白雲去来

蜷川正大の日々是口実

何時まで「戦後」なのか。

2022-07-26 14:38:04 | 日記

7月19日(火)曇り。

朝食は、昨日「オアジ」のマスターから頂いた「カツオ」を「ヅケ」にして食べた。普段カツオを食べない愚妻も「美味しい」を繰り返していた。夜も、ニンニクのスライスを沢山作って、カツオの刺身。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

あとひと月もすれば痛恨の終戦の日がやって来る。77年目か。今や日本の人口のほとんどが戦後生まれ。戦争を経験している人、軍隊経験のある人など稀になった。昭和に行われた先の大戦「大東亜戦争」を戦った人の多くは、実は大正生まれの人達だ。大正生まれの男子の総数1348万人のうち200万人以上が戦死したという。実に大正生まれの男子の7人に一人が戦死したのだ。「戦後」という言葉がある。後23年もすれば、終戦から百年となる。百年が過ぎても「戦後」なのか。

私が小学生の低学年の頃は、まだ横浜にも戦争の惨禍がそこそこに残っていた。空襲で焼けたままのビル、防空壕、神社の前でアコーディオンなどを弾き寄付を募る傷痍軍人。本当に「戦後」を実感していた。半藤一利氏がまとめた『十二月八日と八月十五日』(文春文庫)という本がある。いわゆる開戦と終戦の日を著名人の日記や後日談をまとめたものだが、とても興味深い。特に開戦の日の著名人の「帝国遂に起つ」への思いと感激は一読に値する。来月の終戦の日は、静かに過ごすつもりでいる。


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メロンの気持ち。

2022-07-26 14:28:15 | 日記

7月18日(月)雨。海の日。

お中元でメロンを頂いた。メロンは私の子供の頃は、庶民には到底食べることのできない超高級品だった。メロンの代わりに良く食べていたのが、黄色い「まくわ瓜」。最近はほとんど見かけないが、今でも作っているのだろうか。冷蔵庫もまだ庶民の物ではなく、氷も貴重品で、スイカやトマト、キュウリにまくわ瓜などを冷やすのが水をいれたタライだった。学校から帰って来ると、共用の庭に、トマトやキュウリが冷やしてあるのだが、まくわ瓜が冷えていると嬉しかった。

メロンもさほど高級品ではなくったが、メロンを食べる時に必ず頭に浮かぶシーンがある。「男はつらいよ」の第何作目かは忘れたが、リリーが「とらや」に来ていて、頂き物のメロンを食べる場面だ。さあ皆で食べようとすると、そこに寅さんが帰ってくる。「俺のがないじゃないか」ともめる。この映画を見て以来、メロンを切る時に、必ず家族に声を掛けるようにしている。寅さんの映画を思い出しながら。

夜は、久しぶりに愚妻と西横浜のイタリアン「オアジ」へ。美味しい料理に、お馴染みさんとの話が弾む。


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バリの空の下セーヌは流れる。

2022-07-26 13:26:03 | 日記

7月17日(日)晴れ。

シャンソンなど聞く柄でもないが、ジュリエット・グレコとエデイット・ピアフのCDを2枚だけ持っている。好きな歌は、俗っぽいが「パリの空の下セーヌは流れる」である。その歌を好きになったきっかけは、野村先生が亡くなられる一年前の9月に、ローマからシチリア島を巡る旅の最後に、私がわがままを言ってパリに寄った。わずか一日半の旅だったが、あこがれていたパリに居る、ということだけで、随分と感動したものだった。パリの市内の観光は今思い返しても心に染みるものだった。

街を歩けば、過去に見た様々な映画のシーンがよみがえってきた。『ポンヌフの恋人』という映画の舞台となったポンヌフ橋や『真昼の情事』の舞台となった『オテル・リッツ』に泊まったこと。セーヌ下り、ベルサイユ宮殿、エッフェル塔、先日惜しまれつつ閉店したキャバレー「リド」、街のオルガン引き、火事で焼失してしまったノートルダム寺院。キャバレー「リド」に行った帰りに、シャンゼリゼを歩いていたらアコーディオンとクラリネットの「流し」を見つけて「パリの空の下」を演奏してもらったこと。ライトアップされた凱旋門が美しかった。恐らく生きているうちには二度と訪れることのないパリ。正に「美は一度限り」。

何でそんなことを思い出したのかと言えば、『歳時記』読んでいたら、去る14日はいわゆる「フランス革命記念日」。通称「巴里祭」であることを知った。1789年の7月14日、政治犯が入れられていたバスチーユ監獄をパリの民衆が襲い、当時の国王ルイ16世の治世に反対していた民衆が決起した。この名称は、映画「7月14日祭」を日本で上映するときに「巴里祭」と訳したことから、この言葉が一般的になったとのこと。※ポンヌフの橋にて。平成4年(1992)9月15日。私は41歳だった。

 


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再度のコロナ禍、しかし中華街は人で溢れていた。

2022-07-23 18:58:52 | 日記

7月16日(土)雨。

中華街でお世話になっている方たちと待ち合わせた。運動不足なので関内駅から小雨の中を歩いて中華街へ行こうと思った矢先に土砂降りの雨。仕方がないのでタクシーを拾った。加賀町警察の前で降りたが雨にもかかわらず、中華街は人でにぎわっていた。五時に待ち合わせのお店に行くが、支配人曰く「今日は全館満室です」。7階まであるお店が全室一杯とは。コロナの罹患者が記録的な数字になっているのにもかかわらず、かつての「怯え」は何処へ行ってしまったのだろうか。そういう私も、一応ワクチンを3回接種しているので、以前よりも警戒感が薄れているのは確かだ。

土日の中華街は好きではない。人が多いし当然店も混んでいる。何となく料理も雑になっているような気がする。食後に、みなとみらいのホテルのバーに転戦。雲が切れて夜景がきれいだった。

予報では、来週から天気の良い日が多くなり、猛暑の日々が続くという。最近は、暑いからと言って海に行こうと言う気力がなくなった。写真は、20年ほども前に盟友の斎藤義一さんのお世話で、まだ小さかった子供たちを連れて、千葉の海に出かけた時のもの。私の好きな写真で、これを見るとと寺山修二の「海を知らぬ少女の前に 麦藁帽のわれは 両手を広げていたり」の歌が浮かぶ。真夏の海は、もう私の中では思い出としてだけ存在している。

 


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「原敬首相刺殺事件」がふと頭に浮かんだ。

2022-07-23 18:23:58 | 日記

7月15日(金)雨。

梅雨明け宣言が出てから、皮肉にも天気の悪い日が多い。雨が降って少し涼しくなれば良いのだが、蒸し暑くてたまらん。安倍元総理の銃撃事件、撃った犯人よりも、統一教会にスポットが当たって、実行犯の人間像や執念と言ったものがなぜか隠蔽されているような感じがする。こういった事件が起きると実行犯の真の動機と言うものが隠蔽されて、生活苦、家庭環境、果てはだらしない人間、偏屈とか「こんな人間だから事件を起こした」という方向に持って行こうとする。だれも責任を取りたくないからだ。

確かに、安倍元総理の銃撃には「なぜ」という疑問が消えないし、安倍さんを支持するしないと言うことを抜きにして安倍さんの死を残念に思うし、気の毒と思う。しかし、その執念、手製の銃を作ってまでも総理経験者であり、自民党の重鎮を警備の隙をついて狙撃する。中々出来ることではないし、その覚悟は、ある意味では大したものだとも思う。「テロも民主主義の表現方法の一つ」と言うようなことをこ言ったのは、確か三島由紀夫ではなかったか。ブログでは不特定多数の方が読んでいるので詳しいことは書かないが、機関誌『燃えよ祖国』の来月号に、私の友人の宗教の専門家、気鋭の思想家、民族派運動の専門家の方にこの事件に関して原稿を依頼している。

なぜか、1921(大正10年)、当時の首相・原敬の政策に反感を抱き、同年11月4日夜、東京駅乗車口(現在の丸の内南口)において立憲政友会京都支部大会へ赴くため改札口に向かっていた原首相を短刀で刺殺したいわゆる「原敬首相刺殺事件」がふと頭に浮かんだ。


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