど毎日アップしているので、どんな生活ブリなのかは手に取る様に解るのである。

Danthree とは、『団子3兄弟』と言ってたのをいつからか、ヨコ文字に換えたのだが、ブログのほとんどが孫たちのことばかりで、母子家庭かと思うほどお父さんは登場しないのである。

そんな娘から昨日突然、『真も哲も優勝したよ! おばあちゃんいる』 と電話がかかってきた。

3人ともサッカーをしていて、この1,2年特に下の二人は熱心なのである。 ブログの中味も半分以上サッカーなので、優勝したことも知っていたが、

わざわざ『おばあちゃんに――』というのは何かお祝いでもせしめようといういう魂胆なのかも知れない。

 

★アメリカで子供時代が過ごせたのはよかったなと、思っている。

アメリカの良さ、というか何か日本にないものが自然に身に付くことは、将来生きていく上で大いにプラスになると思っている。

少なくとも、今の日本の子供たち、特に都会の子供たちの生活からは、おおらかなのびのびとしたモノが少なすぎるように思う。

その点アメリカはフランクで、自由で、何ごとにも至っておおらかなのがいい。

 

とにかく広いし、

誰に対しても、公平である。 世界のいろんな人たちと付き合えるのがいい。

英語も当然のように喋れて、高校と中学の上の二人は、当たり前のように英検1級の資格をで取った。 夏休みに戻ってきたときにこちらで受けたのだが、普通に喋っていることのテストなので、好成績なのも当然なのかもしれない。

英語が学問だと言う意識がないのだと思う。

日本人のトモダチもそこそこいて、日本語の方も大丈夫である。

 

末っ子は、小学4年生なのだが他の子供たちが小さいのではないかと錯覚するほど大きいのである。 それでサッカーではキーパーをやらされている。

もう少しスマートになればいいのだが。

次男の所属チームはアメリカ代表チームに3人も先輩が入っている名門チームで、セレクションがあってなかなか入れて貰えないという。次男もつい3年ほど前までは末っ子同様の体形だったのだが、『太りすぎ』とセレクションで落とされて、一念発起体重を落として1年後やっと入れて貰えたのである。

二人ともコーチから、肉、豚はダメ肉はチキンだけときつく言われて、今は野菜をいっぱいくっているとか。 ブログにそう書いている。

長男もサッカーもやっているが、何かこだわりが強くて背番号はに日本で小学生の時つけていた21番だという。

ヴァヨリンなど音楽もやっているとか、数学も得意だと威張っている。

自分で選んで身につける服は黒と白だけだとか

毎年夏休みには、遊びに日本に戻ってくるのだが、以前のように遊びをせがまれることもだんだん少なくなってきた。

それだけ成長しているということだろうか。

『団子3兄弟』などと言っていたが、だんだんと団子らしさが薄れていく。

鎌倉にいる日本の孫は、来年は大学受験で、正月も受験勉強で忙しいのだろう。 果たして顔を見せるかどうか。

 とにかくみんな、健康に素直に育ってくれれば、それでいいと思っている。

 

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NPO法人 The Good Times

2010-12-07 06:12:37 | NPO The Good Times

★「異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を過ごそう」

NPO法人The Good Times の設立趣意書にはこのように書かれている

その書き出しと最後に書かれた「モザイク社会」や「モナリザの名画」のくだりの文章は、当時の三木市の企画を担当されていた「滝の瀬さんの文章」からお借りしたものである。

『 21世紀の少子高齢化社会を「モザイク社会」と言われたりします。
近年、個人の生活も、いろんな団体の活動も、それぞれが好きなことだけを断片的に行う傾向が強くなってきています。そして、これを繋ごうとする力が逆に弱くなっていることから、家族や地域コミュニティの弱体化進んでいるものと思われます。
また、インターネットの世界では、ブログやSNSなどそのシステムの向上は目覚ましく
「異種、異質な組織」が「それぞれの資源や特性」を持ち寄り、「対等の立場」で連携し、イベントや講座の共催、共同運営を行うのに、SNSなどの新しいネットの仕組みは非常に適しています。

この法人の活動は、個々のグループの活動の連携を図るソフトの活動です。
このような社会の新しい仕組みを最大限に利用して、モザイクタイルを貼り合わせ一枚の名画を創作するように、個々が持つすばらしい素材をつなぎあわせて、21世紀のモナリザの名画を描くような新しい活動を企図しています。』

★そんな基本コンセプトで、NPO法人The Good Timesがスタートして1年半が過ぎようとしているが、

世のなかにあまり例のない「システムそのもののNPOソフト法人」だが何とか、設立の趣旨に沿った具体的な活動展開がようやく可能になりつつあると言っていい。

 

先週までは、考古学の窯跡研究会のみなさんが、

三木アネックスパークといいうモトクロス場のパドックの奥に

1300年前の古代の窯を忠実に再現して

年に一度火入れをして実際に登り窯で陶器を焼くのだが

それに協力したのが、三木市特別支援学校の生徒たちや三木市の陶芸グループの人たちである。

それを繋いでくれたのは、緑が丘こども会のアラケンさんである

昨年に続いて2回目のプロジェクトで、今年の窯出しの様子はこのようなものであった

 

別に、NPO法人は何もしていない、ただやりたい会員さんを繋いでいるだけの事である。

そしてその結果は、会員さんのブログを集めたタンブラーやさらにはNPOの公式ツイッターで情報発信されるのだが、その発信先は世界に向けて今のところ105000人である。

 

NPOのホームページにあるように全国約40のユニークなグループと1000人を超える個人会員で今構成されている。

これらの会員さんが、自分のやりたいように上手にNPOのシステムを利用すれば世界はどんどん広がるし、じっとしていればそのようにしかならないのは、ブログでもツイッターでも同じことである。

今のところ、

ホームページ、ブログ、ツイッター、タンブラーなどの既存システムと個人会員カードだけの組み合わせだが、

お金がかかるホームページと会員カードは既に出来上がっていて、後のシステムは幾ら使っても無料だから、月々の経費はホームページの維持費5000円だけである。

そんな身軽な環境の中で、来年に向けてまた新たな展開が期待されている。

 

★関東のグループでも動きがあるが、地元三木では、

三木社会福祉協議会のボランタリープラザ』 と『三木労音が e-音楽@みき』とその幅を広げて、参加されることになっている。

どのような具体的な展開になるのか?

アイデアはそれこそいっぱいあるが、具体的には今から考えて行けばいい。

先日から活動に参加した、三木労音、e-音楽@みき のグループはこんな新しいブログタンブラーを独自に立ちあげた。1

 

三木ボランタリープラザは、テリトリーは三木全体だから、すでにあるハッシュタグ #eーmiki でくくれるかも知れない。

今度の日曜日、NPOの理事会には、二つのグループはオブザーバーで参加される。

 

来年3月6日には、「まちづくり協議会の講演会」の演題に『NPO法人The Good Times』が上がっている。

そのころまでには、少し具体的に纏めたい。

今、なかなか、いい感じなのである。

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淡水会野球クラブ総会および懇親会

2010-12-06 06:09:08 | 発想$感想

★先週の土曜日、淡水野球クラブの総会があって参加した。

どんな内容か、実際はどんなことだったかは、このブログの通りで終日みんなが楽しんだ

末尾に付けた総会議題と内容は、確かにその通りなのだが、それに要した時間はほんの数分で、

朝10時から夜遅くまで、参加した人たち現役も、若いOBたちも旧い人たちにとってもそれぞれ楽しい、年に一度のお祭りのようなOB総会なのである。

大体、参加費1万円が半分寄付みたいなもので、遠方で参加できないOBたちもオークションの商品提供で参加するなどなかなかのアイデアなのである。

昨今、この種のOB会などへの若手OBの参加が少なくて寂れていく傾向の強い中で、年々若手OBたちの増えていくこの会合は特筆ものであると思う。

 

★このスタイルのOB会になったのは前会長の太田武郎さんからである。

それまでは、私も出席などしたことはなかったのだが、2年上のキャプテンであった太田さんやマネージャの多田さんに言われては、欠席するわけにはいかなかったのである。

オークションの商品提供なども、私も現会長の原田くんもカワサキ現役だったので、カワサキの用品類も結構気前よく提供したものである。

 太田さんの後を受けて原田君が会長になってからは、さらにいい傾向に発展して、最近の若手OBの多数の参加をみるまでになった。

このブログをお読みの方の中にも、『原田が会長ならさもありなん』と納得される方も多いと思う。 想像されるとおりの誠にざっくばらんな運営になっているのである。

そして現役たちにとっては、年次会費のほかに、1日で60万円もの援助金がオークションなどで集まるのである。

 ★昨今は、私自身も上から数えて何人目の位置にいるのだが、

あまりみっともない動きだけはしたくないと自分自身を叱咤激励して日頃ストレッチなど続けていて、喜寿の割にはちゃんと走れたり投げたり出来るのである。

今年はホントの優秀選手に交じって、ピッチャーの投げる速い ボールを打つ軟式野球への参加を評価して頂いて特別賞を頂いた。

今年は白内障でボールが見えにくかったが、来年1月には白内障の手術をするので来年は今年以上に頑張りたいと思っている。

 

★そんなOB会であったが、ヨコに坐られた2年先輩の多田さんに、オモシロイ話を初めて聞いたのでご紹介しよう。

われわれの現役時代リーグ戦で使っていた球場は、あの甲子園球場なのである。

そのおかげで、私がプレーした回数の一番多い球場は 『甲子園球場』 なのである。

高校時代の県の予選でも、正月の高校のOB戦も甲子園だったのでで、甲子園球場はそんなに特別の球場でもなかったのである。

でも、なぜ甲子園を使えるようになったのか? そんな経緯は全然知らなかったのだが、多田さんに教えて貰ったのである。

 

多田さんは大阪の高校ご出身で、大学でも直ぐマネージャーをされた。

たまたま高校の先輩が阪神電鉄のエライさんで、当時リーグ戦の球場が決まっていなかったので、その阪神電鉄の先輩に甲子園を貸して貰えないかと頼みに行ったそうである。

それも厚かましく 『無償で貸して貰えませんか』 とお願いしたら、

『無償はダメだが、1000円払え。その代わり阪神電車の無償の切符をやる。』ということで決まったそうである。

当時の1000円は今の1000円とは値打ちが違うが、甲子園を1日1000円で貸して貰ってリーグ戦を戦っていたと言うのは、今の人たちにとっては夢物語だろう。

私が入部したころは、関西6大学は西宮球場、近畿6大学は甲子園球場が当たり前だったのである。

 

それなのに、リーグ戦の球場が甲子園から大阪の日生球場に変わってしまうのだが、

それは別に甲子園から追い出されたのではなくて、他の5校は大阪や和歌山の大学で兵庫県は本学だけだったので、みんな 『甲子園よりは日生の方が近くて便利』 という連盟のほうからの希望で出て行ったのだそうである。

野球の事ばかりでそんな連盟の裏話は全然知らなかったのだが、今の選手たちが聞いたらどんな風に感じるだろう。

60年近くも前は、そんなのんびりしたいい時代だったのである。

 私が数多く甲子園でプレーできたのは、多田さんのお陰とは知らなかった。

 

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ツイッター雑感

2010-12-05 05:19:47 | 樋渡啓祐さんのこと

★私がツイッターを始めたのは昨年の12月、ちょうど1年経った。

1年経過ぎて、こんな結果になるとは予想だにしなかった。

この1年、特に5月から11月までは、1日の大半をツイッターに関わって過ごしていたと言っても過言ではない。

 

★ツイッターに興味関心を持ったのは、箕面の倉田市長がツイッターをおやりになっていたからである。 確か登録だけはもっと早い11月にしたのだが、何をどのようにすればいいのかさっぱり分からず、登録したまま放置していた。

昨年12月、武雄の樋渡市長が始められて、三木でも仲間のさるとるさんが始めたので、いろいろ聞いてやっとやり方が解って昨年12月の初めに第一声を発したのだと思う。

その樋渡さんが『ツイッターの行政活用』について、書いておられる。

 

ツイッターに限らず世のなかに存在するいろんなシステム、例えばブログでも、SNSでも、ツイッターでも、

それを使う人の使い方、そのベースによる発想によって、その真価が発揮されるのだと思っている。

さらに、インターネットの世界はヨコに繋いで活用してこそ、その真価を遺憾なく発揮するのだと思う。

 

ブログの世界でも、市長さんなどという一般にはただ堅く真面目一方のイメージからはずっと離れて、

『独特の樋渡啓祐の世界』 を創って来られたが、

このツイッターに至っては、行政での具体的な活用、武雄市職員の全員参加、さらにはツイッター学会などヨコに繋ぐ展開は流石である。

特に、民間の一般の市民のかたとも気軽に繋がっているところがいい。

樋渡さんのツイッター、いつもこんな具合で、激務の中どのように対応されているのか? 

いつも不思議に思っている。 樋渡さんならではの独特のスタイルなのである。

何事も『差別化』が一番大事なのだろう。

 

NPO The Good Times 自体が元々ヨコに繋ぐシステムとして起案し立ち上げたものなのだが、

スタート時点はホームページとブログだけであった。

ツイッターが出てきて、会員の皆さんが多く参加して、さらにはノヴァエネルギーが公式ツイッターを立ち上げて、

昨年5月からは、NPO法人の公式ツイッターとして、その情報発信力の強化充実を目的に、

フォロワー10万人を目標に頑張ってきて、11月には予定通り達成できたのである。

さらに最近では、会員さんのブログもツイッターも繋いで見せる、The Good Time Tumblr も出来て、ヨコのつながりがカッコよく出来るようになった。

そして一歩進んで、会員さん独自でも、新しいシステムを使ったこんなブログが、先週からスタートしたのである。

 

★ツイッターは、行政や企業でこそ真価が発揮できると、私は思っている。

だから、三木市にも市長メールでその採用を勧めているのだが、もう一つ反応は鈍い。

ただ、ツイッターを採用してもリーダーがちゃんとコンセプトをを確り持たないと、ただのモノ真似では機能はしない。 

要はリーダーのやる気なのだと思う。

 

ツイッター1年、私の周りのツイッターの状況はこんな感じである。

来年の12月には、どんなことになっているのだろうか?

1年経つのは早いが、1年あれば結構いろいろ出来るものである。

また1年、頑張りたいと思う。

 

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鈴木宗雄さん 収監

2010-12-04 04:58:46 | 発想$感想

★日本は法治国だから、裁判所の決定には従うのが当然なのだが、これはどう考えても不思議としか思えない。

刑務所に入る人を200人もの人が激励して、送り出そうとしているのである。

罪を犯して刑務所に収監されるのは、『それは罪を犯したからである』

それが本当にそうなのかどうか?

世のなかに冤罪はおおくあるようだし、昨今の検察の調べ方がおかしいと、おかしな調べ方をした検察が起訴されるかも知れないようなことになっている。

鈴木さんを当時調べた検察官も、全く同じような態度であったようだし、リクルート事件の小説を読んでみても、どうも罪は検察で創られたのではないかと思ってしまうのである。

それはもう過去のことで、その時決まった罪だから、そして裁判所の決定だから仕方がないのかも知れないが。

 

★鈴木宗雄さんがまだ自民党にいて、国会でいろいろ言われていたころ、ムネオさんはそんな人だと思っていたし、私に限らず、みんなそう思っていたに違いない。

私が、鈴木宗雄さんを意識したのは、2004年5月から毎日書かれている『ムネオ日記』に2年ほど前に出会ってからである

以来『お気に入り』に入れて、毎朝見るようになった。

毎日書かれる、国への想い、政治への想い、ご自身のいろんな事柄に対する所見などを読んでいると、『この人はウソはつけない人』だと言うことはよく解る。

何年か前にマスコミがこぞって造り上げた、『鈴木宗雄のイメージ』とは全然異なるもlのであった。

昨年だったのか今年のはじめだったのか忘れてしまったが、三木市長選の時『いなだ三郎さん』の応援に三木に来られて、話を聞いたことがある。

 

★今朝の『ムネオ日記』である。

『15時から、私の「送り出し会」をして下さる。 弘中惇一郎弁護士から鈴木事件は「冤罪だ」と、やまりん事件・島田事件についての話があり、佐藤優さんから私の収監中「毎日手紙を書きます」と、心のこもったお話をいただく。

森元総理・鳩山前総理から中川一郎先生時代の私の仕事ぶり政治家になってからの働きぶりを情熱的に語って下さった。
 

亀井静香・伊吹文明・古賀誠・額賀福志郎・原口一博各衆議院議員・福島みずほ参議院議員からそれぞれ激励の挨拶をいただく。
 

田原総一郎・佐高信・小沢遼子さんからは8年前のムネオバッシングで「誤った、正しくない情報で鈴木さんを誤解していた」と、人間的なお話が披露された。
 

人間関係をつくづく感じながら温かい送り出しに心から感謝した次第である。
 私は6日、収監の予定である。細かいことは弁護士さんと東京高等検察庁で打合せに従って、淡々と粛々と収監に備えたい。』

刑務所に収監される人を、こんなにまともな人たちが激励して送り出すこと自体が、不思議な出来事である。

200人ものひとが集まったとか、ニュースは伝えている

記事の中には、

『ーーー宗男氏は「収監は恐れていない。ただ、賄賂はもらっていないというくやしい思いは拭い去らない」とし、「(収監中も)真相究明を目指し、発信していく」と戦う姿勢を強調した。』

とあるが、どのような形での発信になるのだろうか?

1年5カ月、頑張って欲しいと思う。

 

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昭和36年(1961)入院生活、そして退院、単車営業に。

2010-12-03 07:19:46 | 自分史

★昭和36年28歳である。

この時期まだ日本で肺結核は、広く一般的な病で、この病気で入院療養する人たちも多かった。

そんな肺結核に大学2年のころから掛っていて、殆ど療養らしきこともせずにずっと野球などやっていたら、肺浸潤から肺結核、さらにはそれに空洞まで出来てしまっていた。

何とかなるかと放っていたのだが、35年の秋に会社の診療所の先生にいわれて、その治療に入院することになったのである。

入院をするとなると、1年以上の療養は覚悟せねばならず、当時空洞のある人たちは手術をすることが普通であったので、それも覚悟しての入院であった。

 

★肺結核は別にどこが痛むでもなく、栄養を取って安静にして、マイシンの注射をするぐらいのことだから、ずっと終日ベッドに寝ていなければならぬような退屈な療養生活ではないのである。

ちゃんと自由時間もあって、兵庫県三田市の高台のいい環境、いい自然、いい空気の中で、楽しく過ごした1年であった。

『楽しく??』 と思われるかも知らぬが、直ぐ環境に適応して誰とでも仲良くなれる性格が幸いしたのだろうと思う。

10月末に入院したのだが、最初にビックリしたのは、毎日と言っていいほど松茸が食べれるのである。

 松茸山の真ん中にあるような立地で、松茸が『幾らでも』採れるようなのである。

所謂松茸泥棒みたいなものだが、当時はまだそんなことも、それほど厳しく言われていなくて、先輩たちがどこからか取ってくる松茸を焼いて食うことから療養生活は始まった。

そこらあたりに池もいっぱいあって、春からは初夏にかけては、毎日のように釣りをしていた。それも鮒でも鯉でも、ビックリするほどよく釣れるのである。

軽い運動は自由だし散歩もできたし、バドミントンなどもここで覚えて結構うまくなった。

時間があるから工作をする人もいて、一時木工のオルゴール造りなどにも熱中した。いまでも家には当時の作品が残っている。殊のほか上手に出来ているのは、そんな先生がいたからである。

碁も打ったし、本もいっぱい読んだ。

こんな生活が楽しくない人は、どこでどのように暮らしても、『楽しくない』人だと本当にそう思って、見舞に来た人に『楽しい』などと言ったら不思議な顔をされたものである。

 

★肝心の病気療養の方は、級ごとに日課が決められていて1時から3時の安静時間以外は自由なのである。

マイシンの注射を打つ日だけは体がほてったり自覚症状があるのだが、後は定期的な診察ぐらいのものである。

春の断層写真で、経過良好手術の必要なし、夏の断層写真で、年内退院OKとの診断が出て、療養と言っても気分的には希望に満ちた?療養生活だったのである。

そんな順調な約1年の療養生活で、この年の12月10日に退院したのである。

不思議なくらいに良くなって、何年も抱えていた空洞は消えてしまって、77歳の今まで何の「問題も起こっていない。

結果的に良かったのは勿論だし、 いろんな意味で「運がよかった」のだと思う。

財産課でのIBMプロジェクトも一応完成して、結婚も決めねばならぬ一番いい時期に、1年間休ませてもらって、それが後の人生にも最高にうまく繋がったと信じているのである。

 

★入院生活の中で、いろんな新しい経験もあった。

この療養所は当時の川崎グループのもので川重、川車、川航の人たちが、部長、課長、などの職位には関係なく全く同じような団体生活の場なのだが、こんなところにまで職位を持ち込みたがる人もいるのである。

そういう点では、川航の人たちはエライさんも圧倒的に人気があった。3社の中では川航はそんな自由な社風だったのかたまたまそこにいた人がそうだったのか?

『年上の人には敬意を、同年輩にはざっくばらんに、年下の人たちには努めて面倒をみる』という運動部で身に付いた生き方は、個々の療養生活でも大いに役立ったと思っている。

 

本人は至って気楽に過ごしていたのだが、ずっと心配をしてくれていた人もいる。

母がそうであったろうし、ずっと付き合っていた家内もそうだったと思う。

この1年間があったから、手紙というものを普通の人の書く一生分以上のモノを書いたと思うし、受け取ったりしている。

これは、こんなことがなかったら、『なかった経験』だから貴重だと思っている。

退院したら、結婚しようと決めたのも、ここでの生活の時であった。

 

★退院の目途が立って復職は、古巣の財産課でないことは、秋口から聞いていた。 企画管理部門か勤労などといううわさも入ってきた。

それが最終、新しく事業を始めた二輪車担当の『発動機営業課単車掛』に決まった。まだ単車は職制上は掛しかなかったのである。

この1年間の入院がなかったら、単車の方に異動できたかどうかは解らない。

 

12月10日に退院をして、12月16日に新しい職場に出社している。

新しい事業を何とか進めようと言う会社の意志みたいなモノは感じられた。

ただ、現実のカワサキ単車は125ccB7の時代で誠に厳しい状態であった。

12月16日、北沢課長に言われた最初の指示は 『物品税を調べてくれ』だったのである。

 

営業はモノを売るところだとばかり思っていたのだが、その時点ではB7のクレームによる返却対策が一番難しい問題だったのである。

毎日毎日全国から明石工場に返却されるのである。翌年の1月には返却が出荷を上回って生産がマイナスになったりした。

125cc以上は当時は物品税の課税対象で、物品税の支払いは至って簡単なのだが、いったん収めた税金の戻入は、いろんな規定や条件があって簡単ではないのである。

毎日、税務署の担当者の立会検査などがあって、それが営業の主力業務のような状態だったのである。

 

たった2週間ではあったが、その間8時40分神戸駅発の寝台急行銀河で、入社以来初めての東京出張も経験した。当時の東京出張の定番であった。

カワサキ自動車販売という会社が、東京神田岩本町に事務所を構えていた。そこに挨拶に行って、いわゆる営業の社内接待にもあずかったのである。

それが私の二輪事業のスタートであった。

 

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12月になった

2010-12-02 05:41:43 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★今年ももう12月である。

何故か12月は特別な月のような感じになる。

1年の締めくくりで、今年を振り返り、新しい年に備えるのだが、最近は大掃除などはあまりしなくなったような気がする。私の家では昔のように餅つきもしないし、おせちも家で造ったりはしない。

クリスマスも特に関係もないし、忘年会なども改めてはない。

あまり予定もないかと思っていたのだが、今年は幾つかカレンダーに予定がならんだ。

 

★大したことではないのだが予定は予定で、12月が何となく気ぜわしく師走の感じである。

12月4日(土) 大学の野球部の総会、母校グランドと会場で。毎年11月にあるのに今年は何故か12月になった。グランドで野球もやるしソフトボールもある。流石に野球はダメだが、ソフトボールはやるつもりである。

12月5日(日) 古代の窯の陶器の窯出し、三木アネックススパ―クの古代の窯で焼かれた陶器の窯出しである。今年は三木の養護学校の生徒たちと、三木の陶芸家のグループも、60おじさん山本隆くんも去年に続いての参加。

12月8日(水) 神戸の酒心館での昼間の『飲み会』 高橋、桑畑、柏木、田崎、北村、野田というカワサキ二輪を支えた往年のメンバーたち、今年最後の例会である。

12月12日(日) NPO法人 The Good Times の運営委員会、今回は三木市社会福祉協議会のボランタリー活動プラザと三木労音のe-音楽@みき からもメンバー参加の予定。これは来年度の展開に文字通り影響する。新しい展開が期待できる。

12月29日(水) 山陽病院で白内障の目の手術の事前検査。来年1月早々に手術の日程が決まっている。新しい世界が開かれる事を期待。

まだ日は確定していないが、12月18日以降年末までの間に車検。今回はthirai さんがやってくれるというので、お願いすることにした。こんなことがカレンダーに書かれてある。

 ★このほかに予定がまだ入るかも知れぬが、毎年12月にやることが二つある。

一つは、年賀状書き。  筆ですべて書くことにしている。

枚数は100枚に決めている。増やしたりしたら切りがなくなるのでもう何年も100枚に限っている。11月から書きだしていつも12月10日までには書きあげてしまう。何事も追っかけられるのは、耐えられないのである。もう残り40枚ほどだから楽勝である。

パソコンで印刷された年賀状が殆どなのだが、これだけネットの世界が進んでいるのだからメールや写真などいろいろ添付して送ったらどうかなと思ったりする。

もう一つは、バラである。

バラは12月がスタートの月で、俄然忙しくなる。12月にちゃんとやらないと5月にいい花が見れない。

昨日はその準備に、腐葉土と混合肥料を一杯買い込んできた。まだ秋バラの残りが咲いているが、冬に肥料や枝の整理、枯れたバラの補充など、新しい年への対策が始まる。

昨日は2時間ほど庭仕事をした。今年はツイッターに追われてバラの方も手抜きであったが、来年はちゃんとやりたい。

 

★昨年12月、ツイッターを始めた。最初は何か良く解らなかったが、5月ごろから俄然熱中した。

目標通りフォロワー10万人も超えて、今は時間的にも悠々とやっている。

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を過ごそう』という基本コンセプトに繋ぐシステムの核に今ツイッターやタンブラーがなっている。

今年の目玉は、私にとって『ツイッター』であったかも知れない。

まあ、大したことではないのだが、それでも『兵庫県一』というのはなかなか他のものでは難しい。

今年はそれを保って年を越せることは間違いない。

 ★もうひとつ、12月は結婚記念日があるのだが、あんまり特別の日でもなくなってしまった。

後2年で、50周年だからその時は、何かをを考えねばなるまい。

そんな今年の12月、最後の月が始まった。

いい年であったので、最後の月もいい月であって欲しいと願うものである。

 

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