四月二十三日(火)曇り。
上の子供が体調が悪くて学校を休んだ。昼近くになって「お粥」を作ってあげたら何とか全部食べてくれたので、一日寝ていれば大丈夫だろう。
上の子供がまだ小さい頃、熱が出てもおでこにタオルや「ヒエピタ」を貼るのをとても嫌がった。仕方がないので、洗面器に水を入れて自分の手を冷やして、おでこをさわってあげると、安心して眠った。それこそ熱が下がるまで、眠らずにそうやって看病したのがつい最近の事のように思い出す。
夜も大事をとってお粥にした。すると子供が、「お粥」と「おじや」はどう違うのかと聞いてきたので、「お粥」は、本来はお米から作り、「おじや」は、鍋物の後に作るものと教えてあげた。夜になって大分元気になって来たので一安心。もう何十年も浪人暮らしなので、家事全般は私の担当となっている。何処にも出かけずに自宅にいることが苦にならない。
週刊朝日の最新号(5・3/10合併号)に「没後30年・寺山修司を語り尽くす」という特集が掲載されていて興味深い。実は、寺山と野村先生は同い年である。野村先生が亡くなられる十年前に寺山は死んだ。若い人のために寺山の簡単なプロフィールを掲載すると、『寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。「下町の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と返すのが常だった。』(ウィキペディア)より。
私は、演劇にまったく興味がなかったので、彼の主催する「天井桟敷」の公演も観に行ったこともなく、様々な媒体で活躍するマルチな人、程度の認識しかなかった。私が十八歳の時に、彼の劇団にいたカルメン・マキの歌った「時には母のない子のように」がヒットした。伊勢佐木町のはずれにあった美音堂というレコード店で彼女のLPを買った。ジャケットのデザインがとても良かったのを覚えている。歌詞カードを見た時に、その歌の作詞者が寺山であるということを知り、色々な才能のある人、という認識を持ったのが彼を意識した最初だと思う。
週刊朝日には、グラビアと共に「寺山修司を囲む8人の『とっておきの話』」が掲載されている。その中で映画監督の篠田正浩氏が、寺山の「マッチ擦るつかぬま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の歌について書いていた。篠田氏が終戦を迎えたのは十四歳の時。敗戦で焦土となった光景の中で出会ったのが、寺山の歌であったと。
その寺山の歌は、「祖国喪失」と題された一連の中に収められている。野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」、「天の怒りか、地の声か」の中で、『私は寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という詩と十数年にわたって心の中で対峠し続けてきた。そして今「ある !」と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と一言った。私は「ある」と言う。それ故に、細川護煕の発言を断じて許せないのである。これは、私一人の思いではないと思う。ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう。
さだめなき世なりと知るも草莽の
一筋の道かはることなし 」
と書いた。今年は、野村先生の没後二十年。我々門下生は追悼集会「群青忌」を予定している。寺山修司は没後三十年。お二人は、現在の「祖国」を天上からどのように眺めているのだろうか。
※週刊朝日のグラビアより。カッコイイな。