白雲去来

蜷川正大の日々是口実

大山鳴動して鼠一匹か。

2014-03-29 15:55:17 | インポート

三月二十七日(木)雨。

朝から雨か。ふと頭に浮かぶのは李白の「煙火三月揚州に下る」という詩の一節。といっても友人がどこかへ旅立つわけではない。子供たちは春休みで家にいる。まあ思春期となっているが抵抗なく私のそばにいてくれる。良しとするか。

猪瀬直樹元知事が公職選挙法違反で五十万円の罰金。正に大山鳴動して鼠一匹か。猪瀬氏が単に小遣いを欲しさで五千万を貰ったのか、それとも選挙資金に窮していたのか分らないが、たたが、といっては語弊があるが、位人臣を極めた人が、その程度の金で人生を棒に振ってしまったことに後悔しているのは、本人であることは間違いないだろう。我々のような庶民とは違うのだから。しかし考えてみれば、人を紹介しただけでポンと五千万円を投げてくれる仲介ができるのだから、一水会の木村会長もある意味では大したものだ。まあどうでもいいか。

明日から一年ぶりに「断食」に行く。いつもなら一週間なのだが、最近は、その宿が人気で七日間コースが半年先まで一杯。仕方がなく三泊四日となった。いつも私の体を心配してくれて誘っていただく友人氏に感謝しなければ。

夜は、「酒場放浪記」ならぬ「カツオ放浪記」で、魚屋を三軒覘いた結果、ようやく、五すか六っぽう程度の物をゲットした。いそいそと帰って酒の支度。ふふふとほくそ笑んで、わが酔狂亭で月下独酌。<o:p></o:p>

 

 


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若き戦場カメラマンに乾杯。

2014-03-27 22:15:32 | インポート

三月二十六日(水)曇り。

毎月、今日はつらい日となっている。なぜか。明日の様々な支払いのために東奔西走、と言えばオーバーだが、とりあえずは銀行にそれなりのお金を入金しなければ、砂上の楼閣である弊社と我が家は、三秒で瓦解してしまう。ヒーコラ言いながらようやく昼過ぎに終了。

今日は、社友で映画プロデューサーの都築真吾君と二十二歳の報道カメラマンの吉田尚弘君が来訪しての一献会を定宿の「やまと」にて行った。吉田君はシリア帰りの戦場体験もしている。若くして海外への雄飛を目指したのは、沢木耕太郎さんの「深夜特急」がきっかけだったとか。私もその本は好きで三回ほど読んだ。しかし、沢木さんのその本のファンという人の多くが、沢木さんの他の本を読んでいないことに、少々寂しい気がしてならない。

元々沢木さんはノンフィクションの旗手で、味のある作品が多い。私の友人であるボクサーのカシアス内藤氏のドキュメント「一瞬の夏」は私の好きな作品である。アリスの「チャンピョン」は内藤氏のことを歌ったものだ。そういう事を知らない沢木ファンがいることはチョット残念かな。

カシアス内藤氏がボクシングジムをオープンする際には私や沢木氏が発起人となってパーティーをしたことがあった。場所は横浜のヨットハーバーにある会員制のクラブだった。内藤氏も息子さんが活躍しているので頑張り甲斐があるに違いあるまい。

吉田尚弘君のことは、PCで調べてみてください。ポリシーを持った若き戦場カメラマンです。しかし残念ながら都築、吉田の両君は下戸である。私は初対面の人と会うときに酒がないとどうも照れくさい。間が持てないので友人のカメちゃんを呼び出して相手をしてもらった。

都築、吉田の両君のご健闘を祈念して別れた。その後は、カメちゃんの奥さんが合流して「やまと」の隣のジンギスカンの店に転戦してから帰宅。今日の厳しい支払いは、二軒の店をハシゴするにふさわしい努力でもあると自身に納得。


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良い企画だと思うのだが。

2014-03-26 10:38:53 | インポート

三月二十五日(火)晴れ。

いつから花粉症などになったのか、この時期はつらい。思い切って「ダイキン」の空気清浄機を買ったが、わが陋屋は隙間だらけなのか、まあないよりはまし、という程度だ。それでも三時間ほど動かしていると、くしゃみや目の痒さといったものがなくなるから値段だけのものはあるのだろう。もう一台買って、廊下にも置くか検討中である。

先日も、西村修平さんから教えて頂いたのだがコンポの音響も密封性の良いマンションなどの方が音の反響が良いとのこと。空気清浄機もおそらくマンションの方が効きが良いのに違いあるまい。それでもそれだけのために、住み慣れた家を引っ越すわけにはいかない。しばらくは耐え難きに耐えて行くしかないか。

三月の二十日の産経新聞に警視庁の職員が選んだ「警視庁100大事件」のランキングというものが掲載されていた。一位は「オウム真理教事件」で、「5・15事件」や「2・26事件」、「血盟団事件」といった戦前の昭和維新運動などもランクされていたが、戦後では山口二矢烈士による「浅沼社会党委員長室刺殺事件」や「三島事件」に加えて、野村先生らが惹起した「経団連事件」が91位に、そして愛国党の筆保氏の起こした「三木首相殴打事件」が92位に入っていた。

私が連載をさせて頂いている「実話ドキュメント」で、「警視庁100大事件ーを解説する」というムックを作ったならば面白いのではないかと思った次第。篠田さんどうですか。もちろん「右翼関係」の解説は私が安いギャラで担当します。考えてみてね。(釣りに忙しい篠田編集長がこのブログを読んでいるとは限らないか)。左翼関係の解説は、元連合赤軍の植垣康博さんにお願いしたら良い。ちなみに植垣さんたちが関係した「あさま山荘事件」は第三位にランクされている。分野別に解説者を変えてみるとかなり面白いものになるのではないか。現存している各事件の関係者の証言なども入れて。

Photo_3※これです。どこかの出版社でやらないかなぁー。

夜は、久しぶりに愛国党の舟川孝さんから電話があった。機関誌を送ったお礼の電話だが、「ありがとうございます。『大悲ジャーナル』と『酔』を」。ギャグなのか本音なのか分からん。とりあえず来月の一献会を約した。


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不肖・宮嶋氏の髪が黒かった頃。

2014-03-26 09:53:49 | インポート

三月二十四日(月)晴れ。

『週刊文春』の最新号(3月27日・55周年記念号)の後半グラビアに「不肖・宮嶋」こと宮嶋茂樹さんの「紛争、災害、事件、大悪党ー不肖・宮嶋、撮りまくって四半世紀」という特集がある。「戦場カメラマン」と言えば、最近テレビのバラエティー番組に良く出ているのんびりしゃべる御仁が有名だが、玄人筋には宮嶋氏の方が名が通っている。

その宮嶋氏が初めて写真集を出したのは何と愛国党の総裁だった赤尾敏先生のものだった。タイトルは「人間・赤尾敏ー愛国の貌」である。(オークションで2万円もしている)現在は、自衛隊に関するものやさまざまな写真集を出している宮嶋氏だが、最初のものが赤尾先生とは、さすがに目の付け所が右寄りでいい。ちなみに宮嶋氏は野村先生の写真集も出している。

013※弊社発行。定価5千円。残部僅です。

宮嶋さんを野村先生に紹介したのは元フライデーの記者の新藤厚氏。そ写真集の撮影のために宮嶋さんは、野村先生とイタリア、モロッコ、フィリピン、冬の小樽へと撮影旅行へ行った。そのうち私がお供したのは、フィリピンとモロッコである。そのご縁で野村先生の追悼集会には毎回出席してくれている。昨年の「群青忌」の追悼文集にも原稿を寄せて頂いた。

『週刊文春』のグラビアの中で、不肖氏は「四半世紀(注・宮嶋氏が編集部に出入りを始めてから)ワシの髪も白くなった」と書いているが、宮嶋氏の髪や私の髪も黒々としていた時代に、野村先生と共にフィリピンやモロッコを旅したことは、良い思い出となっている。

923※平成4年3月、マニラはコレヒドール島にて。左から、新藤厚氏、四宮正貴氏、野村先生、蜷川、宮嶋氏、古谷喜久男氏。

Photo※平成5年8月、モロッコはラバトにて。お互いに髪の毛が黒い。そして多い。シェーン髪バック。

Photo_2※マラケシュの迷路にて不肖・宮嶋氏。

夜は、そんなことを思い出しながら酔狂亭にて月下独酌。


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機関誌の変遷。

2014-03-25 10:39:55 | インポート

三月二十三日(日)晴れ。

機関誌の最新号が完成した。通巻201号である。原則として一年で10冊として20年か。良く続いたと思う。発行所も横浜の下町の「睦町」から磯子区の「丸山」、そして港区赤坂、横浜に戻って来てから「伊勢佐木町」、さらに都落ちして「六つ川」へ。友人のご厚意で現在の事務所、「平楽」で発行している。これも高い購読料を支払って頂いている読者や社友のお蔭と感謝しています。

機関誌の創刊は昭和61年だが、すぐに休刊を余儀なくされ、再刊を果たしたのは平成三年のこと。当時は私が野村先生の後をついで大悲会の会長職にあったために機関誌の名前は「大悲ジャーナル」だった。

1※創刊号は獄中者ばかりだった。原稿を頂いた三浦さん、永田さん、澤地さんのお三方は亡くなられてしまった。

平成四年の第8号から32号までは手作りで、単に義務として発行していただけで、内容にも見るべきものがない。この当時は、機関誌発行ということにそれほど力を入れていたわけではなく、編集作業の知識にも乏しかった。当時の編集は、まだパソコンがそれほど普及していなくてワープロで原稿を書いていた。

48※ ワープロで原稿を打って、編集しコピー機で両面コピーしていた。発行部数もわずか150部程度だったと思う。

その後、意を決して本格的に機関誌を発行する決意をして第58号、59号は久しぶりに印刷所に依頼して「経団連事件特集号」を発行した。66号まではB5版の大きさだったが、モノクロのレザープリンターを導入し、経費の都合から現在のA5版サイズとした。経費の問題というのは送料に関してである。この当時は、宅配業者のメール便がなく、すべて郵便局で発送していた。郵便では、大きさや微妙な重さで料金が違ってくる。従って、120円で収まる大きさと重さを計ってから頁数を決めるということをしていた。A5版28頁で封筒を入れるとギリギリ120円で収まった。細かい話かもしれないが、120円で500部を送ると送料だけで6万円。140円だと7万円。ほとんどが贈呈の雑誌を印刷の経費以外に毎月、6万円も7万円も送料を負担するということは、当時はかなり大変なことだった。

67※A5版となった機関誌。当時は沢田陽介(堀雅昭)さんにほとんど書いて頂いていた。

平成11年の第85号からは、支援者の方に大型のカラーレザープリンターをご寄付頂き、表紙がカラーとなった。しかし、当時のパソコンの編集ソフトは「マック」が主流で、パソコンからプリンターへデーターを送信するためには、マックの外付けのソフトを取り付けなければならず、それが30万円もしたことを覚えている。

85※カラー第一号。写真は、フィリピンはマタブンカイ・ビーチホテルでのもの。撮影は「不肖・宮嶋」こと宮嶋茂樹氏である。「週刊文春」の最新号に宮嶋茂樹氏のグラビア特集が掲載されています。

107 

機関誌名を「大悲ジャーナル」から現在の「燃えよ祖国」と変えたのは平成13年の第107号からである。そして現在に至る。しかし頁数を増やせないのは、中綴じの機械が52頁を超えるとホチキスが届かなくなるのである。いずれは、丁合(頁揃え)、中綴じ、中折り、余白切り、までを一度に出来る機械を導入したいと思っているが、まあ予算の関係でいつになることやら。そして今月で201号。今後も鋭意努力しまして良いものを作りたいと思っております。ご支援のほどを伏してお願いいたします。

201※最新号と別冊。年間購読料が一万五千円と安くありませんが、よろしくお願いいたします。

夜は、一杯やっている時に、京子ちゃんとアイリちゃん親子が来訪して私の誕生日のお祝いにと「赤霧島」を持ってきてくれた。ハレの日に開けるとするか。

 

 

 

 

 

 


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