白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ブルーノート、シリーズがいい。

2023-02-27 12:42:30 | 日記

2月25日(土)晴れ。

朝食は、ハムエッグス、キャベツの千切り添え、豚汁。昼は抜いた。夜は、もやしとザクワカメのサラダ、豆腐のバター焼き、鶏のせせりのから揚げ、牡蛎と舞茸のニンニク醤油炒め。お供は「黒霧島」。

午前中に、『燃えよ祖国の最新282号を発送。紙代、インク、封筒代が揃って値上げ。家計にボディブローのようにじわじわと効いてくる。機関誌なんてほとんど意地で出している。刷れば刷る程、赤字になるのだから不思議だ。まあ愚痴っても仕方がない。

ディアゴスティーニの「ブルーノート」シリーズに嵌ってしまった。まだ4回だが、その都度書店で買っている。口座の引き落としだと、入金を忘れてショートするのが怖いからだ。まっ書店に行く楽しみも増えるので、宅配にしていない。一回が、マイルスデイビス、二回はハービー・ハンコック、三回が、ソニー・ロリンズ、四回がアート・ブレイキー。それぞれ5,6曲入ったアルバムだが、ポピュラーな曲ばかりが収められているので、聴いていてとても楽しい。ジャズの初心者入門アルバムと言っても過言ではない。昼下がりに、パソコンで仕事をしながら、それらのアルバムを聴いている。コンポは以前に、盟友から誕生日プレゼントとして送って頂いたBOSEのミニコンポで、とても音が良い。コーヒーを飲みながら、至福の時間である。

今回のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのアルバムには入っていないが、彼らの「危険な関係のブルース」が好きだ。


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大腸の検査。

2023-02-27 12:29:46 | 日記

2月24日(金)晴れ。

6時に起床。正午から大腸の検査があるので食事が出来ない。先日に、病院から渡された「経口腸管洗浄剤・ニフレック」を二リットルの水で溶かし、一時間以上かけて飲む。大腸の検査は過去に二度行っているが、この「ニフレック」を飲むのがとてもつらい。医学が発達している現在、もう少し飲みやすいものにして欲しいと思うのは、多分、「ニフレック」を飲んだ人なら皆そう思うのに違いあるまい。

正午から検査。眠くなる薬を点滴されたら、あっという間に寝てしまい、いつ検査が始まって、終わったのか、全く記憶がない。「終わりました」とち言われて目が覚めた。検査の結果は「キレイですよ。小さいポリープが一つありましたので取りました」。タクシーで自宅に戻ったが、まだ何となく麻酔が効いているようで、夕方まで寝てしまった。


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機関誌が完成。

2023-02-27 12:06:15 | 日記

2月23日(木)晴れ。天長節。

起床後、玄関に国旗を掲げ、皇居を遥拝。ご皇室の弥栄と今上陛下のご健康をご祈念する。

朝食は、白菜のあんかけ炒め、鶏のから揚げ、焼売、あおさの味噌汁。昼はトースト一枚。夜は、明日の大腸の検査に備えて「おかゆ」。休肝日とした。

朝から、機関誌『燃えよ祖国』の第282号の製作に追われる。夜になってやっと完成。明日には発送できる。


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俺も行くから、君も行け。

2023-02-27 11:18:36 | 日記

2月22日(水)晴れ。

朝食は、赤ウインナー、目玉焼き、キャベツの千切り添え、シジミの味噌汁。昼は、トースト2枚。夜は、月に一度の仲良しさんたちとの食事会を伊勢佐木町の登良屋にて開催。ここは天ぷら屋さんだが、刺身が特別美味しいことでも有名である。まず、ブリなどの刺身の盛り合わせ、つみれ汁、キンキの煮つけ、天ぷらの盛り合わせにご飯に味噌汁。お腹がいっぱいになった。その後、有志にて関内へ転戦。日にちを少しまたいで帰宅。

新聞で、中国の人口が14億2、586万人であると知った。古い例えで恐縮ですが、明治の後半から、「狭い日本にゃ住み飽いた」と中国大陸に雄飛し、大陸浪人や馬賊にあこがれた当時の青年が歌ったのが宮嶋郁芳作詞、作曲者不肖の『馬賊の唄』である。(YouTubeなどで聞けますので興味のある人は聴いてみて下さい)一番の歌詞は、「俺も行くから、君も行け、狭い日本にゃ住み飽いた。波の彼方にゃ支那がある。支那にゃ四億の民が待つ」。と言うもの。この歌の作られた正確な年月日は分からないが、大正時代と言われている。以後百年で10億人以上も増えたことになる。

我国の明治5(1872)年の人口は33,238,011人。150年後の令和3(2021)年10月1日時点 で1億25,502,290人。現在の4分の一ほども日本にいなかった時代に「狭い日本にゃ住み飽いた」と大陸への雄飛を志した青年が多かったのに、ますます狭くなった現在の日本。行けったって、何処に行きゃあいいんだい。

 

 

 

 


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野村先生と「さすらい」。

2023-02-25 15:20:08 | 日記

2月21日(火)晴れ。

昨夜の酒が残り、朝起きられなかった。情けない・・・。昼めしは、「緑のたぬき」と焼きおにぎり1個。夜は、ナスと挽肉のオイスターソース炒め、手羽もとの塩焼き、レタスの温サラダ。お供は「黒霧島」。二日酔い気味なのに、風呂に入ってビールを飲めば不思議と、調子よくなる。こんな朝と夜をどれほど過ごしてきたことか。「数知れぬ過失は酒とともにありその酒抱きてけふも堕ちなん」。と詠んだのは、道の兄と慕った元楯の会の故阿部勉さん。自分自身に「喝」だ。

野村先生の歌の十八番(おはこ)は谷村新司の「群青」が定番と言われている。遺著となった本の題名も『さらば群青』で、御命日の追悼祭は、その本のタイトルから「群青忌」。名付け親は阿部勉さん。その「群青」が先生の十八番となったのは晩年のこと。先生曰く「最後の軍歌」と前置きして酒席で歌っていた。その歌が「連合艦隊」の主題歌だっただけに余計に、そういった思いが強かったのかもしれない。

しかし、先生が、いわゆる「河野邸焼き討ち事件」にて12年の刑を終えて戦線に復帰したのは、昭和50(1975)年のことで、その頃の先生の十八番と言えば小林旭の「さすらい」だった。歌うとき、いつも先生はマイクを両手で持ち、万感の思いを込めて歌っていた。「夜がまた来る思い出つれて、おれを泣かせに足音もなく」。その先生の「万感の思い」の中に長かった獄中体験があったことは言うまでもない。酔っている時に、「さすらい」を聞くと今でも涙腺が緩む。

先生のお供をしてイタリアを旅した時、ローマはすでに夜の帳に包まれていた。ホテル、ハスラーにチェックインし、旅装を解くのももどかしく、先生にいわれるままに夜のローマを歩いた。石畳を歩く先生が、誰に聞かせることなく「さすらい」を歌った。「知らぬ他国を流れながれて、過ぎてゆくのさ夜風のように」。この時、私が撮った写真がある。当然ながら、ローマの街も先生もあの時のままだ。私だけが老いて行く。


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