白雲去来

蜷川正大の日々是口実

忘年会で東京へ。

2017-11-28 12:41:26 | 日記
十一月二十六日(日)晴れ。

子供たちは、それぞれバイトや友人との食事会に朝早くから出かけて行った。のんびりと起きたが、昨夜、愚妻もしたたか飲んだので、ご飯の支度をしていない。久しぶりに、自宅の近くにある「ほっともっと」というお弁当屋で「特のり弁当」を買った。一つ四百五十円が高いか安いのか、ビミョーな値段である。

夕方まで事務所にて仕事。夜は、大行社の世田谷支部の忘年会があって東京行き。東横線で自由丘まで行き、そこから大井町線に乗り換えて二子玉川へ。高校生の頃に、環八沿いにあったドライブインでアルバイトをしていた。上野毛で降りて歩いてゆくのだが、途中多摩美術大学などあって、大学生活など知らない当時の私には、何か華やいで見えた。バイトの帰りに自由が丘で、ちょっと背伸びをして、「ファイブスポット」というジャズ喫茶に入ったり、古書店を巡ったりした。「林芙美子全集」を買ったのは、その頃だ。

二子玉川の駅に降りると、イルミネーションがとてもきれいで、一足早いクリスマスを演出していた。玉川高島屋の前に、「菩提樹」というすてきなレストランがあったが、まだ営業しているのだろうか。

六時に、忘年会が開始。連日の酒で、体調が悪く、今日は、休肝日としてウーロン茶でお付き合い。帰りは、大日本一誠会の仲程会長や菊水国防連合の大塚総裁らに送って頂き帰宅。

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憂国忌か。

2017-11-28 12:22:30 | 日記
十一月二十五日(土)晴れ。憂国忌

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の「秋の句」に、「三島由紀夫、森田必勝自決、一句」として「茫然と轟然と 秋の夕日墜つ」がある。今日は、両烈士のご命日、日本学生同盟(日学同)の関係者の人たちが、この日を「憂国忌」として毎年、追悼祭を開催している。「憂国忌」は、今や歳時記にも記載されるようになった。「憂国忌 風が鞭振る天に地に」も野村先生の句である。

野村先生の「群青忌」も、いずれ歳時記に記載されるように、私たち門下生が努力しなければ。

盟友が、心臓の病で入院し、来週大がかりな手術をするとのことで、お世話になっている方に迎えに来て頂き、調布にある病院へ見舞いに行った。この歳になれば、体のどこかに変調をきたすものだが、心臓とは厄介である。見舞いに行っても、安易に「頑張って」とぱ言えない。平静を装っていたが、手術を前にした友を励まさぬわけには行かない。手術の成功を祈って病院を後にした。

夜は、松本佳展君のお世話で、社友の中山和哉さんのお店「なかやま」にて一献会。中山さんの料理は、いつ行っても一流である。そして安い。早い話が、「教えたくない店」なのだ。いずれ、貸切での飲み会を考えている。ヘロヘロになって帰宅。

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野分の祭りか。

2017-11-28 11:51:56 | 日記
十一月二十四日(金)晴れ。

昭和四十五年の十一月二十五日に、憲法の改正などを訴えて、自衛隊の東部方面総監室にて、三島由紀夫と共に壮烈な自決を遂げた、森田必勝烈士の自決に至る前日の思いを共有しようと言うことで、烈士の辞世、「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは 」から「野分祭」を先輩諸兄が東京で斎行していた。私も、ほとんど参加していたが、最近は、様々なことがあって、欠席している。

何回目かの「野分祭」かは忘れたが、亡くなられた天草は本渡諏訪神社の大野康孝氏が宮司となって、斎行したことがあった。その時は、最初から最後まで正座と言うことになり、足がしびれて泣きそうになった。その時の司会が犬塚博英氏だった。参加者のほとんどが、足がしびれて泣きそうになっている時に、「森田烈士が腹を切って死んだことを考えたら、足の痺れぐらいなんだ」と言われ、もし玉串の奉奠を指名されたらどうしようと、身を小さくしていたことを覚えている。

いわゆる「三島事件」は私が、民族派運動に入るきっかけとなった出来事で、その翌年から活動に参加した。言い換えれば、三島・森田両烈士の自決事件は、そのまま私の運動の歴史でもあり感慨深い。

夜は、水曜日に続き、「浜一」にて友人らとの一献会。「三岳」の四合瓶を三人で二本空けてしまった。男の酒の嬉しさは、たちまち通う意気と熱か。久しぶりの大破・轟沈。

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宴会のダブルへツター。

2017-11-28 11:42:07 | 日記
十一月二十三日(木)新嘗祭。

新嘗祭は宮中祭祀のひとつ。収穫祭にあたるもので、天皇陛下が五穀の新穀を天神地祇に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。また、天皇陛下が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭という。皇孫弥栄。

昼に、サリーズバーの忘年会があり、愚妻と共に出席。ほとんどが、知っている人達ばかりなので、楽しかった。終了後に、「磯丸水産」にて時間を潰す。六時より、蒲田で、大行社の護皇連合主催の「新嘗祭感謝の集い」があり、松本佳展君と蒲田駅で待ち合わせて出席。さすがに忘年会のダブルヘッダーはキツイ。終了後は、直帰し早めに寝た。

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何が「いい夫婦の日」だよ。

2017-11-28 11:15:04 | 日記
十一月二十二日(水)曇り。

巷では、今日は、日にちの語呂合わせで、「いい夫婦の日」らしい。良く、車のナンバーに「1122」を見かけるが、失礼ながら、「小市民よ、ささやかな幸せの中に埋もれていなさい」と、鼻で笑ってしまう。何をもって、「いい夫婦」なのか分からんが、実篤ではないが「仲良きことは、良きこと哉」か。我が家は、そんなことよりも、今日は上の子供の誕生日である。誕生日のプレゼントは、パソコンに接続する、何とか言う部品。六千円也。関内や銀座のネェちゃんに、私の子供の謙虚さを見習わせたいものだ。

夜は、お友達と、近所の「浜一」という寿司屋で一杯。このお店のオヤジは、私の中学の三級先輩で、妹さんとは三年間同じクラスだった。と言っても、卒業以来あったことがないので、隣り合わせになってもお互いに気付かないに違いあるまい。私は、昭和三十八年に、横浜の南区にある横浜市立共進中学校に入学した。小学生の時は、Tという担任になぜか目の敵にされ、ビンタ、足蹴りなんか、しょっちゅうだった。ゆえに勉強がますます嫌いになり、アホ、イコール私という方程式が出来上がった。

中学に入ってから、陸上競技を始めたことにより、大げさではなく人生が変わった。担任の坂田と言う女の先生から、学校の新聞に「新入生を代表して」とかいう題で作文を書くように言われた。信じられなかったが、人から注目された、初めての出来事だった。陸上の方も頑張って、一応学校では一番となり、「努力すれば報われる」と言うことを実感した。最も、努力しても、かなわないこともある。と言うことも後に、陸上競技で知らされた。よおーし、数少ないカラオケのレパートリーから、「高校三年生」でも歌うか。

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