白雲去来

蜷川正大の日々是口実

新婚さんいらっしゃい。

2013-04-29 18:00:06 | インポート

四月二十七日(土)晴れ。

 今日は、弊社の社友であるライト隊長が先ごろ華燭の典を挙げられ、そのお祝いにと近しい友人が集まって中華街の「菜香」にてささやかながら宴席を設けた。「均元楼」とも思ったが、ライト氏が忘年会などで度々来ているので、初めての店、ということで「菜香」となった。

 ちなみに「ライト隊長」とは、「右」という意味ではなく、懐中電灯オタクであることから灯の意味である「ライト」と呼んでいるのである。ちなみに命名者はカナブンこと松本佳展君である。彼のあだ名がなぜ「カナブン」なのか・・・。それは以前我が家に来た時に、背中になぜかカナブンがついていたので、うちの娘がそう呼んだのである。もっともそのあだ名は我が家でしか通用しない。

 六時半に、「菜香」に集合。メンバーは、ライト隊長ご夫妻に、松本佳展君に小枝さん。カメ&アコちゃん。ブッチー誉とひでちゃん。そして私と愚妻の十名である。先週は、昼間からアメ横の新東洋で紹興酒を七本も飲んで壊れかかったので、今回は紹興酒を少し控えめにして、麦焼酎にした。ライト隊長は模型作りの名人で、先日も私に「オスプレイ」を作ってくれた。それは私のパソコンの前にあり、毎日飽きずに眺めている。

 二次会は、サリーの店へ。ここでも盛り上がる。丁度、大学のOB会で横浜に来ていた隠岐康氏から連絡があり、紅灯の巷に出撃との連絡が入り、セッティングしてから急襲。懐かしいダブルO氏や初対面の方たちにご挨拶して、人質二人を伴って再びサリーの店に戻る。

 仕上げは、夜中の十二時に開店するという会員制のラーメン屋さんに行く。ここはカメちゃんの親戚の人が経営しているお店。さすがに体力が持たずに三十分ほどで解散。

Photo_2※ほらね。会員制でしょ。


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幻のレコード「無題」。

2013-04-29 17:01:39 | インポート

四月二十六日(金)曇り。

 私の機関誌「燃えよ祖国」を現在編集中であるが、そこに「志士と壮士の唄」というものを書いている。現在は、「人を恋うる歌」で知られている与謝野鉄幹作詞の歌であるが、原題は「若き支那浪人の歌」。(※この「支那」という文字だが、決して別称ではないのに私が使用しているソニーのパソコン「VAIO」ではなぜか漢字が出てこない。単漢字でも地名、人名でさがしても出てこないのだ。これは絶対にソニーが中国に気を遣っているのに違いない)

 その元となった「若き支那浪人の歌」は、何と十六番まであり、詩も日本男児の志を語っておりとてもいい。また、カラオケが主流となった現在では、民族派の集会や酒席ではほとんど歌われなくなった歌がある。

蒙古放浪歌・馬賊の唄・無題・狼の唄・北帰行・一献歌といった歌である。そういった歌が収録されている幻のレコードが「アイ・ジョージ男の歌ー無題」である。アイ・ジョージと言うと「硝子のジョニー」や「赤いグラス」といった曲がヒットして「紅白歌合戦」にも度々出場したラテンの本格派の歌手である。その彼が、「青年日本の歌」や「蒙古放浪歌」、「馬賊の唄」、「無題」、「男一途」、「花の健男児」、「人を恋うる歌」などが収録された二枚組のLP「無題」である。

そのレコードは、随分前に私の盟友の国士舘大学のOBである折本満氏より頂いた物だ。「無題」は、そういった歌ばかりではなく、アイ・ジョージの得意なラテンや彼のヒット曲も入っているが、聴くのはもっぱら「男の歌」の方である。現在、我が家にはLPを聴くためのターンテーブルがないので、友人にCDにコピーして頂き聴いている。

「青年日本の歌」(昭和維新の歌)は様々な歌手によって歌われているが、私は、アイ・ジョージの歌うものが出色だと思っている。また編曲もいい。過去も現在も、彼の歌に優るものを聴いたことがない。こういった名盤がCD化されないのは残念でならない。権利関係の難しいことは分からないが、何とかならないものかと思っている。

今日は、岐阜の花房東洋先輩のご子息が横浜に来ると言うので、関内駅で待ち合わせて一献。「写楽」から「サリーズバー」へ。ご子息の友人で野村先生のファンであるというS氏を紹介して頂いた。残念ながらS氏が仕事中ということで、ゆっくりと酒酌み交わすことが出来なかったが、次回はのんびりと飲みたいものだ。

Photo※「無題」のジャケット。日本コロムビア・二枚組、四千円(発売当時)


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私の中の昭和の思い出が一つ消えて行った。

2013-04-28 12:56:30 | インポート

四月二十五日(木)曇り。

 ニュースで歌手の田端義夫が亡くなったと報じていた。正直言って田端義夫の人と歌に世代的な共有感的なものはない。田端義夫という歌手を知ったのは、確か小学生の高学年の頃であった。母がテレビでいわゆる「懐メロ」特集が好きで良く見ていた。もちろん私は、そこに登場する母と同世代の歌手にも歌にも興味がなく、心の中で早く終わってほしいと思っていた。

 覚えているのは、直立不動で立ち、いかにも時代がかった丸いメガネをかけていた東海林太郎やギターをやや胸の高い位置に抱えてマドロス帽をかぶって「オッス」と言ってから歌いだす田端義夫、そしてハンカチを持って歌う松山恵子ぐらいか。

 中学、高校、そして二十代の半ばまでは洋楽一辺倒であったせいもあって、私の周りには懐メロ歌手を好むような友人は一人もいなかった。まあこれが普通であったに違いない。田端義夫の訃報で知ったのだが、田端義夫と私の母とは同い年である。共に大正八年の生まれであるから、母が生きていたら今年で九十四歳となる。

 横浜出身の偉大な歌手である美空ひばりも若い頃には全く興味がなかった。私の青春時代は、ビートルズに始まり、グループサウンズ、R&B、クリームやジミヘンといったニューロックの全盛期。バイトをしてお金が入るとそういったグループのLPを買って聞いていた。その趣味が変化したのは昭和四十五年(一九七〇)の三島事件がきっかけだった。

 十年ほど前のことだが、ある時テレビの「懐メロ」番組を見たら、私の青春時代に活躍した人たち、例えば舟木一夫、西郷輝彦、三田明と言った人たちがその番組に出演しているのを見て、本当に驚いた。もうそんな歳なのか・・・と。

 三年ほど前に、社友の松本佳展君が、古書店で買ったと言う「田端義夫大全集」(CD三枚組)を持って来てくれた。田端義夫の歌でないカバー曲も多く入っているが、三分の二は知らない歌だった。それでも「かへり船」や「島育ち」などは好きな歌だ。

 もう四十年も前の事。私が山下町にある深夜レストランで働いている頃に近くのナイトクラブ、確か「ナイトプラザ」と言う店の専属で一時期、田端義夫が出演していた。休憩時間に行く喫茶店で何度か一緒になったが、ほとんどの客が彼を気に留めることもなく、一人で静かにお茶を飲んでいる姿に、失礼ながら一抹の侘しさを感じたものだった。時代を共有した人たちには「ビッグスター」だったのかもしれないが、私の世代では完全に「過去の人」であった。横浜の最先端のナイトクラブと田端義夫と言う組み合わせが、何か不自然なものに感じたのを良く覚えている。田端義夫と聞くと、その山下町の喫茶店での姿が浮かぶ。

 最近は、歳のせいもあってか、いや私の青春時代に一世を風靡した歌手と歌が「懐メロ」として歌われる時代になって、やっと美空ひばりや田端義夫の歌が何の抵抗もなく聞けるようになった。今も、彼の歌を聴きながらこれを書いている。また一つ、私の中の昭和の思い出が消えて行った。

2

 


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冷奴の美味しい食べ方。

2013-04-25 10:18:51 | インポート

四月二十四日(水)雨。

 深夜に突然何か書きたくなって時計を見ると二時半。どうしようかとも思ったが、このノリを大切にしようと思って、そのまま起きてPCに向かった。さてと・・・。機関誌「燃えよ祖国」に掲載する原稿、「志士と壮士の歌」を仕上げてから「野村先生語録」の準備をした。五時半になって上の子供が起きてきたので、一緒に朝食。

 先日、アメ横に行った折に買って来たワカメ(二度目だがこれが美味しい。五百円で山ほどある)の味噌汁に納豆、赤魚のかす漬け。が朝のメニュー。十一時近くに事務所に行き郵便物の確認と様々な手紙を五通。

 まず、先日のふぐをご馳走になった初対面の方お二人、國學院大學を退職した大原康男先生が、以前書いた原稿をまとめた「お国のために」(転展社刊・非売品)をご恵送頂いたお礼状、購読料を振り込んで頂いた方へのお礼状、そして映画関係者に試写版を送って頂いたことへのお礼状の五通を書いた。文章は下手くそだし、字は金釘流だが、真心が伝わればと思って、なるべく電話やメールではなくて手紙でお礼をするように心がけている。

 五時から下の子供を連れて歯医者へ。長いこと付けていた下の歯の「矯正器具」が取れた。子供の歯や歯並びは親の責任。私がズボラして歯が悪いので、子供だけには小さい頃から、歯医者に連れて行った。ちょっとほっとした。

 夜は、魚屋に「柳かれい」の干物があったので買った。そして「冷奴」に、「わかめサラダ」に「筍のから揚げ」を肴に晩酌。筍はセブンイレブンで水煮を売っていたので買ってみた。定価は百円以下。それに醤油、酒、みりんに鷹の爪を入れたダシに三十分ほど漬けて置いてから小麦粉をまぶして、から揚げにしてみた。先日、松原商店街で茹でたての筍を買ってから揚げにして食べたことが忘れられずに再挑戦してみたのである。しかし、予想通りダメだった。まあ値段が値段だから仕方がない。期待する方が無理というもの。

 冷奴は、この時期には、ネギとミョウガをみじん切りにしたものをたっぷり載せて、ポン酢しょうゆで食べる。そう言えば、嵐山光三郎センセイの「素人包丁記」(講談社)に美味しい冷奴の食べ方が書いてあった。それによると、「豆腐を茹でてからすぐに冷やす」と良いそうだ。「まず鍋に張った水に塩を一つまみ入れ、豆腐がゆらりと動いたら氷水へ移し、しばらくさましてから冷蔵庫へ入れて一時間ほどで食べる。豆腐のアクがとれ、ほのかな塩味が染みわたり、純白の豆腐は味も色艶も柔らかさも一段と輝きをます」そうだ。

 うーん一度やってみるか。友人から頂いた焼酎「河童の誘い水」を飲んだ。何でも「モンドセレクション」最高金賞を二回、「国際優秀品質賞」を受賞したと言う宮崎のもの。飲んでみると、まあ美味しいのだが、パンチが足りない。上品すぎる、ガツンと来ないのだ。ラベルを見ると度数が二十度。それが原因か。やはり二十五度くらいのものが私にはちょうど良い。しかし「モンドセレクション」ってなんだ。

Photo_2※面白いですよ。


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野村秋介と寺山修司

2013-04-25 05:17:07 | インポート

四月二十三日(火)曇り。

 上の子供が体調が悪くて学校を休んだ。昼近くになって「お粥」を作ってあげたら何とか全部食べてくれたので、一日寝ていれば大丈夫だろう。

 上の子供がまだ小さい頃、熱が出てもおでこにタオルや「ヒエピタ」を貼るのをとても嫌がった。仕方がないので、洗面器に水を入れて自分の手を冷やして、おでこをさわってあげると、安心して眠った。それこそ熱が下がるまで、眠らずにそうやって看病したのがつい最近の事のように思い出す。

 夜も大事をとってお粥にした。すると子供が、「お粥」と「おじや」はどう違うのかと聞いてきたので、「お粥」は、本来はお米から作り、「おじや」は、鍋物の後に作るものと教えてあげた。夜になって大分元気になって来たので一安心。もう何十年も浪人暮らしなので、家事全般は私の担当となっている。何処にも出かけずに自宅にいることが苦にならない。

 週刊朝日の最新号(5・3/10合併号)に「没後30年・寺山修司を語り尽くす」という特集が掲載されていて興味深い。実は、寺山と野村先生は同い年である。野村先生が亡くなられる十年前に寺山は死んだ。若い人のために寺山の簡単なプロフィールを掲載すると、『寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。「下町の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と返すのが常だった。』(ウィキペディア)より。

 私は、演劇にまったく興味がなかったので、彼の主催する「天井桟敷」の公演も観に行ったこともなく、様々な媒体で活躍するマルチな人、程度の認識しかなかった。私が十八歳の時に、彼の劇団にいたカルメン・マキの歌った「時には母のない子のように」がヒットした。伊勢佐木町のはずれにあった美音堂というレコード店で彼女のLPを買った。ジャケットのデザインがとても良かったのを覚えている。歌詞カードを見た時に、その歌の作詞者が寺山であるということを知り、色々な才能のある人、という認識を持ったのが彼を意識した最初だと思う。

 週刊朝日には、グラビアと共に「寺山修司を囲む8人の『とっておきの話』」が掲載されている。その中で映画監督の篠田正浩氏が、寺山の「マッチ擦るつかぬま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の歌について書いていた。篠田氏が終戦を迎えたのは十四歳の時。敗戦で焦土となった光景の中で出会ったのが、寺山の歌であったと。

 その寺山の歌は、「祖国喪失」と題された一連の中に収められている。野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」、「天の怒りか、地の声か」の中で、『私は寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という詩と十数年にわたって心の中で対峠し続けてきた。そして今「ある !」と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と一言った。私は「ある」と言う。それ故に、細川護煕の発言を断じて許せないのである。これは、私一人の思いではないと思う。ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう。

 さだめなき世なりと知るも草莽の
   一筋の道かはることなし 」

と書いた。今年は、野村先生の没後二十年。我々門下生は追悼集会「群青忌」を予定している。寺山修司は没後三十年。お二人は、現在の「祖国」を天上からどのように眺めているのだろうか。

Photo※週刊朝日のグラビアより。カッコイイな。


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