白雲去来

蜷川正大の日々是口実

二・二六事件の日に思う。

2018-02-28 18:44:29 | 日記
二月二十六日(月)晴れ。

昭和十一年に起きた、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件、二・二六事件から今日で八十二年となる。昭和十一年と言うと、戦前でもあり、随分と昔のことのように思うが、私が生まれるわずか十五年前のことでしかない。私の母は、この時東京にいて、街の異様さ、人々の緊張感を体験したと、横浜に雪が降るたびに「二・二六事件を思い出すねぇ」と言っていた。若き日の母が直面した、重大な事件であるからこそ、いつまでも忘れられなかったのだろう。

私が、最初に二・二六事件の映画を見たのは、昭和三十七年に公開された「脱出」である。私は、小学校の五年生だった。江原真二郎扮する栗林中尉が、とても良く、今でも印象に残っている。決起した青年将校のうち、栗林中尉の率いる一隊は首相官邸を襲ったが、折から投宿中の首相と酷似の義弟杉尾大佐を首相と思い込んで射殺、付近一帯に警戒線を張った。女中部屋に隠れていた岡田首相が、文字通り「脱出」する映画なのだが、アクションと言うよりも、サスペンス映画のような気がする。

中学に入ってから、「馬賊」関係の本と、「二・二六事件」の本を読み漁った。良く、二・二六事件から日本は、戦争の道をひた走った、という論評が当たり前のようになっている。そして二・二六事件の青年将校らが、戦争の促進者のように言う人がいるが、それは間違いである。国内の不平や不満を外に向けようとした、いわゆる統制派と言われた人達を倒そうとしたのが、二・二六事件の皇道派の青年将校なのである。彼らは、大陸に進出するよりも、腐敗する政・財・官界を刷新して、国内維新を断行しようとして決起した。歴史に「もし」はないが、二・二六事件が成功していたならば、戦争の拡大はなかったのかもしれない。

雪が降るたびに想う。「ご聖断を仰ぎ、妖雪を払い、昭和維新を断行する」と決起した青年将校を。生まれてくる時を間違えた。

昨日の読売新聞の「文化欄」に、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)の著作のある梯久美子さんが『齋藤史全歌集』を紹介していた。「平成九年の歌会始に、八七歳の齋藤史(ふみ)は召人(めしうど)として参内した。召人とは天皇から特に召し出されて歌を詠む人である。宮殿への階段を上っていくとき、自分の後ろに軍服の男たちが並んでいる気がしたと、後に史は語っている」。その軍人たちとは、二・二六事件に決起した青年将校である。その中心人物であった、「脱出」で江原真二郎が扮した栗林こと栗原安秀中尉は、史の幼馴染であった。因みに史の父は、歌人でも知られた齋藤劉で、反乱を利したと禁錮五年の刑を受けている。齋藤劉、史のことは、『昭和維新の朝(あした)―二・二六事件と軍師・齋藤瀏』(工藤美代子著・日本経済新聞社刊)に詳しい。

私が、二・二六事件関係の本で好きなのは、立野信之の『叛乱』、末松太平の『私の昭和史』、大蔵栄一の『二・二六事件への挽歌』などである。野村先生の獄中句に「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。

午後に『週刊新潮』から電話取材有り。夜は、町内の仲良しさんたちとの一献会。しかし体調悪く早めにお暇した。

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またやっちゃった。

2018-02-28 18:16:02 | 日記
二月二十五日(日)曇り。

朝食後に、すぐにテレビを点けて、東京マラソンを見る。結果は、ハーフマラソンの日本記録保持者の設楽悠太が二時間六分十一秒で二位に入り、二〇〇二年に高岡寿成がマークした二時間六分一六秒の日本記録を五秒更新し、日本記録を十六年ぶりに塗り替えた。また井上大仁も六分台で走り、東京オリンピックに希望の灯が見えてきた。うっかりと録画することを忘れて残念。

書店で、『横浜』(八木澤高明編・皓星社)という本を買った。単に、横浜の描写のある小説をまとめたもので、『桟橋』森鷗外、『横浜租界』長谷川伸、『煉瓦女工』小池富美子、『愚連隊の仙太』北林透馬、『曙町』田中秀光、『白い鎖』水上勉、『土堤』永山則夫の諸氏の七編が収録されている。考えてみれば、他人の書いたものをそのまままとめるのだから、随分楽な作業である。そして定価は税別の二千円である。不如意の折でもあるしどうしようかと考えたが、私の「横浜コレクション」のために買った。

家で、その本をもう一度良く見たら、何か装丁に見覚えがある。以前買ったような記憶が・・・。怖ろしくて事務所の書棚を見れない。ボケてきたせいか、たまにこういったポカをやる。もし事務所にその本があったなら、「黒霧島」一本損したことになる。あーあ。

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ドキュメンタリー・新右翼―ある活動家の日々。

2018-02-28 14:12:57 | 日記
二月二十四日(土)晴れ。

私が大切にしているDVDがある。それは、かつて横浜にあった横浜放送映画学院の「ドキュメンタリー・ゼミ」の人たちが、卒業の際に製作した「ドキュメンタリー・新右翼―ある活動家の日々」という映像である。昭和五十八年に製作された八ミリの映像をDVDにして頂いた。私は、その映画学院で、恥ずかしながら「右翼について」という講演をしたことがある。その際にお願いしたのである。

「ある活動家」とは、平成十八年の三月四日に亡くなった板垣哲雄君のことで、彼の日常と活動の日々を記録したものである。このドキュメンタリーが撮られた昭和五十八年は、板垣君は二十六歳。正直言って、エッと思う場面も、あれれれと思う場面も、インタビューに言葉を詰まるような場面も記録されている。しかし、若き日の板垣君の、ある一面であることは間違いない。確か、その年のドキュメンタリー賞を取った作品である。十三回忌に、来て頂いた方に配布するつもりでいる。在りし日の「哲ちゃん」を偲んで頂けましたら幸いです。

夜は、新橋の中華料理店にて開催された「長谷川光良さんの運動五十年」を祝う集いが開催された。発起人に名を連ねている私は、ご挨拶をさせて頂いた。私と長谷川氏との付き合いは長い。思えば、ビラ貼りも街頭演説も、一時期は彼といつも一緒にやっていた時期がある。七十名ほどの人たちが出席。いい会だった。

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大きなニュースが二つ。

2018-02-28 13:22:30 | 日記
三月二十三日(金)曇り。

朝から大きなニュースが二つ入り、感慨深い一日となった。一つは、古いお付き合いをさせて頂いた、千葉に本部を置く、大日本憂国協議会の石井幸雄さんの訃報である。何年か前に体調を崩し療養中とのことだったが、六十二歳と言う若さで亡くなられた。石井さんとは、彼の団体を立ち上げる以前からのお付き合いで、団体結成の時も、お手伝いをさせて頂いた。

また日本青年社が主催したタイへの慰霊祭にも、二度ほど一緒に行ったことがある。記憶違いでなければ、最後にお会いしてのは、四年ほど前の春で、上野公園の西郷さんの銅像の清洗式であったと思う。その後も、何度か電話を頂いたが、言葉に元気がなかったのが気になっていた。今年になって、松魂塾の直 隆史塾長や、野村一門の群青の会の正田秀幸氏、そして長年の同志の石井幸雄氏と訃報が続いた。皆、私より若い人たちばかりである。虚しさを感じてならない。

朝一番のニュースで、桂田智司氏さんと、川村能教さんが朝鮮総連を銃撃して逮捕されたと知り、とても驚いた。桂田さんは、過去に様々な肉体言語をもって過激な行動を起こしている。不屈の人でもある。今月の十八日に行われた「王政復古一百五十年」の記念講演会では、私のすぐ近くの席に座っていた。もうその時には、決起を決意していたのだろうか。しかし双方ともに怪我人がいなかったのが、せめての幸いである。昨今、拳銃を使用した行為は、罪がとても重い。長い囹圄となるやもしれない。健康を祈るばかりである。

午前中に事務所へ。夕方から歯医者。帰宅後は、酔狂亭で独酌。

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垣哲雄君の十三回忌のご案内

2018-02-28 13:18:15 | 日記
二月二十三日(金)曇。

垣哲雄君の十三回忌のご案内

謹啓
春とは名のみの寒い日が続いております。
皆様には、益々ご健勝の事と存じ上げます。
さて、光陰は矢の如し。来る三月四日は故板垣哲雄君の十三回忌となります。
板垣君は昭和四十八年、私が主宰しておりました横浜青年政治研究会に加盟し民族派運動を開始。以後、大日本殉皇会、神奈川県維新協議会事務局長、統一戦線義勇軍を経て、昭和五十八年に革正評論社を設立し、一貫として維新運動に挺身してきました。
その軌跡は、
昭和五十三年十一月三十日、大平正芳自民党幹事長私邸侵入事件。
昭和五十七年九月三日、鈴木善幸総理私邸直訴事件。
昭和六十年六月二十日、逗子池子の米軍住宅地建設反対闘争にて防衛施設局に火炎瓶投擲事件。
平成十年一月十三日、YP体制打倒青年同盟を名乗り、米国主導の金融政策、いわゆるビックバンに反対し、東京証券取引所に立て籠もり発砲するなど、常に肉体を言語として激烈なる運動を展開してきました。
板垣君は「東証籠城事件」により八の刑を受けまして甲府刑務所に下獄しましたが、平成十六年に刑務所内で体調を崩し、診断の結果大腸癌と判明し八王子の医療刑務所にて手術を受け一度回復を致しました。
その後の診断で、癌が肝臓に転移していることが判明し、再び医療刑務所に移されました。
しかし薬石投薬の効なく、満期出所を一月後に控えました平成十八年三月四日、午後八時四十五分、四十九歳を一期として、幽冥境を異に致しました。
板垣君の三十余年にわたる祖国愛とその運動家としての姿勢は敬服に値するものとして、十三回忌を迎えた現在でも、私たちの記憶に残っております。
つきましては、板垣家の菩提寺にて、彼を知る近親者相集い、左記要領にて墓前法要を執り行いたいと存じます。
時節柄、何かとご多忙のこととは存じますが、茲に謹んでご案内をさせて頂きます。              
                               敬具
 平成三十年二月二十二日
                              蜷川正大

   記
日 時 平成三十年三月四日(日)午前十時 法要開始
場 所 瑞雲山「三会寺」 横浜市港北区鳥山町七三〇
電 話 〇四五(四七二)四七二八
参加費 無料

問い合わせ
株式会社二十一世紀書院
住所 〒二三二―〇〇三五
横浜市南区平楽一四八―三―三一二号
電話 〇九〇(六三〇〇)七〇七五
※終了後に希望者のみにて、直会の場を用意しております。
直会参加費 三千円

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