白雲去来

蜷川正大の日々是口実

三つで五百円?

2015-01-31 18:45:57 | 日記
一月二十六日(月)晴れ。

ニュースは、相変わらず砂漠の盗賊どもに拉致された日本人のことでもちきり。理由はどうであれ、一日も早く無事に帰ってきてほしいものだ。子供が、歯が痛いと言うので待ち合わせて歯医者へ。みなとみらいのスーパーで夕食の買い物をして帰宅。

岐阜の花房東洋先輩から珍しくCDが届いた。何かと思ったら「花房東洋プロデュース・日本で一番流行しなかった歌大全」というタイトルで、私がほとんど知らない歌が六曲収録されていた。

「大阪オールナイト」「おきばりやす」「三つで五百円」「ぼろぼろです親父さん」「日本春歌考」「阿呆鳥の歌」の六曲である。知っているのは「三つで五百円」だけ。この歌は、花房先輩が横浜に来た折に「サリーズバー」で歌ってから、その後、サリーパパが流行らした。横浜でもサリーの店に来る客だけは知っている。笑える歌であり、カラオケにも入っているので、お店で歌えば受けること間違いありません。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二十五年ぶりくらいに「華勝楼」へ。

2015-01-28 16:16:08 | 日記
一月二十五日(日)晴れ。

今日は、カメ&アコちゃんのお二人にご招待を受けて、愚妻と共に中華街へ行った。日曜日の中華街は観光客であふれている。新しいお店が増えて、中には行列が出来ているお店もある。中華街が違った場所に見えてしまう。ご招待を受けて入ったのは老舗の「華勝楼」である。ここに最後に行ったのはいつのことか思い出せないほど昔に何度か行った。確か先輩の結婚披露宴もここ「華勝楼」ではなかったか。店員さんに聞けば、創業は昭和二十四年とのこと。隣の「萬珍楼」からの火事で多少類焼したが、久しぶりにお店に入れば、何か、若い頃にタイムスリップしたような感じがした。廊下は石と板張りでそれこそピカピカに磨かれている。その両脇には個室が。何か、映画で見た、その昔の中国の妓楼に入った感じがする。懐かしいなぁー。

カメちゃんのご推薦の料理と紹興酒を堪能した。隣の「均元楼」へ挨拶でもしようかと思ったが、あまりにも凄い人手にたじろぎあきらめた。そのまま腹ごなしにと野毛まで約二十分程度歩く。昼間なのに「福田フライ」がやっていたので、デザートに立ち飲み。帰ろうかと思ったら、近くにいた若い人から「ファンです」と挨拶され、照れ臭かった。もっと早く言ってくれたら一緒に飲んだものを。聞けば、私の中学の後輩とのこと。またお会いできますことを楽しみにしています。

ぶらぶら歩いていたら、「孤独のグルメ」に出てから有名になった台湾料理の「第一亭」の前に出た。お腹が一杯だったが、無視するのには忍びない。夕方だと言うのに珍しく先客は二組のみ。また紹興酒を一本飲んでからつまみを二三品。そのうちお店は、あっという間に満席となった。お店の名物の「パタン」と「チトー」に挑戦してみようかとも思ったが、次回のお楽しみにした。昼間から怒涛の酒会はここで終了。自宅に戻り、風呂に入ってからパタンキューと寝た。※写真は「第一亭」。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人が人質になったことに日本の責任なんてあるのか。

2015-01-28 15:50:23 | 日記
一月二十四日(土)曇り。

世の中の動きは当然ながらあっと言う間に移り行く。先日、フランスのシャルリ・エブド社が襲撃され編集長ら十二名を殺害すると言う衝撃的な事件が起きた。私が発行する月刊「燃えよ祖国」では、そのフランスの政治週刊紙襲撃事件の特集を組み、現在鋭意製作中である。その「燃えよ祖国」の最新号の編集がようやく終了しかけた所に、今回のイスラム国の日本人の人質事件である。

月刊誌の悲しさは、旬な話題であっても、雑誌が発行する間にはその問題が古くなってしまうことである。時事ネタは難しいとつくづく思う。現在の人質事件にしても、原稿を依頼しても、どのように事件が展開するかは分からない。トンチンカンなことになっても読者に申し訳ないので、こちらも難しい選択を迫られる。

しかし人質の解放を願う気持ちは等しく同じだが、あの国会前でディスコ音楽を流して踊っている人達は、一体何が言いたいのだろうか。全く良く分からん。本当は、人質の安否などはどうでも良く、今回の事件を安倍政権を打倒、不利益に導く単なる道具にすぎない。と思われても仕方あるまい。二人の日本人がテロ集団に人質になったのは、何か日本、とりわけ安倍政権に責任があるような言い方をする。不思議な人たちがいるものだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年少の友の一路平安を祈念する。

2015-01-24 11:14:09 | 日記
一月二十三日(金)曇り後晴れ。

日本人の人質事件で一億総評論家の様相を呈している。PCには様々な書き込みがあるが、中には眉をしかめるものや、うーんナルホドと思うものもある。何と言っても砂漠の盗賊みたいな連中がイスラムの教えを楯にして、人さらいや強盗の類を行っているのだから始末が悪い。君子は危うきには近寄らず。が一番。

テレビで人質になっている方のご母堂の会見を見たが、複雑な思いに至った。私だったら親が自分のために助命嘆願をする姿など見たくはない。最も本人が希望したことではないので仕方がないかもしれないが…。未成年者やたまたま旅行に行っていて拉致されたならともかく、渡航を禁止されている国へ、仕事と言う使命感を持って出て行った男児に、幾ら親とはいえあの姿は頂けない。それを知ったら後藤氏もきっと反対をするに違いあるまい。また私が心配するのは、彼らの他に人質になっている日本人がいないか。ということである。小出しにして日本に譲歩を迫る…単なる私の危惧であれば良いのだが。

若き大陸浪人の杉山茂雄君が来訪した。明日から再び沖縄のもっと先の南大東島へ出稼ぎ?に行くので、彼の一路平安を祈念して、ささやかな壮行の宴を催した。いや「宴」と言うのにはあまりにもささやかで先輩として申し訳ないが、何せ一月も後半に入って、とうとう不如意ここに極まれり、という状態なので狭斜の巷に出ることもなく、先日、後輩と行った西横浜の「加一」という居酒屋に腰を据えた。

杉山君は、最初、元連合赤軍の植垣康博氏の紹介で会いに来た。黒ずくめの洋服にハット。日活映画に出てくる殺し屋のようで、思わず後ずさりをしたが、話してみると中々の好青年だった。以来、親しいお付き合いをさせて頂いている。彼は大東島でサトウキビ畑の収穫の手伝いをしている。夏が過ぎて収穫が終わると、放浪の旅に出る。単な思いつきの旅ではなく、下調べや沢山の本を読んだ知識の裏付けをガイドブックにして各国を巡る。何年か前も「援蒋ルート」(調べてみてね)を歩きながら旅先から何枚も絵ハガキを頂いた。旅に出た彼から絵葉書が届くのが楽しみでもある。ちなみに彼は中国語が堪能である。もう一つの彼の趣味は、「侠客の墓」を訪ね歩くことである。この日も東京でライターとして名高い鈴木智彦氏の案内で「小金井一家」の祖のお墓に詣でたらしい。私の機関誌「燃えよ祖国」にそういった話を連載して頂いている。

「加一」で、「白波」をお湯割りで一本空けてから、「やまと」に転戦。横浜に在住の長兄の家に泊まると言う彼を保土ヶ谷駅まで送って解散した。好漢の健勝と健闘を祈る。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎落笛と北一輝。

2015-01-23 09:56:34 | 日記
一月二十二日(木)雨。

朝から雨か…。わが陋屋(ろうおく=むさくるしい家)は、建物の関係か風の通り道となっており、少しの風が吹いても風音が気になって仕方がない。有難いことに、周りは建売の住宅が多いせいか、風が通る音だけしか聞こえないが、一昔前ならば、竹でや丸太で組んだ垣根などに当たって、まるで笛を吹くような音が聞こえたものだ。この音を「虎落笛(もがりぶえ)」と呼ぶことを知ったのは大人になってから。

「虎落」の「もがり」とは、竹を筋違いに組み合わせた冊のことを言う。語源は、大昔は、人が死ぬと、その屍(かばね)を一定期間据え置いたと言う。その仮の葬儀場を囲む柵のことを「もがり」と呼んだそうだ。それがなぜ「虎」の字に当てられたのかは、不明である。(私が知らないだけなのかもしれない)この虎落笛の音は、「鳴る」よりも「唸る」という形容の方がふさわしい。「風が唸る」。

書棚を整理していたら、昭和三十四年に「みすず書房」から発行された『北一輝著作集』全三巻が出てきた。私が買った物は昭和四十五年六月発行の第六刷版である。昭和四十五年と言えば、西暦では一九七〇年。その年の十一月には、三島由紀夫、森田必勝両烈士が、市ヶ谷の自衛隊、東部方面総監室において自決なされた年である。私は、この事件(義挙)に感じて民族派運動に入るのだが、その時に読んだ事件の論評の中に、「北一輝に影響を受けていたのではないか」。というようなことが書いてあり、早速、書店に行って『北一輝著作集』を買った。

それまでロクに読書はおろか、勉強などしたこともない私にとっては、北一輝の本は、少し前に読んだ、二・二六事件を題材にした立野信之の「叛乱」のような「読み物」と勘違いしていた。ちなみに北一輝の名を知ったのも、いわゆる三島事件がきっかけだった。全三巻の内訳は、一巻と二巻が千六百円で三巻が四千円、合計七千二百円。もう四十五年も前だから、今のお金に換算したら二万円ぐらいだろうか。高かったことだけを覚えている。

第一巻の「國體論及び純正社會主義」のページをめくった時、その難解さ、いや文章どころか旧字で書かれている文字すら読めなかった。ショックだった。私は十九歳だった。書棚に積読だけだったその本を読み、少しながら理解できたのは三十歳の半ばを過ぎてからのことで、網走の独房で野村先生から言われて「獄中笑坐」の行についている時だった。乱読して読書をする体力をつけたことが役に立った。

『北一輝著作集』の第三巻は、北の「論文・詩歌・書簡」が収められている。解説文を書いているのが、二・二六事件の研究家として知られている高橋正衛氏と昨年の十一月に六十八歳で亡くなられた松本健一氏である。松本氏とは、以前に講演を聞いただけのお付き合いしかなかったが、北一輝関係の本は何冊か読ませて頂いた。

人生も下り坂になると「風の音」にも様々な想いが巡る。野村先生の句に「恍惚と寒し青夜のもがり笛」がある。

一日、一歩たりとも外に出ずに家にいた。夜は「黒霧島」を切らしたので、福岡の好漢、奥田親宗兄から暮にご恵送頂いた「明月」という焼酎をロックで飲む。深夜になっても雨は上がらず。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする