白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ヨタ高?。

2015-07-31 18:25:10 | 日記
七月三十日(木)晴れ。

スポーツを見るのは陸上競技くらいだ。テレビで野球を見なくなってからどのくらいになるのだろうか。ましてサッカーなぞ未だにはっきりしたルールも知らない。恐らく、私が小学生の頃には、学校でサッカーをやっている子供なんて見たこともなかった。

しかし高校野球の神奈川大会の決勝は気になって禁を犯して見た。どんな禁かと言えば、贔屓の人やチームが出る試合を見ると、負ける確率が高い。だからリアルタイムでは見ないで、録画したものを見るようにしている。そのせいでもないだろうか、ノーシードで決勝まで行った母校の横浜高校が東海大相模に負けてしまった。渡辺監督の暑い夏が終わると共に、監督人生にも終止符を打った。

横浜高校と言えば、略して「横高」。私が入学したころは「横高」をもっと略して「ヨタ高」と呼ばれていた。京浜急行沿線には、私が通っていた「ヨタ高」と、当時は同レベルの横浜商工があった。もよりの駅が「追浜」であることから「おっぱ商」と呼んでいたが、当時の徽章がYTCというローマ字を重ねた物であったために、「横浜(Y)低能児(T)クラブ(C)」と陰で揶揄されていた。この二校に武相高校を加えた三校が「分数の足し算が出来なくても入れる」と、随分とからかわれたことがあった。

今では、その三校も皆偏差値も高く、分数どころか、普通のアホでは入れない進学校となっていると聞く。そうそう横浜商工は、その後横浜創学館と名前が変わった。徽章も変わったのかな。今度調べてみよう。

私の入学したころの横高は、野球も強かったが、その他にボクシングやレスリングも強く、インターハイの常連だったが、当時、もっと有名だったのが陸上部である。OBには横高から中央大に進学して、当時の中央の箱根駅伝六連覇の中心的な選手で四年連続出場。東京オリンピックには三千メートル障害に出場した横溝三郎氏がいる。もちろん県大会の優勝や全国大会の出場も常連だった。私の一級先輩の小菅正男さんは、現在の藤沢翔陵高校の陸上部の監督となり、県駅伝大会四年連続三十二回の優勝、通算三十三回目の全国出場を果たしている。

数学の先生で、陸上部の監督の植木先生は、先ごろ亡くなられたと聞いた。その昔、横浜駅前で街頭演説をしていたら、植木先生が聞いてくれて驚いたことがあった。陸上部の皆さんは元気だろうか。

昨日の酒が残りおり、午前中は絶不調だった。昼までグテタマになって子供に怒られて、午後から活動を開始。月末の支払いにヒーコラ言って、汗だくになって帰宅。でも結局、夜は酔狂亭で、月下独酌。

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毅然と「運命に耐える」姿の偉大さ。

2015-07-31 13:35:14 | 日記
七月二十九日(水)晴れ。

暑い日が続く。そして来月の十五日は「終戦の日」。恒例の反日屋たちの喧騒がマスコミを賑わすが、どんなふうに歴史を貶めようと、大東亜戦争を戦った先人の誇りは不滅である。野村先生の最後の文となった「天の怒りか、地の声か」はこう結ばれている。
「神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。

久しぶりに、人の文章を読んで心が洗われた。読み終えた後に、しばし瞑想した。読んだ方も多いと思うが、全文掲載させて頂く。

産経新聞『曽野綾子の透明な歳月の光』~「1枚の古写真から」ー毅然と「運命に耐える」姿の偉大さー

私は何気なくつけた衛星テレビの番組に釘づけになった。終戦直後、それもすべてが焼き尽くされたヒロシマ、ナガサキの原爆の跡を撮影した、当時アメリカの従軍カメラマンだった老人が、自分の記録写真に登場した人物を探して歩くドキュメンタリーである。アメリカ人といえども原爆の存在を一般人は知らなかったという。

勝利の後に残されたものが、このような無惨な破壊であり廃墟だったのか、と当時の若い従軍カメラマンは思う。記録の中でも、ひときわ、心を引きつけたのは、道端に立ちつくす11,12歳の少年の姿だった。
いがぐり頭で唇をきつく結び、背中に着物を着た弟を黒い紐でおぶっているが、その子は眠りこけてのけぞっているように見える。やがてカメラマンは、少年の背負っている弟がすでに死んでいるのだということを知る。

彼は川沿いの空き地にできていた臨時の焼き場で弟を焼いてもらうために、遺体を背負って運んできたのである。やがて順番が来ると、焼き場の係員はしずかに弟の遺体を受け取って、丁寧に炉の端においた。その間、この少年はただ必死にこの《過酷な現実に耐えていた》。
はだしのまま『直立不動』に近い姿勢で道端に立つ姿は、幼いながら「軍人のようであった」とカメラマンは述懐する。彼はそこに人生に立ち向かう「勇気」を見たのだろう。

彼は来日中も杖をついてこの少年を探すが見つかられなかった。想いを残して帰郷した彼は、アメリカの自分の住む町の教会の一室で、戦争の記録展を開く。見に来たすべての人が、この少年の姿の前で泣いた。アメリカは戦争に勝ったが、運命を甘受して生きた人生の勝者は、このはだしの少年をであったかもしれないのだ。

記録にはたくさんの元少年たちが、老境に入った姿で登場した。その中で魚釣り少年もいた。カメラマンは最後に「また機会があったらどこかでお会いしましょう」と言う。元魚釣り少年は、立ち去って行く相手の姿をその場に立ちつくして見送る。
それは戦争中に私たちが習った『直立不動』の姿勢であった。老カメラマンが振り返ると、彼は深々と日本風のお辞儀をした。彼はその単純な民族的な動作の中に、《人生全体への尊敬もむなしさも、悲しみもゆるしも、辛さも慈悲も、すべてをこめて見せていた》。
《昔は至る所に、毅然として運命に「耐える人びと」がいた》。

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斗酒なお辞せず。

2015-07-31 12:35:36 | 日記
七月二十八日(火)晴れ。

酒好きの人が病に倒れると、他人事ながら気の毒でならない。『燃えよ祖国』に原稿を寄せて頂いている、宮崎の福田秀春さんは、体調の異変を感じ、病院へ行った所、即入院となった。福田さんのFBによれば、右の手足のしびれが取れないと言う。酒どころではないだろう。

同じく酒友の松本洋三さんも、近頃大病をし、手術をした。先日お見舞いにいった所、お腹の手術の痕が痛々しかった。豪放磊落な氏のことであるから、酒席を共にする日も近いに違いあるまい。福田、松本両氏の一日も早い快癒を祈念する次第です。

酒と肴に拘った作家と言えば、まず思いつくのが池波正太郎先生である。門下生の佐藤隆介氏によれば、「池波先生と随分一緒に旅をし、いろいろな店で食事を共にしたが、ただの一ぺんも酒なしで飯を食ったことはない。それもそこに『酒』がある限りは『酒』だった」と述懐している。それも池波先生は日本酒の燗酒一筋で、ステーキハウスでも中華料理屋に行っても「酒」。

また鮨屋、てんぷら屋でも当然「酒」なのだが、「量」にうるさかったそうだ。「鮨屋は鮨を食うところ」「てんぷら屋はてんぷらを食うところ」という主義で、「こういう所でグズグズ酒を飲んでちゃいけない」が口癖だった。さっさと鮨を食べ、出されるそばからてんぷらにかじりつき、然る後に飲むべき場所に移ってゆっくり飲め。と佐藤氏は言われたと書いている。しかし蕎麦屋だけは別で、最初から一杯やるつもりで入る。「酒を飲まないぐらいなら蕎麦屋なんぞに入るな」と言っていた。焼き海苔か焼き味噌でたいてい二本。それから「せいろ」または「盛り」で海苔のかかった「ざる」は決して食べなかったそうだ。(「『酒』と作家たち」浦西和彦編・中公文庫)

私なんぞ、絶対に池上先生のそばにはいられない。鮨屋でもてんぷら屋へ行っても、もちろん蕎麦屋へ入っても、グズグズ飲む。何と言っても、私の人生訓は「斗酒なお辞せず」であるから、鮨屋に行っても、鮨をひとつもつままずに帰ってくることしばしばである。失礼の極みとは思っているが、それでも嫌な顔をしない店を選んでいる。

下の子供が夏休みで毎日家にいる。小さい頃ならば、一緒にプールや海にでも連れて行くのだが、十七歳という歳頃は難しい。一緒に遊びに行く歳でもないし、酒の相手にはまだ早い。仕方がないので、夕方に松原商店街へ「荷物持ち」で連れて行った。文句も言わずについてくるから、まだましか。

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端的に行って一浴、一杯だよ。

2015-07-30 17:50:39 | 日記
七月二十七日(月)晴れ。

連日の三十度越えか。たまらんな老体には。子供の頃と違って、この暑さは嬉しくもなんともない。夏を快適に過ごすためにクーラーが出来て、日本人のほとんどがその快適を享受している。しかし皮肉なことに、そのクーラーの室外機のお蔭で環境に影響を与え、温暖化の一翼を担っているというのだから困ったものだ。

寝る時は、扇風機にタイマーをかけるのだが、扇風機が止まると暑くて目が覚めてしまう。クーラーにしようかとも思うが、まあ出来るだけ扇風機で我慢しようと思っている。

放浪の俳人、山頭火は、木賃宿という安宿に泊まりながら旅を続けたのだが、どんなことを宿に求めたのか。先日、古書店で購入した『山頭火の宿ーそして酒と水と』(大山澄太著・彌生書房)の中にこうあった。

「端的に行って一浴、一杯だよ。もし一人一室にしてくれ、日記を書くための一机、一燈があれば、最もよき宿だよ」と山頭火が大山氏の家に泊まった際に言ったそうだ。しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ。とは山頭火の句。

暑くて寝られぬなどと文句は言えないか。

夜は、月に一度の町内のお友達との飲み会を「たつ屋」というラーメン屋さんで行った。思想信条など一切関係なく、近所の仲良しさんたちとの酒は楽しい。二時間ほどで帰宅。※写真は、秋山巌の山頭火の句と絵。

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機関誌の発送を終えた。

2015-07-30 13:44:24 | 日記
七月二十六日(日)晴れ。

横浜は三十度を超す猛暑である。まだ朝の八時だと言うのに外はカンカン照りで、沖縄かと思うくらいの暑さ。今日は、大行社の関係のBBQが城ケ島で行われるのだが、医者から炎天下にあまりいては良くないと言われたばかりなので、申し訳ないが欠席した。

朝食後は、事務所へ行き機関誌の作成。一時過ぎにすべて完成。後は発送をするばかりだ。
今月号は、女性民族派の闘士、中村みどりさんの「タイ王国訪問記」が圧巻だ。これを読んでタイに旅行をしたら、色々な意味で勉強になり、楽しいかもしれない。

夕方に、下の子供を連れて買い物に出かけた。といっても晩酌の肴を求めて「酒場放浪記」ならぬ「肴放浪記」だ。機関誌の発送が一段落したので、お疲れさんの一献。

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