雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

終戦記念日  雑感

2020-08-16 06:18:21 | 発想$感想

★『終戦記念日』ということになっているが、
 1945年、8月15日ちょうど正午から『玉音放送は始まった
 私自身は天皇陛下の詔を中学校の暑い校庭で直立不動の姿勢で聞いた。
 そのラジオの放送はよく聞こえなかったが、
 『日本は戦争に負けたのだな』と感じて、
 私は『終戦』というよりは『敗戦の日』という印象が強いのである。

 大東亜戦争とよばれていたが、
 それは1941年12月8日、あの真珠湾攻撃で幕を開けたのである。
 小学校3年生の時だったがよく覚えているし、
 シンガポール陥落も1942年2月と最初は連戦連勝だったのである。


   

 
   
   日本は勝つと信じていたし、そのように教育されていたのである。
 3年生のころまでは、冬・夏の休みに明石に帰省したりもしていたのだが、
 だんだん戦況がおかしくなって、
 関釜連絡船が潜水艦に撃沈されてからの内地は知らない。
 
 小学生の6年生の頃は、内地の空襲もひどくなったし、 
 子どもながらに『この戦争は負ける』と思うようになった。

 今のソウルは当時は京城と言っていたが、
 間違いなく朝鮮も日本の一部だったし、
 朝鮮人の人でもみんな日本語が話せたので
 私は一切韓国語は話せないのである。

 
  
★日本の降伏調印式は8月15日ではなくて、
1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、
トルーマン大統領は、全国民向けのラジオ放送で演説。
その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。
アメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになっている。

 



★当時の朝鮮には空襲はあったが、
 アメリカの飛行機が飛んでくるだけで、爆撃は一切なかったし、
 内地のように疎開もなかったので、
 所謂戦時中は『豊かな生活』だったのである。

 確か南北朝鮮の境界線38度線は、終戦になってすぐ敷かれたのである。
 ソ連がこの戦争に参加したのは8月9日で、
 南北朝鮮の分割は8月16日にソ連は同意し8月17日に施行された。

 私たちはソウルにいてよかったと思う。
 今の北朝鮮にいた日本人たちは大変だったようである。

 
★ 戦後、ご縁があってカワサキの二輪事業に従事することになるのだが、
 世界のいろんなところに行く機会もあったのだが、
 一番行ってみたかったのは、京城(今のソウル)である。

 それが1988年のソウルオリンピックの時に実現したのである。

 ソウルのオリンピック委員会から正式の招待があり、
 開会式の当日会場のすぐ前の漢江(ハンガン)で、
 JSのデモンストレーションを行ったりしたのだが、
 そのチームの団長を引き受けて、
 アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア、日本の
 世界のトップライダーたちとご一緒したのである。


  


 その時の1日、懐かしい小学校を訪ねて写真を撮ってきた。
 


  
小学校から300メートルぐらいのところ我が家はあった。
塀や門構えは昔と違って厳重になっていたが、
家はそのまま残っていた。

  

  JJSBAの苧野会長と一緒に記念撮影をしてきて大満足だったのである。


  

 それから30年が経っているのだが、今はここの辺りもすっかり変わって、
 Googleマップで見ても、全く違う繁華街になってしまっているのである。


★戦後、私はその年の12月8日に日本に引き揚げたのだが、
 当時の日本人の方たちは家などの処分をどうされたのだろう。
 我が家は運よく米軍の空軍大佐の方に売ったのだが、
 その金は現金にしても1人1000円しか持って帰れないので、
   通訳の方が金塊に変えたら伊丹空港まで運んであげるということで、
 金塊1貫500匁、100匁の延べ棒が15本あったのだが、
 話だけで伊丹空港に飛行機など来なかったのである。
 でも、なかなか金塊1貫500匁など見る機会はないので、
 見れただけでもいいかなと思っている。

 いずれにしても、当時の韓国人の方たちは上手くいろいろやられた方は
 よかったのかなと思っている。
 ソウルに日本人が残した資産は公共のモノも、個人資産も
 相当なものだったと思うのである。

 
 然しいつも思うのだが、一つの国であった朝鮮半島が、
 大国の思惑で、二分されてしまったことが、
 南北の人たちにとって不幸な出来事だったと思うのである。



 
  
 
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完全に1日ボケてしまっていた

2020-08-15 05:53:55 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★いま8月14日の夜8時過ぎである。
 『完全に1日ボケてしまっていた

 5時過ぎに目が覚めて、朝だと思ったのだが『昼寝だったのである
 『熱中症に気を付けよう』というブログをアップしていた。
 朝だと思ってFacebook にアップしたのだが、
 夕方だったので、削除してしまったのである。
 
 こんな記事だったのだが、何人かの方はご覧になったかも知れない。



 そのブログにも書いているのだが、
 昨夜8時ごろだったか、急に体が寒くなって毛布を出して寝てしまった。
 夜中に何度も目が覚めて寝たような気がしなかったし、
 朝熱を計ったら7度もあったのでトンプクを飲んだりして、
 それからも横になっていたのである。

 墓参りに行って30分間炎天下で草抜きなどやってたので、
 『熱中症』に罹ったのではと思ったりした。

 この写真では綺麗になってるが草ぼうぼうだったのである。



 
 
 
 昼過ぎからまた寝たのだが、5時過ぎまで寝てしまって
 完全に昼と夜とを間違えてしまったのである。

 こんなことは初めての経験だが、不思議なことがあるものだ。
 

★ 何となく今は元に戻っているが、
 よく寝てたので、今夜眠れるかが心配である。

 明日からは、朝のトレーニングも含めて完全に元の生活に戻りたい。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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熱中症に気を付けよう

2020-08-14 18:16:27 | 発想$感想

★8月ももう半ばにはなったが、この暑さは大変なものである。

 コロナも熱中症も高齢者は注意しなければならぬが、
 私の場合は、日常生活のスタイルや生活環境から言っても
 コロナよりはむしろ『熱中症』に注意しないといけないように思う。

 毎朝7時過ぎから公園に行って走っているが、
 昼間の暑さとは全然違うが、
 8月に入ってからは日陰を選んで走っているし、水分補給も確りやってるし
 何とか大丈夫だと思っていた。


★ 昨日は明石まで『お盆の墓参り』に行ったのだが、
 昼前にはなっていて、暑さは相当なものだったのである。
 
 そんな炎天下で30分ほど草抜きなどしていたのだが、
 『特になんともなかった』と思っていたのだが、
 夜になって、調子がおかしくなったのである。
 『熱中症』かどうかはよく解らないのだが、
 『兎に角、寒いのである
 
 7時ごろから、夏蒲団の上に毛布をかぶって寝ていたのだが、
 夜中に何回も目が覚めたし、熱もあるようで、
 朝体温を計ったらちょうど37度だったので、
 薬を飲んだら熱はすぐ下がったが、
 ホントに『おかしかった』のである。


★ 『熱中症』であったのかどうかはよく解らない。

 『熱中症の症状』を検索してみたら、こんなのが並んだ。
 特に思い当たるところもないが、
 敢えて言えば『汗のかき方がおかしい』ぐらいかなと思う。

  
 

 でも、『昨夜の寒さ』は何だったのだろう?

 流石に今朝は、『スロー・ジョッギング』も止めて
 午前中、大人しく寝ていたら、大体平常に戻ったような気がする。

 私はなんでも『ネアカで太平楽で』常に『大丈夫』が口癖なのだが、
 この半日『大丈夫』ではなかったのである。

 今朝はもう回復してるので、スロージョッギングにも出かけるのだが、
 こんなこともあるので暑さには気を付けたい。


 
 
 

 
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お盆の墓参り  雑感

2020-08-14 07:17:38 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日は明石まで『お盆の墓参り』に行ってきた。
 正月・春秋の彼岸・そしてお盆の年4回、墓参りには行っているのだが、
 私の代までは兎も角、息子の時代になったら、
 果たして『墓参りなど出来るのだろうか?』

 ネットで『お盆の墓参り』を検索していたら、こんな文面に出会った。

ある墓石会社が2015年に実施した調査によると、現代人の43%がお盆にお墓参りをしないようです。
その理由として最も大きいのが「面倒くさいから」。確かにお墓参りのために帰省したり、親戚周りをすしたりるのは非常に疲れますよね。』

 世の中の半分の方は、墓参りをしないとか。
 その理由が『面倒くさいから』となってるが、
 現実に『出来ない』ような状態の方の方が多いのではないだろうか?

 昔のように一族が同じ場所に住むという形態がなくなってしまっている。
 我が家の墓は明石市なのだが、私は明石で生まれ本籍も明石で、
 『明石は故郷』と思っているのだが、
 息子にとっては明石は特に関係はないし、
 ましてや鎌倉で育った孫にとっては、明石など全く関係がないのである。

 
★『長寿院』は明石のこんなところにある。
 『天文台』のすぐ隣に位置して、
 柿の丸人丸神社もすぐ近くで、なかなかいい場所なのである。

  



 明石藩主松平家の菩提寺という
 由緒ある立派なお寺ではある。

 


 
 歴代のお殿様のお墓は、上の写真の左の方にあって
 このよう立派なお墓なのである。

 



 私が子供の頃は、伯父が長寿院の檀家総代をしていて、
 当時は伯父に子供がいなくて『お前が継げ』と言われていて、
 小学生の頃から、よく長寿院には連れて行かれていたので、
 もう亡くなられた先代の和尚さんなどはよく存じ上げていて、
 今のお上人がご養子さんなので、
 『昔の長寿院のこと』など、私の方が詳しかったりすることもある。

 戦前は松平家のお殿様の子孫の方がお盆には墓参に来られていて
 伯父宅にお泊りになったりしていたのである。

 伯父はそんなことで至って熱心だったのだが、
 次男の父はそうでもなかったし、私が高校3年の頃に亡くなってしまって、
 父と一緒に墓参りした記憶もないような気もするのである。
 
 端的に言うと、私自身は墓についてもそんなに拘りはなくて、
 私はこの墓に入るのだろうが、
 私の代で最後になるであろうが、それは何とも思っていないし、
 あまり『ムツカシイ話』は苦手なのである。
 

 

 

★ お墓などいろんな事情で無くなってしまうものである。
 
 阪神大震災までは、『古谷家先祖代々』の墓は20近くもあり、
 曾祖父の松平家剣道指南番であったという『古谷満平』の墓などは、
 よく覚えているのだが、すべて地震で倒れてしまって、
 お寺さんが何百というお墓を全部整理されたのである。

 墓の場所を覚えるだけでも大変だったし、
 今は本家と父と母の墓二つだけだが、
 少なくなって何となくホッとしているようなところもある。


 確かに、格式の高い立派なお寺で、
 母の7回忌法要なども、ここでやらせて頂いたり、


 


 
 かっての伯父の関係で、お寺さんも気を遣われるのか、
 彼岸やお盆には、三木の自宅までわざわざお詣りに来られたりするのだが、
 こんなことも私の代で終わりになることは間違いないのである。
 

★ 明石といま住んでいる三木とは約20キロ離れてはいるのだが、
 車で行くと30分ちょっとで長寿院までは行けるのだが、
 電車やバスを乗り継いでいくとなると、これは片道が半日仕事だろう。
 むしろ『行くのは無理』と思ったほうがいい。

 もし家内独りになったら、車の免許など持っていないので、
 『墓参り』など『出来ない』ということになるのだろう。
 
 日本の昔ながらの風習も昭和・平成までで、令和の新しい時代になると、
 どんどん変わって行くのだろう。


 ただ私は、伯父には本当に世話になったので
 少なくとも車の運転ができる間は年4回の墓詣りは続けようと思っている。
 父はあまり、こんなことには拘らなかったので、
 私が墓参りに行かなくても『許してくれる』ような気がするのである。

 お盆の墓参りに行って『何となくホッとして』こんなブログを書いている。


 
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閑なものだから ネットでいろいろと

2020-08-13 07:03:54 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ カンカン照りである。
 とても外には出る気がしない。
 朝は2時間ほど外を走ったりしているのだが、その頃とは全く異なる暑さである。

 いまちょうど3時。
 このあたりの天気図を見ると、あちこちに雨雲。
 ホントかなと思う。 
 このあたりにも 『一雨くればいいのに・・・



 




★ 大谷翔平はやはり桁違いのスターかなと思う。

  『大谷速報』とお気に入りに入れているが、それをクリックすると
  こんな記事や写真が並ぶ。
   





 
 
 今まで4本打ったホームランも、1号から順番に並んで紹介されている。
 

      

   




★ 『初物七十五日』って、何のことか
  実は『解らなかった』のである。


 『とのさま日記なるもの』 
 

 という殿界寿子さんがアップしてるブログがあるのだが、


 『初物です。
 75日 長生きします。
 今日から75日でなくて、
 30年✙75日やったらええやけどな~
 

 こんな短いブログがアップされて、
 もう一つ『ピンとこなかった』のだが
 

 


 
 こんなに沢山の『いいね』や『応援』が集まっているのである。


 

 
 
 『初物七十五日』と検索したら
 こんな『まめ知識』が現われたのである。

 


 殿界寿子さん、ブログは私のお弟子さんなのだが、
 なかなかの才女なのである。
 
 でも、こんな『まめ知識』、こんなに沢山の方がご存じなので、
 知らなかったのは『私だけ』かも知れない。

 アメリカにいる孫たちは、多分『私の仲間』だろう。



★ ホントに暇なので、
  2006年9月9日にアップした、一番最初のブログなど調べてみた。

  恐るおそるスタートしてるのがよく解る。
  調べてみたら、毎日ではなくて、

  


 2回目は五日後、9月14日なのである。
 
  


 でも、よく続いたなと思う。
 もうすぐ、丸14年なのである。



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私の『体力強化の足跡』  雑感

2020-08-12 06:46:06 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★ 87歳の高齢者になって、連日『昔の想い出などを懐かしんで』はいるのだが、
そんな中で唯一『進歩しているのは体力や柔軟性かな?』と思ったりしている。

ホントか?』と思われるかも知れないが、本当なのである。

一番体力が衰えていた時期は60代の最後の頃、
足腰が痛くて、ずっと整形外科に通っていたのだが、
筋力は何歳になっても付くのだからストレッチでもしたら』と
そこの先生に言われて始めたのが70歳の頃なのである。


★旧い記録を探していたら、こんな『体力測定値』が出てきた。
2012年9月79歳の頃の記録だが『体力年齢=42.8歳』と出ているから、
実年齢に比べて『30歳以上も若い』のである。




 

★このころは、ストレッチを初めてほぼ10年ぐらいの頃だったが、
 『柔軟性=20歳』と出るので、これが『体力年齢』を押し下げているのだが、
 『瞬発力』などは『65歳』と実年齢に近いので、
 『これを改善しよう』と『50メートルダッシュ』を始めたのである。
 
 77歳の頃だから、ちょうど今年は『10年目』なのである。


 こんな近くの公園で始めたのだが、
 やりかけると、結構一生懸命やるものだから
 何年か経つとこんな『けもの道』のようなV字の走行路が出来たりしたのである。
 その頃の写真で、結構ちゃんと走れているが、

 このころ公園に遊びに来る小学生と競争して、
 小学2年生の男の子と同じくらいには走れたのである。
 これは5年程前の写真だが、なかなか上手く走れていて、
 決して『ドタバタ』でなないのである。
 
 


★ 最近はこの公園にも行ったことがなかったので
 昨日は協同学苑で1時間ほどスロー・ジョッギングした後、
 久しぶりに、公園で走ってきたのである。


    走ってみたらベンチからベンチまで『ちょうど35歩』で、
 少なくとも10年前、5年前よりはスムースに早く走れるから不思議である。

 





★ 今年は久しぶりに『体力年齢』をチェックしに行こうと思っていたのだが、 
 多分『コロナ』で催しは中止になるだろう。
 春からずっとスロー・ジョッギングと50メートルダッシュを続けていて、
 『いい記録を』と思っていたのに残念なのである。


    これが2年前、85歳の時の記録
 『体力年齢=53歳』とあって
 この時点でも、『実年齢より30歳以上若い』のだが、


   



 それから2年経った今は、当時と比べてみると

 『スロー・ジョッギング』は1時間は続けて走れるようになったし、
 『ダッシュ』も、『よりスムースにより速く』走れるようになっていると
 自分では思っているのだが、果たしてどうなのだろう?


★ ただ間違いなく、整形外科の先生が言われたように、
 『何歳になっても筋肉は進化する』と言うのは間違いない。

 毎朝、目が覚めると40分ほど寝床の上で『全身のストレッチ』をやる。
 これはもう20年近く続いているので、
 『柔軟性』は間違いなく今が常に一生で一番いい。

 午前中は、公園で1時間の『スロー・ジョッギング』と
 休み休みだが、『ダッシュ10本』を続けて約2時間、
 大体『歩数は8000歩』、『距離は6km』、
 『消費カロリー』はその時点で『1000cal以上』にはなっている。

 家にある安ものの秤だが、
 体脂肪は23~24、 年齢は72歳~75歳と出るのだが、
 体重は最近やっと80kgを切ったりすることもあるが、なかなか減らない。
 何歳になっても『口卑しくて、よく食う』からかも知れない。

 でも、結構元気だから、
 定年を迎えて『時間のある方』はチャレンジされることお勧めである。
 
 

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世の中の情報 いろいろ

2020-08-11 06:45:31 | 発想$感想

★ 毎日、毎日世の中には新しいニュースが流れるが、
  昨日はこんなニュースが流れて、少々びっくりした。


 まずはコレ、『京都の大文字』である。


  


 

 記事によると『イタズラ』だというから、二度ビックリである。

 独りでやったのかな?
 『イタズラ』にしては大掛かりである。
 世の中にはこんな発想をする人がいて、『実行したりする』とは・・・

 
 




 実際は『どんなものだったかな?』と 画像検索してみたら、
 やはり『赤々と燃える送り火』で 規模も数段大掛かりなものだった。

  
  
 



★ これは連日報道される『新型コロナのニュース』だが、

  『国内最大のクラスター発生』とあってビックリなのである。


  


 
 記事にあるような内容なのだが、
 
 私が驚いた というか 気になったのは
 確か2日前までは島根県は『日本で唯一実質感染者ゼロ』だったはずである。
 
 そう思ってチェックしてみたら、間違いなくそうだった。
 『私の記憶力』も 『未だ何とか確かだった』と
 おかしなことに『自己満足』しているのである。


 


 
 でも、たった1日で100人近くになるとは、ビックリである。




★これはアメリカのバイクの話だが、全米で最大の催しだとか。
 
 世界一のコロナ感染者のいるアメリカの話なのに、
 地元市長
 『訪問者にはマスク着用を求めない方針』だそうである。

 これは如何にも『アメリカらしい
 『日本ならただでは済まない発想』である。
 



 
 写真を拡大するとこんな感じになる。
 すべて ハーレーのようである。
 ホントに誰もマスクなどしていない。

  


  日本なら『地元市長』に対して、放っておいたりはしない。
  テレビ番組などを先頭に大騒ぎになるだろう。
  アメリカ人の発想は、間違いなく日本人とは違うのだが、
  私は何となく、『オモシロいな』と肯定的に受け入れるところがある。



★これも同じアメリカからの情報だが、
 ニュースではなくて、娘婿のTad KadonoのFacebook の記事である。

 住んでいるIrvine では、無料でマスクが配布されるとか?


 


 Irvine の感染者はどうかな? 
 と心配していたが、累計でも1250人と聞いて一安心である。

 Irvine 神戸市の西区と同じぐらいの広さで人口25万人
 アメリカで一番『治安のいい町』と言われている。

  
 これは確か『市役所』である。
 


   
  街全体が計画的に創られていて、
 道路の横は全て緑で、
 街の道路際には一切『商店がない不思議な都市』である。

  

 
かっては、砂漠だったのに、今は緑いっぱいなのである。
みんな移植されたのだと思うが、
どこから運んできたのか?』と思うような大木がいっぱいなのである。
 


 
 
 アメリカと言う国は、
 いろいろあって、
 ホントに不思議な国である。




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昭和42年(1967)という年の想い出

2020-08-10 06:18:46 | 自分史

★ ホントに長く生きてきたが、
  自分の人生にとって『転機となったかな』と思える年があるものだが、
  昭和42年(1967)はまさしくそんな年だったのだと思う。

  先日、明石から仙台への転勤で、餞別に貰った車を、
  明石から仙台まで独りで陸送したことをアップしたのだが、
  その年の日記帳をもう一度読み返してみたのである。


     


 
 この年には、仙台への異動が決まり、それこそ1月5日に明石を出発して、
 ひとり仙台に向かっているのである。

 当時の東北6県は未だ自前の代理店の時代で、
 東北カワサキ会の会合で当時の岩城本部長に『事務所を』という要望が出て、
 岩城さん『Yes』と即答をされたというのである。
 その時、岩城さんと一緒に出席していた八木健さんが担当すると思ってたら、
 『お鉢が』私に回ってきたのである。

 会社からの指示は、『仙台に行って事務所を創れ』というただそれだけで、
 具体的な指示など全くないのである。
 それは前年の11月のことなのだが、
 12月に仙台に出張して、住む家だけは決めてきたのである。
 東北・仙台ということで家賃は関西などに比べて安かったので、
 一戸建ての家を借りることにしたのである。
 結婚して以来ずっとアパート暮らしだったが、初めての一戸建ての家だった。


★ この年の日記を読み返してみると、ホントに頑張っている。
 日記に書いている事柄の8割は会社の仕事のことばかりである。
 会社の方も何の具体的な指示もないのだが、
 逆に100%私の思うようになったところもある。

 『もう少し慣れて、暖かくなってからにしたら』とも言って頂いたのだが、
 1月20日には家内と二人の子どもたちと仙台の住人となったのである。

 ホントに全く何もなくて、事務所は宮城カワサキに机をひとつ置かして貰って、
 たった1人でのスタートだったが、3月にやっと女子社員を採用して二人となった。
 東京を本拠にして出張ベースでやってくる部長と3人の社員とでこなしていた。

 代理店営業なのだが東北6県を車で飛び回って、めちゃめちゃ忙しかった。
 務まったのは、やはり若かったからだろう。
 2月の中旬以降は各県の代理店の『サブ会議』が開催されて、
 100名以上の販売店主を前に挨拶をさされたし、
 初めての『仙台事務所』ということで何もなかったのだが、
 注目度だけは高かったし、期待も大きかったのである。

 仙台=秋田ー岩手ー八戸ー津軽と続いた『サブ会議』には
 カワ販からは苧野専務・川重技術部からは大槻幸雄さんも来て頂いて
 ホントに盛大だったのである。
 

★ 私自身の性格というか、入社以来『はじめてのこと』ばかりをやってきたので、
 この『仙台事務所』の運営も忙しかったが楽しくやれたのである。

 営業は素人だったが当時日本で一番盛んだった東北のモトクロスに関しては、
 前職が広告宣伝とレース・マネージメントだったので、
 当時の山本・歳森・星野・梅津・岡部などのライダーが顔を見せてくれたので、
 そんなこともあって、代理店からの信頼も思いのほか簡単に得られたのである。

 この年のMFJの全日本MXは福島県の自衛隊演習場で行われたのだが、
 この場所の設定にもちょっと関わったし、90・125は山本・星野が優勝、
 250は新しいマシンのヤマハの鈴木忠男が優勝したりしている。

 
★ 3年間ライダーたちの面倒を見てきたので当時のカワサキのライダーたちも、
  岡部能夫など『東北では命を懸けて頑張る』と、実際に優勝もしている。
  日記を見ていると
  当時はまだ秋田にいた金子豊(星野レーシング)も仙台まで遊びに来ているし、

  6月には、金谷秀夫がから手紙を頂いたりしているのである。

   


  そんな私より若かったライダーたちなのだが、
       これはもうずっと後のことだが、東京に行った時に
  星野一義がご馳走してくれた時の写真である。

  
  
    
 『数多いライダーたちの中でも一番印象に思い出に残っているライダーたち』
 と書いているが、金谷秀夫も岡部能夫も金子豊も、もういないのである。


★この日記を読み返していて。
 ブログにアップしようかなと思ったのは、
 金谷秀夫の手紙が挟んであって、それを読み返してみたからなのである。

 このあと1年程で金谷はヤマハに移り、
 GPライダーとして『世界の金谷秀夫』となるのだが、
 ホントに彼は『いい奴』っだし、
 ライダー引退後はカワサキの『Z1会の常連』として、
 カワサキ時代に戻って、昔の仲間と付き合っていたのである。


★ この仙台時代に私が経験した数々の事柄は、初めてのことばかりだったし
  自前の代理店を相手の営業などこの時代を最後に消えてしまったのだが、
  旧いけど、なかなかいい人間関係などがベースの『昔の営業の経験』が
  その後の『私の人生』で一番役に立ったのかなと思ったりする。


  自分の書いていることなのだが
  『日記を読み返すのもなかなかいいな』と思ったのは
  『正直な感想』なのである。
  

 

 

 
 
 
 
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お盆休みの私の生活    雑感

2020-08-09 06:58:21 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 今年もお盆休みが始まった。
  年中が休み続きの私にとってみると、特に特別なモノではない。

  例年だと東京の孫が遊びに来たりするのだが、
  今年は流石に『何も言ってこない

  今朝の新幹線の状況もいつもと違ってこんなに静かであったらしい。

 






 日本人の一般的な帰省に対する行動はこのような感じで、
 『帰省しない』が大勢を占めているようである。


  




 『コロナ騒動』については、マスコミは連日、こんな報道姿勢なのである。

 毎日、毎日、大きく取り上げているが、
 ちょっと『やり過ぎ』の感もある。
 




 確かに昨今の『現在感染者数』は13448人と過去最高の水準に達していて、
 『第2期』かなと言われていて、そういう意味では『第2期到来』なのかも知れない。

 



★ 私自身の、毎日の生活の中で
   『ネットでの情報収集』は結構大きなウエイトを占めていて、
  『コロナ情報』についても
  『新型コロナは日本人にとって本当に「怖いウイルス」なのか
  というのもあって、
  読んでみるとなかなかの『説得力』なのである。





  曰く「98%は無症状や軽症状で終わる
  『毒性弱く、多くが自然免疫で克服できる』と言っている。




 
  
  確かに、アメリカなどと違って、
  日本の場合は 『死者数は1042人』 とやっと1000人を超えたレベルで、
  交通事故や転んだりしてなくなる方やインフルエンザと比べても、
  ホントに少ない数なので、
  注意はしなくてはイケナイとは思うが、騒ぎ過ぎももう一つである。

  
 
 

 これが仮に病気だとしたら、
 『がん』などの疾患で亡くなる方の数とは、比較にならない水準なのである。 




★ ただ同じ『コロナウイルス』でも、世界で一番多いアメリカの各州別でも
  こんな『日本とは桁違い』の数値だから、
  

  
 『大丈夫』だとは言い切れない面はあるのだが、
 『冷静に自分の意思で判断した行動』をされたらいいのではと思ったりする。
 
 日本の場合には、アメリカなどと違って、
 『自分の意見・意志』よりも『世間の目』を気にすところもあって、
 日本が『コロナ対策』で世界がびっくりするような実績になっているのは、
 何となくこんな『国民性』が寄与しているのかも知れない。


★そんな風に想いながら、ブログをアップしている午後である。
 私の場合は、朝は公園で運動、
 午後はパソコンの前に座って、
 検索したり、ブログを書いたり、パンダ碁を打ってるか、
 庭仕事で木を切ったり、草を引いたりしている、
 『コロナとは無縁の生活』が、このお盆休みも続くのだろうと思っている。

 



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ネットの情報など いろいろ  雑感

2020-08-08 06:13:17 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 考えてみると『不思議な時代』に生きているものである。

 70歳ごろまでは、パソコンもいじらなかったので、
 『ネットの世界』とは無縁であった。
 パソコンをやりかけてから、定年後の人生は『豊かになった』と言っていい。

 もしパソコンと出会わなかったら、今頃どんな『生き方』をしてるのだろう?
 最近は、有り余るほど時間があるものだから、
 パソコンの前に座っている時間も長いし、いろんな情報が入ってくる。

 ネットの世界は、すぐ隣の家も、遠いアメリカも同じなのである。


★ 昨日、ツイッターを見ていたら、娘婿がリツイートしてるこんな情報に出会った。
  『Kenji Sakai』さん、面識もあるし、いまアメリカのASICSにお勤めである。
  毎朝、走ってる運動靴は、アメリカのASICSで購入したものなのである。

 


 今は世界的なブランドである『ナイキ』は、
 アシックスの前身『オニツカ』の米国代理店がスタートだというのである。

 ホントかな? と思って 『ナイキ』を検索してみたら、
 Wikipedia に このような『ナイキの歴史』が載っていた。

 
オレゴン大学の陸上部で活躍し、スタンフォード大学経営大学院在学中にビジネスプランの論文「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」を書いた創業者のフィル・ナイトが卒業後に出向いた神戸でオニツカタイガー(現アシックス)の品質と低価格を気に入り、1962年にオニツカのアメリカ販売権を取得したことから始まる。 
1964年、オレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンと共同でナイキの前身であるブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立し、日本からオニツカタイガーのランニングシューズを輸入しアメリカ国内で販売し始めた。 


★アシックスは、川崎重工と同じ神戸の会社である。
 1990年代にカワサキがジェットスキーの分野に進出した時に、
 『ジェットスキー専門の靴』を創ろうという話が出て、
 私自身、アシックスさんと繋がってたのだが、
 そのジェットスキー専用の靴底は、
 『綱引き競技』専用シューズのモノを使って、
 水が入っても外に出るように靴底にいっぱいアナが空いていたそんな靴だった。
 
 そんな関係もあったので、たまたま娘が大学を卒業する時期だったので、
 『アシックス』に就職したのである。

 そんなこともあったので、『ASICS』の社名の由来も何となく知っていたのだが、
 改めて検索してみると、
 

「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神あれかし、と祈るべきだ」
というラテン語
"Anima Sana In corpore Sano" の頭文字をとって社名を「ASICS」とした。

 と出ていて、なかなかカッコいいのである。



★ 一昨年だったか、 アメリカで、Kenji Sakai さんと会食したことを想い出した。
 
 このあたりがネットの良さで、昔のことでも調べたら、
 『昔のブログ』が出てきて、それは2018年10月31日だと解るのである。

 そこにはこんなことを書いている。
 書いている自分は忘れてしまっているのだが、大要こんなことを・・・


昨夜は 江口(Tasushi Eguchi)さん、 坂井(Kenji Sakai)さんのお二人と娘婿門野との4人で,韓国料理での会食だった。昨年に続いての会食だったが、韓国料理も旨かったが、2時間半にも及んだ男の雑談もなかなか良かったのである。
 
  お二人は孫たち3人のサッカーの先生だったこともあるのだが、今は毎週のランニングで娘婿はお付き合いのようである。
めちゃお元気で、今度のロスアンゼルスマラソンにも出場するのだとか、坂井さんの昨年の50歳の誕生日に江口さんと、50マイルの走行にチャレンジしたという、そんな話からスタートだった。・・・・・・
50マイルとは80キロだが、こんな周回コースを10時間も走り続けたようである。
・・・・・・・

いろんな話題の中で、びっくりするような話があった。
坂井さんが突然、「金谷秀夫」のことを話し出されたのである。
1985年ごろの話だが兵庫県の三田の近くにサーキットを作る話があって、その時金谷秀夫に会ったと仰るのである。
坂井さんはまだ15歳ぐらいのころだったが、その時の金谷の印象がとてもよかったと、ひとしきり金谷の話になったのである。
・・・・・・
それにしても、人はいろんな形で繋がるものである。
江口さん、坂井さんのお二人も、普通ではお会いできないお二人なのである。
・・・・・・・

 その時の写真である。





いま、読んでいる「何歳になっても脳は進化する」林成之 という本には「自分より若い人と話をすることで、脳は進化する」と書かれていたので、
昨夜の「2時間半の雑談」で私の脳もまた少し進化したかも知れないのである。


 




★ いずれにしても「いいひと時、good timeであったことは間違いないのである。
 それから3年も経っているのだが、
 Kenji Sakai さん、今でもFacebook に『いいね』を下さったりするのだが、

 次回アメリカに行ったら、一度ゴルフをとお約束したのだが、
 コロナなどもあって、なかなかアメリカには行けそうにないのである。

 でも、ネットは簡単に繋がるのがいい。
 
 
 
 
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8月の朝のスロージョッギング  雑感

2020-08-07 07:00:01 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ コロナの前までは2年以上も毎朝『ジムのトレーニング』を続けていたのだが、
 3月から『ジムのトレーニング』がダメになって、
 近くの『三木総合防災公園でのトレーニング』に切り替えたのである。

 約1時間の『スロージョッギング』と
 その後、休み休みだが、『50メートルダッシュ』を10本ほど
 2時間近くの毎朝の運動が続いている。

 今年は梅雨が長くて7月中は曇り空ばかりだったから暑さもそうは感じなかった。
 8月に入って途端に猛暑である。
 炎天下ではこれは大変なので、昨日から『協同学苑』に場所を移している。
 家から車で5分は掛からないが、防災公園ほど広くはないので、
 約1時間の『スロージョッギング』をやるには2周近く走らないとダメなのだが、
 『殆ど日陰を走る』ことが出来るのである。


★ そんな写真を撮ってきた。

  こんな駐車場だが、7時半にはまだ車はいない。
 

 

そこからの一周した写真だが、こんなところからスタートである。
道路の半分は日陰である。



突き当たって左に行くと、こんな感じのところに出て、
ここをひと廻りして、
 




戻ると建物の裏手に出て、ここは全くの日陰なのである。





 そして、こんなところに出る。
 ここはもう10年も前になるが、孫の門野真也とカブトムシを採りに来たところ、
 カブトムシが幾らでも採れたのである。




  その頃の写真の一部である。

    


 
こんな竹林を抜けると




 運動場の横の広場に出る。
 このあたり、幾らか日が差しているが、





 抜けるとまた日陰になり、





 この坂道はずっと下りで400メートルほど先に池があるのだが、
 日陰だが戻りの坂道がきついので、ここから引き返した。





 こんな日陰の道になり




 そこから先は約1キロほど桜並木が続くのである。




 右手に協働学苑の建物を観ながら、

 



 さらに桜並木の終わりまで行って引き返し、




 左に曲がれば、元の駐車場に戻る、この1周がちょうど30分である。
 この1周は80%ほど『日陰だった』が、
 2周目は完全に日陰のところばかりを選んでちょうど1時間走ってきた。

 


 
 ちょっと休んでからグランドの野球場の1塁側・3塁側のベンチが日陰なので、
 そこで休みながら、ダッシュを10本やってきた。



 このベンチ間、ちょっと短いがダッシュして30歩だから
 多分『50メートル』はあるだろう。
 ベンチが日陰なのがいい。
 深呼吸30回で息を戻してまた『スタートする
 結構ちゃんとスムースに走れている。






★ 何でも『あまりムツカシクないこと』を継続するのは得意だが、
  この朝のトレーニングはいつまで続くのだろうか?
  できればあと3年、『90歳まで出来たらいいな』と思っている。

  『今年の夏はどうかな?』と心配していたが
  想像以上に『協同学苑』は走り易かったのである。
  8月と9月の半ばごろまで、お世話になるのかも知れない。
  


  


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継続は力かな? 1ヶ月続いた!

2020-08-06 06:43:37 | 発想$感想

★ 『継続は力かな? 1ヶ月続いた!』

 私の話ではない。
 海の向こうのアメリカの娘婿・Tad Kadono の話である。


 そのTad Kadono の次男、 門野真也は、別に絵描きでも漫画家でもなくて、
 アメリカのサッカーのプロ選手なのだが、
 何を思ったのか2月の初めから、末弟・門野哲也を題材に
 『毎日てっちゃん』をずっと続けて描いている。


 



 絵がどうこうではなくて、毎日このように特徴を捉えて描き続けるのは、
 これは才能だと言っていい。

 娘婿の真也のお父さん、これに触発されて
 Facebook の記事を最低100日は『毎日アップする』と宣言して、
 7月4日からスタートした。

 これがその『決意の宣言文』である。




 ホントに大丈夫かな? と思って見ていたが
 8月5日になった。 めでたく1ヶ月は続いた。
 まずはお目出とうである。


★ アメリカでのいろんな出来事を綴っているが、
  いろいろと解ってなかなかいい。

  これは犬の散歩時に『コヨーテ』に出会ったとその写真である。
  動画も撮れている。
  
  いま住んでいる Irvine はかっての草原を都市にした
  結構な街なのだが、『コヨーテ』もいるらしい。

  





 アメリカはいま、『コロナウイルス』で大変である。

 末弟のサッカーの練習再開が延期になったらしい。
 






 これは極く最近の投稿だが、
 三木の登山道夫さんが、ご執心の『もっこすラーメン』のことを書いている。








 これは3日前、次男のサッカーリーグも再開されるようである。
 サッカーリーグが再開されてテレビ放送でも始まると。
 日本でも観れるのでこれは楽しみだし、
 何よりも『コロナ対策』で外に出られないから、時間つぶしにもなる。






★Facebookに貼り付けてあった動画を幾つかご紹介しよう。

 いずれも、サッカーの👍レーニング風景である。

 これはダッシュのトレーニング、お父さんも結構続いている。


  
 こちらは孫、二人でのロングキック、それにしてもよく蹴るものである。



 こんなところで、1ヶ月は頑張れたので、
 8月も是非、続けて欲しい。
 結構、楽しんでみているのである。

    
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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国道1号線の想い出 など 昔の話

2020-08-05 06:49:22 | カワサキ単車の昔話

★現役時代約40年だったのだが、ちょうど半分の20年間を
 3度、国内市場の担当で出向したこともあって、日本の主な道路は
 殆ど何度も自分で車を運転して走った経験がある。

 免許を取ったのは1965年(昭和40年)で33歳の時なのだが、
 当時は車の免許を持っている人は少なくて、ましてや自家用車を持ってる人など、
 本当に珍しい時代だったのである。

 ちょうどその頃は、ファクトリーチームを担当していて、
 全国のモトクロス場や鈴鹿サーキット、富士スピードウエイなど
 全国各地にクルマを運転して出かけていたのである。

 そんな中でも1966年には青森の津軽の岩木山であった
 MCFAJの全日本モトクロスには、
 明石から津軽まで往復3000キロを車で移動したりしたのである。
 朝7時に明石をでて御殿場泊、翌日は仙台に泊っての走行だった。

 今のような高速道路のない時代だから、国道1号線だと言っても大変なのである。


★国道1号線は富士丸の山や、伊豆のモトクロス、
 富士スピードウエイのロードレースなど、
 ホントに走りなれた道だったのである。


  


   

   
 


★ こんな国道1号線と国道4号線を走っての津軽行きだったのだが、
  1967年(昭和42年)度からは、私自身が東北6県の代理店営業担当として、
  仙台に新しい仙台事務所を作ることを命じられるのである。

  昨今の異動と違って、何もないところに新しい事務所を創れという指示で、
  それ以外は具体的に何もなくて、
  私は異動の餞別みたいな感じで、『コロナのトラック』を頂いての異動だった。

  こんなに綺麗ではなかったと思うが、こんな車だった。

   

  ホントに何もないのである。
  従業員の仲間もいないし、事務所もなくて、
  宮城県代理店『宮城カワサキ』の事務所に机をひとつ置かせて貰っての
  スタートだったのだが、

  この『コロナのトラック』に適当な荷物を積んで、
  明石から1号線を走り、東京で一泊して仙台まで
  約1000キロを独りで運転して走ったのである。

  その時の明石から東京までのスケジュールと実際が
  日記に記録されている。
  東京まで635キロ、
  一宮までの名神以外は一般道路なので、14時間も掛っている。


   
   





★ 東北6県は岩手県を筆頭に日本の有数な大県ばかりなのである。

  この13号線も仙台を起点によく走ったが、
  隣の仙台ー盛岡も、盛岡―青森も200kmなのである。

  この地図にある時間も、今は多分高速道路を使ってのモノだと思うが、
  当時は高速道路などないうえに、奥羽山脈を越える山越えの道は
  未舗装の砂利道だった。
 

 


 
★ そんな昔のことをいろいろ懐かしく思い出しているのだが、
 この東北6県を担当してた当時は、長距離走行には慣れてしまって
 少々、長い距離でもなんともなかったものだから。
 明石への出張などもちょうど1000キロを朝早く出たら、夕方には明石に着く
 というような強行軍も何度もやったし、
 仙台から大阪に異動した年には、仙台で全日本モトクロスがあったのだが、
 大阪から所員と一緒に仙台までレースを観に行ったりしたのである。

 そんな車での走行話は、いろいろあるので、
 また、幾つか改めてご紹介してみたい。


 



  
   

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挿し木で増やす コンシンネ

2020-08-04 06:03:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 観葉植物 『コンシンネ』 と検索すると

 こんな写真が現われる。
 
  

 
 そんなに高かったのかと思うほど、結構高価である。


 
 家にも以前から一鉢あって、これが買ってきた元の鉢である。


   

 
 
 もっと大きかったのだが、背が高くなり過ぎたので、
 上の方を切ってしまったのだが、
 それを挿し木にしたらちゃんと生育しているのである。

 今は、元の鉢の他に3鉢もある。

 元の鉢から最初に切ったのが『白い鉢』で
 その上に青い鉢の部分があったのだが、それを今年の5月に切ったのである。

 そうすると2ヶ月経って、新しい小さな芽が3本出てきている。
 これが1年経つと結構立派になる。

 全体の形を考えながら、さらにそれを切っていけば5年も経つと
 新しい形になるはずである。

 
 

 

 5月頃からなら、簡単に挿し木が出来る。
 青い鉢の1本を切っているが、それが茶色い鉢である。

 ごく最近なので、芽が出ていないが、
 多分そこから3本の新しい芽が出るはずである。


★『コンシンネ』で画像検索すると
 こんな立派なものも現れる。
 根元の幹の太さから見ると相当の年数である。

 好きなように形を整えてどんどん切ってるのがお解り頂けるだろう。
 


  



 我が家のコンシンネもこんなに太くなればいいのだが、
 ちょっと『私の寿命』の方が無理だろう。


 ほかにも、このようにバラなどいろいろ『挿し木』で増やしているのだが、
 皿に水を入れておくだけで、ズボラな増やし方だが、
 大体、コレで大丈夫なのである。
 根が出てきたら、地植えをすればいい。

  
 
 

 お金を増やすのは、全く興味がないのだが、
 こんな植物やメダカなど『増やす』のは興味ありである。

 今はそのままに放っているのだが、
 ツイッターのフォロワーなども一生懸命増やし続けたら
 53万人にもなっているのである。

    
         

 
 
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照の富士優勝 おめでとう!

2020-08-03 06:53:12 | 発想$感想


★ 大相撲7月場所は 照の富士の優勝 で終わった。

  非常に感動的な場所だったと言える。


 


 私自身は『大相撲』は極く最近になって、関心を持つようになったので、
 『照の富士』 を知ったのは、ホントに2,3日前からなのである。

 今場所は序盤『白鵬』が強かったし、今場所も『白鵬の優勝』と思っていたが、
 解らぬものである。

 それにしても、かっての大関だったのに怪我で『序二段』まで落ちたのを
 今場所再入幕での『優勝』は素晴らしい。

 


 
朝の山』との対戦で勝利し、
千秋楽 『御嶽海』を破っての優勝は、素晴らしい。

 


 堂々の優勝だと思う。

  



 『諦めずに努力し、頑張る
 言うのは容易いが、実際にそれを実行するのは大変なことだと思う。


 本当に 『照の富士 優勝おめでとう
 『相撲は素人』 の私だが、 心に残る 『照の富士の優勝』だった。


 

 
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