白雲去来

蜷川正大の日々是口実

夜桜お七、ではない。夜桜の会。

2009-03-30 08:39:05 | インポート

三月二十九日(日)曇り。

 朝食の後に、伊勢原へ。伊勢原の駅にて大熊雄二氏と待ち合わせて浄発願寺へ。駐車場に車を入れて、野村先生のお墓の掃除。彼岸の中日にご遺族や門下生が来たに違いあるまい。墓前にはまだ綺麗な花があった。伊勢原の駅前の花屋にとても立派な菊があったので、古い花は、「闘い」と「恋」地蔵に移して、菊を供えた。先生が、獄中で三上卓先生の訃報にに接した時に読んだ句が、

  白菊の白が溢れてとどまらぬ

 だった。先生のお墓には、白菊が似合うような気がする。お寺のすぐ下にある茶屋のしだれ桜が見事な花をつけていた。そばにある両親のお墓にも菊を飾った。ここにも新しい花が供えてあり、感謝する。

Cimg5823 浄発願寺のしだれ桜 ※クリックすると大きくなります。

 

 急いで帰宅。今日は、社友の堀善太郎君のお世話で、舟で大岡川を下りながら夜桜を見学することになっている。約束の時間に少し遅れてヨット・ハーバーに到着。サリー夫妻やミッチー、ルー大柴氏のお姉さんなどのサリーズバー・ファミリーと我が家の家族が一緒。残念ながら川べりの桜は二分咲き程度で、寒さに震えながらの夜桜会であったが、風流さは満喫できた。堀善太郎君に感謝。

 

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墓前祭に講演。忙しい一日だった。

2009-03-29 22:47:26 | インポート

三月二十八日(土)曇り。

一度、アップしたのだが、大先輩から「どこの誰だかわからない者の書き込みに、反応しても仕方がない。自分の書きたいことを書けば良い」と、お叱りを受けたので、本来の「酔狂亭日常」に戻します。

 今日は、朝から東京行き。午前十一時に、青山の花屋さんに集合して、青山墓地にある朝鮮の志士、金玉均先生の墓前祭を行う。頭山興助先生が祭主となって三年前から祭行されており、私が呼びかけ人の末席を汚している。正午、墓前にて福永武氏が斉主となって神式にて行われた。お墓の近くには見事な紅白の梅が咲いていた。玉串を捧げ金先生を偲んだ。

 0470

「金玉均先生の概要と墓前祭開催のいきさつ」。※クリックして下さい。 

  Cimg5662

 

金玉均先生の墓碑。※クリックして下さい。 

 木村三浩氏のお世話で、韓国大使館からも出席があり、日韓双方での追悼祭となった。終了後は、「藪」で直会。ここの蕎麦のファンである。一時間ほどで、終了。山浦嘉久、伊藤好雄の両先生や、若い人たちと「ライオン」に転戦。四時半に、次の会合の場所となる神保町へ移動。

 六時半より、神保町にある、「千代田プラットホーム」という会場で、宮崎学、猪野健治、二木啓孝の諸先生をコーディネーターとして「フォーラム神保町/現代深層研究会」という催しが行われる。社友の松本佳展君と合流。

 今回の新潮社の問題を、宮崎学氏の司会で、私と木村三浩氏がゲストスピーカーとなって話した。会場にはマスコミ関係者がほとんどであったが、知り合いの方も何名か来ていた。木村氏が「島村」の写真を来ている人達に見せたら、皆、驚いた様子だった。八時半に終了。

 終了後に、近くのファミレスにて、猪野先生や、お世話になっているT書房のA編集長、木村氏、松本君、一水会の若い人たちと打ち上げ。社友の隠岐康氏が錦糸町で一席設けてくれていたのだが、時間が遅いのでご辞退して松本君と共に帰宅。忙しい一日だった。  


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社友会、一門会、同志の熱い思いに、つい目頭が・・・。

2009-03-29 09:43:33 | インポート

三月二十七日(金)晴れ。

 良い天気である。朝食の後に、すぐに事務所で仕事と思ったが、パソコンの調子が悪いのと、周辺機器が消耗しているので、横浜駅の西口にあるヨドバシカメラに行った。平日だというのに横浜駅周辺は凄い人である。昼日中からこんなに人で溢れている。皆、私のような浪人なのだろうか。ヨドバシカメラに入れば、何と「中国語」「韓国語」で館内放送をしている。一昔前は、品物が安いから、韓国や台湾に行ったものだが、今は、逆になったのか。それとも日本製のOA機器が安くて良い品だから、わざわざ外国から日本に買い物に来るのだろうか。良く分からん。

 A3サイズがスキャナーできる機械を見たが、何と二十万円もする。新聞記事や、ポスターなどをハードディスクに保存するために、大型のスキャナーが必要なのだが、二十万もするのならば無理なのであきらめた。家族との待ち合わせにはまだ時間があるので、東急ハンズにも寄って、暇つぶし。ハンズや大型書店にいると時間を忘れる。ハンズでは何を買うわけではないのだが、食器や小物類の発想の転換が参考になる。デザインの美しさ、アイデア商品、見ているだけで、物を書く上でも参考になるような気がする。書店もそうだ。本の山の中に囲まれていると、それを書いた多くの人たちの「知」が私の中に「気」として入ってくるような感じがする。精神衛生上とても良い。

 夜は、久し振りに家族で食事。昨日の食事会で三本菅先生から頂いた牛肉のおみやげを皆で食した。さすがに東京でも指折のステーキ店の肉で、アット言う間になくなってしまった。本当に美味しい肉と言うものは、酒のつまみよりも、やはりご飯と一緒に食べる方が良い。父親としての株が上がった次第。恥ずかしい話だが、我が家は、こういった方たちの善意で支えられている。全国の社友会、門下生の人たちから、様々な物を頂く。これも恩師である野村先生のご加護であることは言うまでもない。感謝しながらいつも思う。私が頂いているのではなく野村先生のお名前があってこそ、こうした善意があると・・・。家族は、毎朝、私の両親と岳父、そして野村先生の遺影に手を合わせてから出かける。

 私のブログには、原則として社友や門下生からの書き込みを遠慮して頂いている。その理由は、ブログがごく身内だけのこじんまりしたものになる事を危惧しているからである。特に、何処の誰だかわからないようなハンドルネームでの書き込みは拒否しているほど。どんな誉め言葉であろうが、何処の誰だか分からないものに、歓ぶことが出来ない。そういった風潮こそ、実は諸悪の根源ではないかと思っている。前日のコメントも、皆、実名、もしくは私が誰だか分かる人たちの書き込みである事が嬉しい。そういった小さな勇気が現代社会には必要ではないのだろうか。

 たとえ社会的な地位などなくとも、貧乏であっても「卑怯な振る舞いはしない」。と言うのが、我が家の、唯一絶対の家訓である。

 若い人たちが、今回の「週刊新潮」の報道と島村なる野郎の言動に私が激怒しているとの情報が社友会の中で伝わったのだろう。新潮社からは真摯な回答を頂いたが、島村はまだ、身を隠したまま、とぼけている。だからこそ社友、一門の者は「島村・清水(島村の旧姓)」のキーワードに敏感に反応する。毎日、全国の社友、一門の人たちから電話も頂く。久し振りにコメントも沢山頂いた。感激で目頭が熱くなった。しかしくれぐれも軽挙妄動は慎むこと。一度限りの人生、たった一つの命。必ず戦いの場はある。歌の文句ではないけれど「俺の出番はきっと来る」。秋に、また全国の社友、同志とお会いできます事をたのしみにしています。久し振りに、皆さんの熱い思いに接し、感激いたしました。心から感謝申し上げます。

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俺に是非を説くな・・・。

2009-03-28 01:25:39 | インポート

三月二十六日(木)雪のち曇り。

 朝、トイレに起きて、何気なく外を見れば、何と、この時期に雪が舞っているではないか。おおっ!と、いっぺんにに目が覚めてしまった。

 ヨコハマなどにいると雪は思いがけないプレゼントのように感じてしまうが、雪を見ると、脳裏に浮かぶのは網走時代のことである。網走では、雪は格闘して克服するものであることを身をもって知った。農場に出た時は、冬場は、畑作業が出来ないので、住吉農場という山深い場所に移動して、伐採の仕事をやらされた。網走は明治の香りのする刑務所である。その当時の囚人が植林したのであろうか、明治、大正、昭和と名札のついた木が沢山あった。 雪を掻き分けて山道を登り作業場に行くのだが、私のような体の大きい者が前列に並び、人間ラッセル車のようになって胸のあたりまで積もった雪を掻き分けて進む。後に続く者が、雪を踏み固めながら道をつけて行く。零下十度以下であっても、この「道つけ」で汗が滴り落ちる。作業場に着けば、木の間引きや枝払いの作業を行う。

 チェンソー部隊が木を切り倒す。「倒すぞー」「倒れるぞー」と、囚人同士が声を掛け合う。すさまじい雪煙と地響きをあげて大木が倒れる。「倒すぞー」の声を聞き漏らしたならば、それこそ命がない。金太郎が担いでいるナタに似た「サッテ」という刃物で「枝払い」を行い、丸太になったものを、またチェンソー部隊が三メートル五十センチに「玉切り」して行く。一本が四、五十キロもある、その「玉切り」された木を担いで集材場へ運ぶ。雪ですべったりしたら、確実に大怪我をする。映画「網走番外地」そのままのシーンである。

 雪を見ると、網走時代のことを決して忘れまい、と思う。あそこで学んだこと、野村先生が、母の名前で寄こす「朝の来ない夜はない。頑張れ」という電報。野村先生はもとより、三上卓、佐郷屋嘉昭、井上日昭の大先達や多くの先輩達も獄に耐えたのではないか。何のこれしきのことでくじけてなるものか、と歯を食いしばって頑張った。

 野村先生の獄中句に、

 この雪の打擲 耐えて耐えてゆく

 吹き上ぐる獄の寒風敗けてならじ

 俺に是非を説くな 激しき雪が好き

 がある。野村一門の幹部は、皆、こういった獄中経験をして、少しでも野村先生に近づこうと努力している。拉致の問題、政治の腐敗、世の不条理・・・・。野村先生がご存命ならば、どう考え、どう行動するのだろうか。門下生ならば、常に、このように考える。それが何だ、島村と言う野郎は、野村先生と一度も会ったこともないくせに、先生の名前を利用して、嘘を並べて恥じないどころか、新潮社から金を貰っているというではないか。出てきて、我々に直接会わなくとも、どこかのマスコミに真実を話して謝罪をするならばともかく、絶対に知らぬ振りはさせない。幸いに、一水会の木村代表が最近の島村の写真が手に入るとのことなので、このままとぼけていたら日本中の民族派に写真を公開するつもりでいる。

 朝食の後に、事務所へ。来客多し。社友、会友、他団体の人たちが次々と訪れて、仕事にならなかったが、それはそれで楽しい。今回の新潮社の問題があってから、一門はもとより、大行社などの親戚団体などからの支援が多くなった。来月三日の、「北海道青年フォーラム」にも、北海道総本部の谷口総本部長から、動員の連絡が入ったり、東京からも同志が多く駆けつけてくれる。もちろん北海道の読者、社友も総動員体制で臨む。

 夜は、大行社の三本菅啓二先生のお世話で、日本橋の某所で食事会を行った。出席は、阿形充規総長、市村清彦青年思想研究会議長、丸川仁大行社本部長、犬塚哲爾八千矛社代表、木村三浩一水会代表と私の七名である。話は勿論「新潮社」と島村のことに始まり、時局を肴に良い食事会となった。食後は、六本木に転戦して十時まで。大破・轟沈で、丸川本部長と帰路についた。

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活字媒体も「倫理委員」を立ち上げたらどうか。

2009-03-26 12:05:43 | インポート

三月二十五日(水)雨のち曇り。

 七時半起床。朝食は、サンマの丸干し、塩辛、大根のみそ汁。一日の食事で朝食が一番美味しいと感じる。いい年をして腹が減って目が覚める。二日酔いでも、熱があっても、起きたら、すぐに朝食をとらないとだめだ。

 午前中は、自宅で仕事。正午過ぎに事務所に行き、朝日新聞社の取材を受ける。何でも、近々、再び、「週刊新潮」のヨタ記事への反論特集を行うそうだ。今日の取材の要点は、新潮の連載に際して、野村先生の門下生である私を含めた関係者に、新潮社側からの取材があったのか、ということ。「一切無い」と答えた。実際に、野村先生はもとより、児玉先生、伊藤塾長が属していた「無名塾」などにも、新潮社側は一切取材を行っていない。

 これは私の推測だたが、我々関係者に取材を行ったならば、島村証言が根底から否定されることを分かっていたからこそ、敢えて肝心な関係者の取材を行わなかったのではないか。部数が低迷しており、編集長が交代することもあって、「みやげ」代わりに、危ないかもしれないが、スクープ記事をやった。私は、そんな気がする。確信犯であると・・・。

 私には、山平重樹氏が、「新潮が取材をした後にはペンペン草も生えない」と言われた、記者魂、取材魂、伝統に裏づけされた「誇り」が、部数を伸ばすことに汲々としているうちに、希薄になってしまったのではないかと思う。「米大使館・CIA・右翼・金・殺人・児玉誉士夫・野村秋介」と並んだキーワードを聞いて、「オオッ!世紀の大スクープ」と、何の疑いもなく、食いつく記者と出版社が今の時代に存在すること自体、私には、新鮮な驚きである。

 「朝日新聞」と戦う姿勢は、私も大いに評価し、応援したい。しかし、その問題と、今回の事は別だ。このまま、虚報問題を放置していたならば、単に、「週刊新潮」のみならず、全ての週刊誌の姿勢が問われる。そういった危機感が欠落しているからこそ、今回のような問題が起こる。「週刊新潮」でさえ、あんな記事を掲載しても何のお咎めや反省がないのならば、ウチもやってみようか。などという空気が蔓延しなければ良いのだが。部数が伸び悩んでいるのは何も新潮だけではないのだから。

 テレビのCMなどの行き過ぎや、報道の誤りには、「倫理委員会」のようなものがあって、ある程度自浄作用を求められると聞く。活字媒体も、そういった委員会を自ら立ち上げたらどうなのか。「週刊新潮」が、「週刊ほっ被り」にならぬことを祈るばかりである。

 取材が終了後、遅い昼食を、伊勢佐木町の「モハン」というインドカレーの店に行った。久し振りに食べたが、辛くて、夜になっても舌が痛かった。

 夜は、T社のI編集長と待ち合わせての一献会。I氏にはいつも良くして頂いている。久し振りの酒だが、これも久し振りに、藤棚の「やまと」へ行った。相変わらず「生皮揚げ」や「手羽揚げ」「もも揚げ」が美味い。しかし惜しむらくは焼酎がないのだ。一時間半ほどで、サリーの店に転戦。最近、少々酒の弱くなったI氏を促して、解散。いい酒で、小破・良飲。

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私が編集を行っております、「大吼」の春号が完成いたしました。是非ご一読をお願い致します。

※クリックすると拡大して見れます。

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