雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

入社当時の日記から  家内のこと

2020-11-15 05:56:02 | 自分史

★ 私は昭和32年(1957)に川崎航空機工業に入社しているのだが、
 当時の日記を読み返してみると、

 確かに仕事も結構一生懸命やってるのだが、
 家内のことの記載も多く『まさに私の青春だったのかな』と思ったりする。


   4月1日に入社して2週間ほどの研修期間があって、
 財産課に配属になったのが4月15日なのだが、
 その4日後の4月19日の日記に『家内が登場』しているのである。

 『隣の勤労にいる女の子にちょっと惹かれる』 という記述がある。
 この『勤労にいた女の子』が家内なのである。
 

 そして、2か月後の6月5日には、こんな風に書いている。
 

     
   
  
 『電話の取次ぎ』をしてくれただけのことなのだが、
 こんな普通のような出来事を日記に記すということが
 『気があった』と言わざるを得ないのかも知れない。

 この年の11月に初めて話をする機会があって、その時の日記には
 『やはり神戸高校出身だという』と書いている。
 
 私は神戸高校の前身の旧制神戸一中の出身だから、
 彼女は後輩にあたるということなのである。


★この年はこれだけのことだったのだが、
 翌年の5月28日に三宮駅で出会って、映画に誘っている。


         

 
これが初めてのデートで、これを契機に所謂『お付き合い』が始まったのだが、
私は何事もハマると熱中してしまうところがあって、
それからは毎週のようにデートしているのである。

 昭和33年(1957)にスタートして、
 結婚したのは昭和37年12月21日だから5年も付き合っていたのだが、
 その間、私が肺結核で1年間療養所に入院したりした期間もあったので、
 そんなことになったのだと思う。


★ この5年間の日記には、ホントに家内の記述が多くて、
 勿論覚えていることもあるのだが、忘れてしまっていることも多くて、
 読み返してみると、お互い結構熱烈で
 私の療養期間には、『手紙のやり取り』も多いのだが
 それは、手元には残っていない。

 当時は私はカメラは持っていなくて、
 あちこち行ってはいるのだが、そんな写真は1枚もなくて、
 あるのは日記だけである。

     療養期間中は日記帳もこんな小型のものに変えているのだが、


     
    

  

  そんな日記帳の中に、療養所に送ってくれた手紙の中にあった
 こんな写真が挟まれていた。
  1961年2月16日と写真の裏に書かれている。

  これがこの当時の『唯一の写真』だと言っていい。


     

  
  最近のように、写真を撮りまくっている生活から見ると
 ほんとに不思議にさえ思うのである。

 そういう意味では、『よく日記を書いていた』と言えて
 若し、日記がなかったら、当時のことはなんにも残っていないのである。

    その後も、家内と一緒の写真は少なくて
 アメリカの娘のところに遊びに行った時の写真ぐらいしかないのだが、


 

 
 
 
 
 
★ そんな家内とのお付き合いも、もう60年を越えている。
 間違いなく『私の人生の伴侶』と言っていい。

 『伴侶』という意味を引いてみると、以下のように書かれている。

 一緒に連れ立って行く者。つれ。なかま。また、配偶者。
「人生の伴侶を得る」「よき伴侶に恵まれる」
 配偶者を伴侶ということについて。
 かつて男性優位の時代には「伴侶」は夫に従う妻を指したが、
 男女平等の現在では夫・妻どちらについても使う。

 
  いつのまにか『エメラルド婚式』も2017年だったようだが過ぎてしまって
 60周年の『ダイヤモンド婚』が2022年なのである。



    
  
 何とかそのあたりまでは、お互い元気でいたいなと思っているのである。
 
 
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三木山森林公園の秋の風情

2020-11-14 07:21:16 | 発想$感想

★ 三木市総合体育館のジムのあと、三木山森林公園をスロー・ジョッギングしてきた。
 
   11月も半ばになると『秋の風情』たけなわである。
 春の新緑もいいが『秋の紅葉』もまたいい。

 
  芝生の広場の紅葉もいいが
 



 
こんな自然林から感じる秋もいい。




 もみじ谷の入口のもみじは、既に紅葉しているが
  



 『もみじ谷』はいつものことだが、
 11月末にならないと、『赤く染まらない』のである。
 なぜかな?と思うのだが、毎年そうなのである




 下の広場はこれは秋らしくなってきた。




 芝生に落ちている『落ち葉』が秋を象徴している。



  名前は解らぬが、
  道の横には、こんなに真っ赤に燃え紅葉を観ることが出来た。
 


 自然は、ホントに綺麗だと思う。


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Fit bit のある生活

2020-11-13 06:40:55 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★孫がくれた Fit bit を腕に巻いた生活もほぼ1年近くになっている。

 
 


 これは、本当になかなかいい。

 1日の生活の目標が出来て、健康維持に貢献してくれている。

 今の目標というか、87歳の今年の目標がこの数値なのだが、


 
 

 ほぼ『達成できてる』健康的な日々を送れている。

 この中で、ちょっと自分でもよく解らないのが『アクテイブ・タイム』で
 『運動をした時間』なのだが、その基準がもう一つよく解らない。

 『歩く』だけではタイムに加算されないし、ジムのバイシクルも幾らやっても『0時間』なのである。

今朝は防災公園で『スロー・ジョッギング』を1時間以上やったので悠々クリアなのだが、『0分』という日があるのは、ジムに行ってバイシクルを30分はやって汗を流しているのだが、記録には現れないのである。

  
昨日は1日『ゴルフ』だった。
だから、走ったりはしていないが、これが昨日の記録で
アクテイブ・タイム=98分』と出ている。

 ゴルフの一体どんな時間をこのように記録したのだろう??
 16000歩を歩いて、その距離11km、消費カロリーは2500
 ゴルフも結構な運動なのである。

  


 
  


 これは一緒に回った   積山さんが撮って送って下さったのだが、

 このショットは ダブって『池ポチャ

  
   

 あとの二つは『ナイスショット』だったと思う。
 自分の打つ写真など、殆どないので貴重だが、
 
 





 『やはり87歳は、87歳』 だなと思うが、
 まだゴルフがやれるだけでもいいのかも知れない。


★ こんな写真は自分では取れないが、
 毎日の記録はこのように残っている。

 アクテイブな時間も結構長い。
 0時間もあるが、これは前述したようにジムに行って自転車を漕いでいた日だと思う。それは記録されないようである。




 

睡眠時間もほぼ『7時間』達成出来ていて健康的だと言えるのだろう。

  



こんな 『Fit bit のある生活』 を送っている。

孫も『いいもの』をプレゼントしてくれた。
多分これからも、同じような健康的な生活が送れるものと思っている。



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『Z1会』 について思うこと   

2020-11-12 07:15:15 | カワサキワールド

★ 昨日11月11日は、私にとっては『今年3回目の』多分『今年最後の
 ゴルフになるであろう『Z1会』のゴルフだった。

 



 最近はゴルフの回数は減っているのだが
 それにしても今年はコロナ問題が加わって、さらに回数が減ってしまった感がある。

 そんな年3回しかやらなかった今年のゴルフだったのだが、
 その3回とも大槻幸雄さんとご一緒というか、大槻さんが会長をされている
ゴルフコンペばかりに3回参加しているのである。
 そういう意味では今年のゴルフは大槻さんと密接に関係があったのだが、
過去を振り返ってみると、不思議な気もするのである。


今は大槻さんは90歳、私もあと4ヶ月で米寿を迎えたりするのだが、
大槻さんとは60年も前、川崎航空機時代の単車の創生期のレース関係で繋がったのである。
その当時の大槻さんは『レース一筋』でゴルフなどして遊んでいるのはケシカランと言われていたので、
私がゴルフを始めるたのが42歳と遅かったのも『大槻さん』が関係しているのかも知れないのである。
 
それがいつの頃からか、ご自身がゴルフをおやりになるようになってからは滅茶熱心で、
この『Z1会のコンペ』も当初は大槻さんがおられた技術部のコンペだったのだが、
いつの間にか私など営業部門も入れて頂いて、
昨日が第74回目のコンペだから、ホントに延々と続いているのである。


最近はZ1会のメンバーもどんどん枠が広がって、
レース関係者などは勿論、女性も、Zのユーザーたちも加わって本当に楽しいコンペになっている。

ただ、大槻さんも90歳になられて流石にワンラウンドが大変なようで、
後半になるとスコアが乱れたりするので、ご本人もちょっと自信喪失気味なのだが、
このコンペから大槻さんが抜けることはなかなか考えにくいので、
来年あたりから、何か新しい大槻ルールでも考えたらと思ったりもしている。

今回のコンペでは、昨年大槻さんが受賞された日本自動車殿堂入りの記念品が参加者全員に配られたりもしたのである。
この受賞も世界の名車Z1の開発の功績によるものなのである。

   

 

それは時価7000円もするこんなチタンガラスの立派なグラスなのである。

 





  


★こんな立派な記念品がZ1会会員に配られる、大槻さんとはそんなに密接な関係で繋がっているし、ホントに明るく楽しいい会なのである。

 既にFacebookには参加者の記事がいっぱいである。

 
   






 ただ、90歳の大槻さんがいつまで実際にプレーできるのかは、自ずと限界もあるのだろうし、
昨日の会合の締めのご挨拶でも
このZ1会がいつまでも続くように』と大槻さんはご挨拶されたのだが、
具体的にどのような形で』ということを考えることが必要かなと思ったりする。
 


★ カワサキZ1は1972年の発売なので、
もうすぐ発売50周年を迎えることになる。

  

 
 その車そのものは、まだまだパリパリの現役で、世の中を走り回っているのである。

Z1会』もまた、車に負けないようにどんどん盛んになっていくことを願うのみなのである。

果たして、来年はどんな『Z1会』になっていくのだろう?
 

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『入社当時の私のこと』 など   雑感

2020-11-11 06:20:47 | 自分史

★ 先日来、昔の日記を読み返している。

 忘れてしまていることも多いのだが、川崎航空機に入社した当時のことは
 私にとっても『懐かしいことが多い』のである。

 川崎航空機工業には、昭和32年(1957)4月1日に入社なのだが、
 その4月1日の日記にはこんなことを書いている。

 『・・・四本常務は、「この会社は学閥もない実力のある者は必ず幹部になれる」と仰る。それが事実ならば大いによろしい。「実力があれば」と言われれば聊か自信はある。・・・』


 結構な背伸びだが、そんな風に思っていたのだろう。
 
そして4月15日に業務部財産課への配属が決まって
配属は業務部財産課と決まる。先輩たちの話によると面白くないところらしい。・・・』などと日記には書いている。
 
ところが、財産課での3年間は今思っても結構オモシロかったし、
オモシロかっただけではなくて『大きな実績』も残せたのである。



★当時の川崎航空機は『軍事産業だった』ということで戦後の中断の時期があって、
やっと昭和27年から再開された会社で、財産課の資料なども未だ確りとは整ってはいないそんな状態の会社であった。

 財産課は所謂会社の財産管理をやるところで、財産物件の減価償却計算作業を、当時の手動のタイガー計算機を回しながらやったりするのだが、
私は車輌運搬具工具器具備品の担当となったのである。

財産物件とは「取得価格1万円以上」のものを言うのだが、
当時の川航は新事業のジェットエンジン部門などは、「取得価格300円以」のものを財産物件に計上していたので、机や椅子は兎も角、極端に言えば『バケツやすだれ』などまで財産物件になっていて、圧倒的に件数の多い『工具器具備品』の償却計算は時間が掛かって大変だったのである。

 そんな作業を2年間はやってたのだが、なんとか『償却計算の機械化』などが出来ないかと3年目には思い出して、
当時米国空軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていたJET部門には既にIBMがあったので、
そんなIBMを使っての『償却計算の機械化』に、昭和34年(1959)10月12日にスタートしているのである。
そんな日付まで日記があるから解るのである。
 
ジェットエンジン部門以外では、どこもIBMなど使っていなかった時代で、
やるならちゃんとやろう』と
当時の本社も岐阜製作所も動かして『全社統一の償却計算システム』をちょうど1年間掛かって、やり遂げているのである。

勿論、民需では全社でも初めてのことだったし、新人社員の仕事としてはべらぼうに『大きな仕事』で、入社3年目の新人本社も岐阜製作所も動かしてこのプロジェクトが進めることが出来たのは、一般社員はIBMのことなど全くご存じないので、ちょっと勉強した新人社員の方が『リードできる』知識を持っていたのである。

日本にIBMが入ってきたのは東京オリンピック以降などと言われていて、その10年も前の時代、今から言えば60年も前のことなのである。



★これが当時のIBMの「マスターカード」なのである。
まだ「パンチカードシステ」の時代で、所属コード・物件名などの項目を限られた桁数内に入れなければならないので、『物件名のコード化』だけでも大変だし、それを本社も、岐阜製作所も含めて統一するのは、これはホントに大仕事なのだが、それが出来たのは、今思うと我ながら頑張ったと思うのである。

 こんな当時のマスターカードが日記に挟まれていた。


 




これは出来上がったマスターカードだが、この様式も、物件名もすべての項目を創り上げての『システム構築』だから、完成するまで1年掛かったし、IBM室の久森係員と二人で創り上げたもので、財産課では私一人で担当していたのである。



★この新入社員の3年間に、私はこれ以外にも車輌運搬具の自転車の管理方式や、それまでは木製で壊れることの多かった回転椅子を
当時は珍しかった『スチール製のネコスの椅子』に変えたりしている。



   


この『ネコスの椅子』は当時の人たちはみんな早く欲しがったのだが、
その分配権を入社2年目の私が持っていたので、あちこちから『早く欲しい』と頼まれたりして、新人ながら結構名前も売れたりしたのである。

 当時『日本ジェット』に出向されていた大槻幸雄さんと井出哲也さんがが復職されて、お二人のそ新しい机と椅子を私が都合したのだが、このお二人とは後、レース関係でお世話になったのである。
大槻さんはそんなことは解っておられないと思う。
私が『大槻幸雄』という名前に初めて出会ったのは実はこの時なのである。



この『償却計算の機械化』が出来たお蔭で、何人もの人が計算機を回してやっていた作業は不要になって、財産課の人員は要らなくなったのである。

そんなこともあって、私は昭和35年(1960)から新しい事業としてスタートした『単車事業』の営業に異動することになるのである。



★ そんな私の入社当時なのだが、新しく出来た『単車営業』もアイツなら大丈夫だろうと思われたのだと思うし、
 
昭和39年(1964)に本格的に単車事業本部がスタートし初めて広告宣伝課が出来て、1億2000万円の広告宣伝費を本社が開発費で3年間出してくれることになるのだが、
その広告宣伝課を係長にもなってもいない私が担当することになるのである。

性格なのか? 新しいことでも、大きなことでも、不思議に物怖じなどしないのだが、
1億2000万円の広告予算を使い切るのがなかなか大変で、
当時新しくスタートした『レース関連』のライダー契約や運営費をこの広告宣伝費で賄っていたのである。

私の年収が40万円という時代に、20代の若手社員が1億2000万円という予算を自由に使えるという世にも不思議な経験をさせても貰ったのである。



★25歳で入社し約10年間の新入社員時代にこんな経験をさせて貰えたのは
非常に幸運だったと思う。
 
その後も『新しいこと』『大変なこと』ばかりを担当させられて、
最初のIBMの償却計算システムがそうだったように、
私の場合はいつの時代も『上からの具体的な指示』など全くなくて、
与えられた『命題』を解決するために、
自由に好きなように動けた現役生』だったのである。

それ故に現役時代の会社生活は『結構楽しかった』のである。
 
 


 
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三木山森林公園をスロー・ジョッギングしてきた

2020-11-10 19:06:27 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は三木総合公園にある三木市総合体育館のジムでにトレーニングに行ってきた。
 1時間ほど筋力トレーニンをしたあと、
 直ぐ隣の『三木山森林公園』でスロー・ジョッギングを楽しんできた。

 『三木山森林公園』と『三木総合公園』はこんな位置関係にあり、
 隣というか、道を挟んで東西なのである。

 
 
 
 森林ばかりで何もないように見えるが、そんな自然いっぱいの公園なのである。
 孫たちが小さい頃はよく来てたし、犬がいたころは散歩もしょっちゅうだった。
 
 三木には大きな公園が幾つもあるが、その中でも『一番好きな公園』である。


 写真をいっぱいとってきたので、通った順にご紹介してみよう。

 向うの建物が三木総合体育館なのだが、
 その前の駐車場に車を止めたまま、三木山森林公園に向かったのである。
 




 森林公園に向かう道から、三木総合公園を見下ろしたところ。
 この公園もスポーツ施設がいっぱいで結構広い。




 これは三木山森林公園の上の方にある広場、
 芝生も広いし、今は紅葉も綺麗である。





 この奥には子どもたちの遊び道具や木工教室などもある
 『ウッディ広場』などもあるのだが、





 さらに進むとこんな林の中の道になって、
 こんな道が縦横に走っている公園なのである。





 こんな展望台もあるのだが、
 開場以来25年も経って、木が大きくなって
 下の芝生広場が見えないし、





 こちらの展望台からは柱の横の上の写真のように三木市街が見えていたのに、
 今はほんの少しが見えるだけになっている。



 これは東の方、右の山波が神戸の『六甲山脈』
 左の少し大きく見えてる山は『丹生山』これも神戸なのである。




 
こんな森の中のメイン道路には



 茶室などもあったりするのだが、

 


 
 その先の道で、『古谷さんじゃないですか?』
 と声を掛けてくれたのは、川崎航空機ー川崎重工業と同じ道を歩いた『岡崎くん』 
 殆ど毎日散歩に来ているのだとか。

  

 
 いま76歳だそうだが、元気そうである。
 私も色濃く関係した、開発途上国市場のインドネシアに10年もいたという。
 そんな昔話などにも花が咲いて、ちょっと懐かしいひと時だった。

★  『また、お会いしましょう』と別れてきたのだが、
 
 私は人生、特に現役時代は『八方美人』で過ごしてきたので、
 どなたとお会いしても、『昔のままに』お話しできるのは特技と言えるのかも知れない。

 結構、年の開いた方でも大丈夫なのである。

 今日は、長くお会いしていないジェットスキーで関係のあった
 『福井昇くん』が家にやってくる。
 先日、懇意にしてくれた仲間たちに配ったのだが、
 特に、日本で初めてカワサキのジェットスキー展開にスタート時点に
 『力を貸してくれた福井昇・藤田孝昭・潤井利明くんの3人のために残している、
 大槻幸雄さんの殿堂入り記念品をお渡ししようと思っているのである。

 因みに言うと
 ジェットスキーのスタート時に手伝ってくれた人は、このほかにも
 渡部達也・吉田純一くんなどもいるのだが、
 このお二人はゴルフ・コンペZ1会の方で配布されるのである。

 もう定年になって20年にもなるのに、
 『いろんな方たちとのお付き合い』が続いているのは幸せなことである。
 
 
 

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スポーツの秋

2020-11-09 07:24:38 | スポーツ

★今年は『コロナ禍』でスポーツ界は満員の大観衆と言うわけにはいかないが、
 それでもプロ野球も既に優勝チームは決またがなかなかの活況だった。

 昨日は巨人の坂本勇人が『2000本安打の快挙』達成だった。

 

 
兵庫県生まれの31歳。
小学1年から野球を始め「昆陽里タイガース」では投手捕手だった田中将大(現ヤンキース)とバッテリーを組んだ。

などと記事にあった。田中将大がキャッチャーだったとはビックリである。


★TOTO JAPAN CLASSIC では申ジエが19アンダーの新記録で優勝した。
 3日間ノーボギーという安定した強さである。


  


 終盤まで大混戦だったが、終盤バーデ―を重ねて突き放した。
 それにしても日本の女子プロのレベルは上がったものである。

 小さな身体なのによく飛ぶのは技術がいのだろう。

 今週明後日は今年2回目のゴルフだが、女子プロにあやかって頑張りたい。
 最近は、やる前はいつも『こんな調子』なのだが、やはり練習もしないで
 『ぶっつけ本番』でスコアだけを望むのは虫が良すぎるのだろう。


 2位以下もこんな好スコアだった。





★大相撲が始まった。

 今場所も両横綱は休場だが、
 大相撲に興味・関心が出来て、力士の名前も関取は半分くらいは解るようになった。

 新大関正代はホントに危なかったが辛勝。
    

  
 今から15日、夕方が楽しみである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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継続は力なり  その2 運動

2020-11-08 06:26:39 | 私の生き方、考え方&意見

★子供の頃から『体を動かす』のは好きだった。
 
好きこそものの上手なれ』と言うが『体を動かすこと』は得意だった。

小学校時代は走りも早かったし、相撲も強かった。
戦後日本に戻ってからは、日本国中野球が盛んで中学校から大学まで『野球に熱中』した。

ただ確かに続いてはいたが『継続』という意識はなかったのである。
社会人になってからは、『草野球』などはやっていたが、そのうちにさっぱり運動はしなってしまった。

体を動かす』のは40代に始めたゴルフぐらいで、50代以降は『会社の仕事』が忙しくてというより自分で勝手に忙しくして、

60代後半は『身体の状態は最悪』の状況だったのである。



★定年を迎えた『68歳の頃』は膝や腰が痛くて、ずっとマッサージや整形外科に通い詰めていたのである。

そんなある日、整形外科の先生に『こんな電気治療などして治りますか?』と聞いたら、

治らないね。時間が出来たのだから、ストレッチでもしたら
筋肉は何歳になっても付くから』と仰るのである。

 この一言で、私の『毎日の生活』が一変したのである。
 その『ストレッチ』は『もう17年』も続いている。

 

★ 昨日は『継続するもの』として『日記』のことを書いたが、それに続くものが『ストレッチ』なのかなと思う。

ストレッチ』をやり始めて感じたのは『結構な時間』が掛かるのである。
整形外科の先生が『時間が出来たのだから』と言われた意味がよく解った。
 
 私の『ストレッチ』は朝目覚めた布団の上でやってるのだが、
 最初は確か30分ぐらいだったのだと思うが、それが『40分』になり今は『50分から1時間近く』にもなっている。


ストレッチと言えば『イチロー』が試合前に2時間近くもやるのが有名だが、
ホントに、結構時間が掛かるのである。


 

 

1日に1ミリ伸ばせば、1年には36cm伸びる』と
整形外科の先生は言われたのだが、とてもそんなには伸びないが、

17年も続けたら36㎝ぐらいは伸びて、イチローと同じぐらいの体勢はとれるのである。

まさに『継続は力なり』なのである。


 





★ これが79歳の時、三木市の『体力測定』の記録である。
  ストレッチのお陰で『柔軟性=20歳』と出て
  『体力年齢=42.8歳』と出たのである。



   


 これに気を良くして、
 この頃から『50メートルダッシュ』を始めたりしている。
 はじめは上手く走れなかったが、この年になっても年々上手く走れるようになって
 『ホントか?』と思われるかも知れぬが今が一番上手く速く走れている


 これが85歳の時の『体力測定』だが
 『体力年齢=53歳』と出て柔軟性に加えて敏捷性5点満点なのである。


  


 
 この頃から『ジム・トレーニング』を新たに加えたし、
 『スロー・ジョッギング』もやり出した。
 最初は15分ほどしか続けて走れなかったが、
 それが30分になり、今は1時間は走れるようになっている。

継続期間は短い』がやりかけたものは、みんな続いている。

 今年は、コロナで『体力測定』はなかったのだが
 もしやってたら、『50歳台前半』は自信があったのだが、残念である。

  


こんな『環境』と『有り余る時間』が私の『運動の継続』支えてくれている。

もう一つは『継続の意志』なのだろうが、
これは『やりかけたら続く』そんな性格なので大丈夫だと思っている。



 
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継続は力なり  その1  日記

2020-11-07 07:07:11 | 私の生き方、考え方&意見

★『継続は力なり』とは言うがホントにそうかも知れない。

 87年生きてきて、『私の周囲』には継続出来てるものが結構ある。
 そんなにムツカシイことの継続は出来ないが、
 簡単なことを努力で継続出来ているものばかりではある。

 まず、一番長く続いているのが『日記』なのである。
    毎日書いていたら、こんなに沢山になってしまった。


 



書き出したのが大学2回生の昭和28年(1953)11月9日だから、
もう67年続いている

 突然書き出したのは、11月8日の朝日新聞に
 『蒋介石が30年間日記を付けてい』のが立派だとあったので、
 『日記を書くぐらいなら自分にも出来る』と翌日から書き出しているのであ
る。

 11月だったので、日記帳など買わずにこんな大学ノートで始めている。


  



 その第1日目にこのように書いている。


  


 そのまま転記してみると

『平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えてないのだが、ただ単なる青春の想い出として後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろう些細な日々の出来事を、大袈裟に言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
 日記というものを自分で記そうと思ったのはこれが初めてである。
 そして生まれて初めての日記の書き出しが肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうとする意志表示である。健康な時には日記など見向きもしなかった代物である。
 十日ほど寝たというだけで、日記を記そうという気持ちになるのはどういう意味を持つのだろう?
 人生五十年という短いとされている期間をさらに短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出ているのだろうか?
一日の手持無沙汰からかも知れない。まあとにもかくにも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし。
 いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。
 2,3日で止まってしまっても、またそれもよいだろう。
 身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその1頁を始めることとする。
 いついつまでも続くことを祈るや切である。』

 大学2年の秋のリーグ戦の途中から、何となく体が『けだるく』て、
 自分から医者に診てもらいに行ったら『肺浸潤』と診断されたのである。

 『10日間ほど寝てた』と書いてるが、一番落ち込んでた時期だと思う。
 『肺浸潤』にはなったが、その後は寝込んだりはせずに、ずっと野球を続けていたら、段々ひどくなって『肺結核』から更に『空洞』が出来たりしたのだが、会社に入社して3年目に入院したら1年で完治して、今まで生きている。

 そんなことで日記もそのまま続いているのである。


★大学ノートでスタートした日記だが。
 今では『5年連』の高価で立派なもので書いている。




 
定年後になってネットをやり出してから特に現役時代の昔のことを書く際には
本当に重宝しているのである。
人間の記憶力』が如何に『いい加減』なものであることを思い知らされる
ことが何度もあった。 
どうも自分の『都合のいいように』覚えているので、事実と違うことが多いのである。

 
★ ちょうど20歳の時から書き始めて

 これは29歳の時、この年の12月21日に結婚しているのだが、
 この年の日記を先日読み返してみた。
 会社の仕事も『めちゃ忙しかった』年なのだが、
 『家内との付き合い』にも相当の時間を割いている。
 
なぜ12月21日などと言う年末の押し詰まった日に結婚式を挙げたのかというと、会社の仕事が忙しくて、とても10日間も休むことなど『考えられなかった』のだが、ほぼ1年も終わってやっとこの日には何とかなったのである。

  これがその年の日記帳である。


  

 

 若し、日記がなかったら、この年のことなどこんなに詳細には思い出せないだろう。 そういう意味でも日記はなかなかいい。
 書いてるときは、単に書いているだけなのだが、後になって役立つこともある。


★ 今からも『生きてる限り』日記は続くかも知れない。
  今の日記帳は来年まで、米寿の年(88歳)までは大丈夫だが、
  来年の秋には、また『5年連続の当用日記』を買うことになるのだろう。

  それから5年と言えば、『93歳まで
  自分の感じとしてはこれくらいまでは大丈夫だろうと思う。

  『蒋介石』は『30年日記を書いて』褒めて貰っていたが、
  私は誰も『褒めてくれる』人がいないので、
  自分でこんなブログにアップして悦に入っているのである。

  日記に限らず『継続しているもの』は幾つもある。
  これは『私の趣味』なのかも知れない。

 
  
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三木総合防災公園で走ってきた

2020-11-06 05:59:46 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★先週から三木総合体育館でのジム・トレーニングを再開したために
『三木総合防災公園』をちょっとご無沙汰してたのだが、
 昨日はカメラを持って、秋の防災公園を撮影しながらスロー・ジョッギングを楽しんできた。

 何度かご紹介しているが、こんなに広大な公園である。
 大きさを表すのに『甲子園が幾つ』というのがあるが、
 それでは数えようがないほどの広さで
 『ゴルフ場が3つ』ぐらいは入る広さなのである。
 

 

  
 昨日はこんなルートで約1時間ちょっとスロー・ジョッギングして
 その後休み休みだがダッシュを10本して戻ってきた。

 Fit bit の記録によると
 ●『1万歩ちょっと、約8km
 ●『1時間20分
 ● 消費カロリーは1400にもなった
 


  


★ どんなところを走ってきたのか?

まずは車を止めた横から、朝8時10分、気温7度
 競技場の横からスタートした。





 正面の丹生山(神戸市)を観ながらちょっと下って




 右に曲がって坂道を登って、競技場の正面の道を




 突き当たって右に曲がると入口の交差点がある。





 入口の右の道を上ると
  
 


 
こんなゲートボール場に出る。




 この辺りが一番高くて、そこからはなだらかな下り坂
 



こんなところを向うから走ってきたのである。



入口の駐車場を右手に見て、まだ車はそんなに止まっていない。
ここまでが約20分。




右に曲がると橋がありその向こうが『屋内テニスコート・ビーンズ・ドーム



芝生があちこち、掘り返されているが、これは『イノシシの仕業




 橋の上から北を望むとこんな風景、山すそを走ってるのが中国道




この道の右も左も防災公園、これは中国道の三木東入口に繋がっている。




これがビーンズドームからの戻り道で、この先がスタート地点なのである。




★ここまで公園の南西部の一部なのだが、約『35分
 汗をかいたので給水と上のセータ―を脱いで、後半はシャツイチでスタート


 後半は北の方にあるサッカーコートの周りを走る。
 



なだらかな下り坂、紅葉の並木道、来週には葉がなくなるだろう。



下から見るとこんな眺め、



野球場を左に観て



なだらかな上り道、歩いたり、ジョッギングしている人もいるのだが、
広いのでなかなか出会わない。




 坂を上り切ると、今修理中の競技場、向うの建物は『E・ディフェンス
 NHKのテレビなどで『建物の地震実験』などやってる。





 競技場を裏から眺めながら一周し 



競技場を右手に見ながら、なだらかな上り道。




そして車を止めてた、駐車場に、
走りだしたときは2台だった車も、ちょっとその数が増えている。




★これで スロー・ジョッギング終了。
 1時間約8キロは、結構長いでしょう。
 スロー・ジョッギングだから息が続くので、
 普通のジョッギングなら私はダメだが、走ってる人はいっぱいいる。

 このあとちょっと場所を移って


 こんな広場の中の周回路を休み休みだがダッシュ10っ本。
 

 
 こんな周回路があって、ベンチがあるので
 休みながら走っている。
 



 初めて、自分のために写真で纏めてみた。







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アメリカ大統領選挙 トランプ再選か?

2020-11-05 06:39:34 | 発想$感想

★ 今回のアメリカ大統領選挙は日本でも大きな関心を集めて、
  マスコミでもいろいろと取り上げられている。

  その投票は既に開票された地域もあるがまだ最終的には
  終わっていない。
 
  ただ未だ未開票の地域の途中経過はトランプ大統領に有利なようで


  

   



 『大きな成功』と事実上の勝利宣言をしたようである。







 日本の人たちも、約60%が『トランプ勝利』を予測しているようである。




★ 『あなたの意見は』とあるが、
 
 私はトランプが勝つと思うし、そうなることを期待したい。
 4年前から、ずっと『トランプのファン』なのである。

 少々『桁外れな』ところはあるのだが、実行力はあるし、
 如何にも『アメリカの大統領』らしいと思っている。

 若し今回、民主党のバイデンさんが勝つようなことがあると
 『アメリカの元気さ』がなくなってしまうような気がしてならない。
 前オバマ大統領も紳士ではあったが、目立って何をしたのかよく解らない。
 
 何よりも、『日本に対する態度』は厳しいと言われてはいるが、
 非常に好意的であることは間違いない。

 民主党の副大統領候補の女性は『日本に厳しい』と言われていたこともあって、
 そういう意味でも『共和党のトランプさんの再選』を期待していたのだが、
 若しトランプさん再選なら、菅さんの渡米も年内だろうし、
 安倍さんまでとは言わぬが、『いい関係』を続けて欲しいと思っているが、

 果たして結果はどうなるのだろうか?
 兎に角、素人には解り難い選挙制度であることは確かである。

 
 
 
 
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薔薇   雑感

2020-11-04 06:22:27 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 定年後、ふとしたことから薔薇を育てるようになった。
  それまでは結構ちゃんとした日本庭園風だったのだが、
  柘植が植えてあった玄関までを、全部薔薇に変えてしまった。

  何でもやりかけると凝る性格なのである。
  つる薔薇など、本来なら植える場所などないのだが、
  植木の間の陽の当らない場所に植えても枝を伸ばしてくれるし、
  伸びた枝を植木が支えてくれるので重宝である。


        今までブログにもいっぱいアップしてるので、

  『薔薇 雑感日記』 と検索したら薔薇の写真がいっぱい現れる。



      そんな中からの写真である。
 今は、秋薔薇でこんなには咲いていないのだが・・・


 









  ばらは名前がいろいろあってムツカシイ。
 なかなか覚えられないのだが、これは銘花『パパ・メイアン
 花もいいが、香りが素晴らしい。


 この薔薇を1本買ったので、それから病みつきになってしまった。
 もう15年にもなるのだろう。






    ブログの題材に困った時は、薔薇が援けてくれている。

  昨日もそんな1日だった。


 


   

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大槻幸雄さんの日本自動車殿堂入りの記念品 雑感

2020-11-03 06:40:33 | カワサキワールド

★ 今年の4月にこんな記事が出たのをご紹介したのだが、覚えている方もおられるかも知れない。

昨年の暮れのことだが、カワサキの名車Z1開発の総責任者であった『大槻幸雄』さんがその功績で日本自動車殿堂入りをされたのである。



  


 

当初は4月に、『大槻さんの故郷・綾部』でその祝賀会を開催することになっていたのだが、
コロナ禍』もあって9月に伸ばそうということになっていた時の地元紙の記事である。

その9月も『開催は無理』と判断して、
ご本人の大槻幸雄さんから『受賞の記念品』を創りたいというお話があって、私が動き始めたのが夏ごろの話なのである。


 そんな企画段階から携わって、どんなものを幾つ創るのか?
 大槻さんのご意向を伺いながらも、私流にいろいろと動いたのである。

 こんなことをやりかけると『現役時代』に戻ってしまう。
 やる限りはちょっと『差別化』された独自のモノにならないと気が済まないのである。
 その記念品はめでたく10月末に出来上がったので、まだ数日前のことである。

 チタンガラスのこんなに豪華で見事な記念品なのである。


   







★ この記念品は、まず綾部で大槻さんの受賞をお祝いしようとされた、
 全国のZにお乗りのファンたち約60人を筆頭に
 大槻さんが会長をされているゴルフコンペZ1会のメンバーたちを中心に、
 勿論、川崎重工業の関係者諸氏にも配られるのだと思うが、

 この記念品の企画に関係したこともあって、大槻さんから一部個数を
 私の裁量でお配りすることを許されたのである。
 これは非常にありがたいことなのだが、簡単なようでなかなか大変なのである。

 全部で170個も創られたのだが、
 元々の『Zファン』と『Z1会』のメンバーたちで100個は越すので、
 私に任された30個をどのように配分するのか?
 これは簡単なようでムツカシイのである。

 
 
★ このグラスが出来上がって大槻さんのお宅にお届けしたのが10月末なのだが、
まず第1号は元川重社長の田崎雅元さんに送って既にご本人から連絡も頂いたのである。
なぜ、田崎さんに第1号を送ったのか?
それは彼が『元川重社長だから』ではなくて

カワサキの初代のロードレース監督大槻幸雄さんなのだが
助監督が田崎雅元さんなのである。
私はその時、レース予算とライダーマネージメント担当だった。
そんな『大槻ー田崎コンビのレース仲間』なので、まず第1号は田崎さんに送らねばと思ったからである。

 
そして今朝、私は明石のKMJの事務所に6個を持って訪問したのである。
これは今の『現役諸君』の中から『私独特の人選』をしたのだが、
想い出を共有する仲間』たちに私のお礼も兼ねて、お渡ししようと思ったのである。

どんな人たちを選んだのか?
●ジェットスキーの立ち上げの時期、JJSBAに出向してくれた当時の若手、
●東京の『つきみ野』でショップをやってくれた、これも当時の若手、
●今は偉くなっておられるが、入社当時いろいろあって仲人もした若手、
●私の飲む会には何故かしょっちゅう顔を出してた若手 
● そして今、広報担当されていて田崎さんとも関係深い方、
みんな当時は若手だったのだが、今はみんなそれなりの地位におられる。

●そんな配布のお手伝いを今回してくれた私が現役当時もおられた女性にも、
これは咄嗟に閃いて差し上げてきたのである。

 
 実はこのグラス、時価7000円もする至って高価なものなのである。
 これを作ってくれたのは、現役当時から関係のある業者の方である。
 贈呈者の大槻幸雄さんもその出来栄えに大満足のようでよかった。



★ あとはどうしたのか?
 あとは住所は解っているので、お送りすればいいのだが、
 これが簡単なようで面倒だし大変なのである。

部品発送などやっておられる
東京のインターナショナル・トレーデイング村島村島邦彦さんにも差し上げようと思っていたので、
送ってくれませんか』と頼んだら、快く引き受けてくれたので、
これで、今日午後佐川急便が集荷に来てくれて、一括送ることになっている。

『これで終わり』ではなくて実はまだ残っているのだが、
これは福井昇くんに直接お渡ししようと思っている。
 なぜ? 特に理由はないのだが、彼に会いたかったからである
 彼は、気軽にどこでも出かけてくるし、Facebook でも繋がっているから、
取りに来てくれる』と思っているのである。

 
宅急便にした分は、明日にでも東京に届くだろうから、今週中にはそれぞれの手元に届くだろう。

これら私の担当分が一番早くこの『記念品』を手にされる方たちだと思う。
Facebook のトモダチも何人か入っているので、このブログお読みになったら楽しみにお待ちください。
 

11月11日にはゴルフの『Z1会』が開催され、沢山の方が参加なのだが、
その中にもFacebook をおやりの方はおられるので、
この記事お読みになった方は『事前広報』だと思って下さい。

それにしても大槻幸雄さん、立派な記念品を創られたものである。


  
  
 
  
日本自動車殿堂入りの記念品として、本当に相応しいものが出来たと、
久しぶりに私も『一仕事』お手伝いが出来たと思っているのである。

   


 
 もう現役を離れて、20年も経つというのに、
 現役当時と同じようにお付き合いのある大槻さん、田崎さん
 頼んだら、現役時代と同じよに動いてくれる仲間たち
 今回、この『大槻さんの記念品』を受け取られる大勢の方たちこそ
 『私の宝物』なのかも知れない。

 『一仕事済んで』ほっと満足している朝なのである。
  大槻さんにも喜んで頂いて、本当に良かったと思っている。



 

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52回全日本大学駅伝 駒沢大学優勝

2020-11-02 06:24:03 | スポーツ

★ テレビで『全日本大学駅伝』をやっていた。
 最初は何となく観ていたのだが、
    8区になって東海大と駒沢大の並走が続いて目を離せなくなった。
 
     



 最近は、ランニングをする人たちは多いが、

 このレベルはまた格別の別世界だと思う。

 名古屋の熱田神宮から伊勢神宮までの106キロを5時間ちょっとで走破するのである。

 


 その競い合いは伊勢神宮の入口まで続いたのだが、

 


 
 最後は駒沢大が一気にスパートして

 



 駒沢のエース2年生の田澤は2位を約30秒引き離しての優勝だった。









 最後の順位は駒澤大学が大会新記録で21回目の優勝を決めたのである。








 来年のシード権が得られる8位までは、箱根駅伝でお馴染みの関東の大学が名を連ねて、全日本大学駅伝なのだが、関西の大学は10位までには入っていない。

 優勝回数を見ても、圧倒的に関東勢なのである。


 ★ 52回の長い歴史の中では福岡大学がだい10、12.13回と3回の優勝を果たしているし、
 関西校でも第17回に京都産業大学が制覇しているのである。

 私自身が「息が切れる」のは全くの苦手なので、
 こんな走りを見ると『人間業』とは思えないのである。

 そんな人間の驚異的な走りを見て、ただただ感心していたのである。

 2か月後新春には箱根駅伝がある。
 今回上位のこんな大学の間で争われるのだろう。


    

 
  
 ただ、箱根は2日間の長丁場だから、
 選手の数もほぼ2倍になって、チーム全体での実力が問われるのだろう。


   


  駒沢大学は55年連続出場出凄いなと思っていたら、
  日本体育大学は73年連続出場で、
  一番多く出場しているのは中央大学の94回なのである。


    

 
 因みに箱根伝は、来年が97回目の長い歴史のある駅伝なのである。

 何でも、調べてみると『直ぐ解る』いまの世の中ではある。

 


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米寿を迎える感想

2020-11-01 06:33:47 | 発想$感想

★ 来年の3月に、米寿を迎える。

 まだ88歳にはなっていないのに、
 先日は三木市からか、自治会からか『お祝い』を頂いたりした。

 今回は、明石高校の同窓会の『自彊会』から
 「米寿を祝う会」のお知らせとしてこのような通知を頂いたのである。

 知らなかったが、もう20年も続いていたのだが、
 今年は『コロナ禍』でやむなく『中止』となったようである。

 

お祝いの会』は中止になったのだが、代わりに記念文集を発行するので、250文字以内で『想いを纏めるよう』に依頼があったのである。

 
 ほんとに久しぶりに高校時代の人たちに会えるかなと思ったのだが
 残念である。
   そんなことでご指定の250文字で次のように纏めてお送りしたのである。


『今、頑張っていること』

結構、元気な87歳である。朝は近くの公園で1時間ほどのスロー・ジョッギングか、三木市の体育館のジムに欠かさず通っている。
毎日のストレッチが効いて『柔軟性は20歳』の評価も出るので、『体力年齢は50歳台』が保てている。
70歳になって始めたパソコンのお陰で、ネットの世界ではブログ・ツイッター・Facebookなどそこそこのレベルでやっている。
ツイッターのフォロワーは50万人を超えている。ホントか?と思われるかも知れぬがホントである。 
ゴルフは未だ現役だが、流石に野球はもうダメだな。でも頑張っています。


 このブログをお読みの方は、何度も私が書いていることだが、
 高校時代の旧友たちは初めてのことである。

 私が野球をしてたのはよくご存じの方たちばかりなので、
 『流石に野球はもうダメだな』と書いたのだが、

 この写真は昨年11月、大学の野球部総会の時に、
 テイーバッテングをさせてもらった時の写真である。
 
 86歳としては、結構ちゃんと振れている。 と思っているのだが、
 
 そう思われませんか?


 


 
 これは昭和25年(1950)夏の甲子園、
 当時はまだ『名門明石』と言われていたのだが、
 この時のメンバーはもうほとんどが逝ってしまった。


 



 当時の写真はこれくらいで、今の時代のように沢山はない。

 阪神の吉田義男さんは京都山城高校で、私と同期なのである。
 同じ年の夏、彼も甲子園球児だった。

 ポジションも同じショートだったが、これは『比べるのが無理
 それでも今なら『そこそこやれるかな』というぐらい私は元気なのである。
 

  


  
 88歳まで、あと実質4ヶ月である。
 多分、間違いなく『米寿』は迎えることが出来るだろう。


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