白雲去来

蜷川正大の日々是口実

オールド上海への郷愁

2010-10-31 10:26:44 | インポート

十月三十日(土)雨。台風接近。

 台風が接近しているとかで、風雨強し。我が陋屋は雨漏りが心配である。愚妻の手首の骨折は、治癒に一ヵ月半、リハビリに一ヵ月半、都合三ヶ月もかかると言う。ご心配頂いた方から、電話やメールを頂き、感謝を申し上げます。

 

 雨で外に出るのが億劫なので一日、二階の片付け。本当は、四時から九段下沙龍で中尾征秀郎氏の激励会を兼ねた勉強会があるのだが、子供の弁当を作ったり片づけをしたりで、余計な仕事が増えて、外に出かける時間がない。原稿もやらなければならないし、片付けなどしている場合ではないのだが、愚妻が何もできないので仕方がない。

 

 夕方から、子供の付き合いで、みなとみらいへ。上の子供が来月誕生日となるので、少し早いが、誕生日プレゼントを買ってあげた。電子辞書だが、正直言ってあんまり高いので驚いてしまった。機能が多すぎるのが原因だろうが、広辞苑、和英、英和、百科があれば充分との子供のありがたいリクエストで、安いものにした。その後、マックでコーヒーをしてから帰宅。余談だが、少し前までのマックのコーヒーは、何でこんなに不味いのかと思っていたが、最近では、コーヒー競争が激しくなったせいか、いくらか美味しくなった。まあ、あの値段では文句は言えないか。

 

 岐阜の、細川先生は大変な読書家で、読んで面白いと思ったものをメールで教えてくれる。今日は、別冊太陽の「三島由紀夫特集」を紹介して頂いたので早速購入するつもり。

Img477 ※細川先生と。十月十六日、サリーズ・バーにて。

 

 私は、胡桃沢耕史の「上海リリー」(文藝春秋)を読んでいる。古書店で百円で買ったものだ。「上海」と名のつく本があるとつい衝動買いしてしまう。もちろん、現在の上海を書いたものではなく、戦前の上海、つまりオールド上海がを題材にしたもの。戦前、上海は日本人がパスポートなしで行ける唯一の外国であった。すなわち「魔都」と呼ばれた時代だ。社友会代表である隠岐康氏のご好意で、今年の夏に始めて上海を訪れた。夢に見ていた街並がそのまま残っていたのには感激した。

 

 「黒パン俘虜記」で直木賞をとった胡桃沢氏は、その昔、本名の清水正二郎と言う名で、エロ小説を書いていた。古い人ならば、ペンネームよりも本名の方が馴染みが深いのではないか。直木賞の受賞後は随分と海外を舞台にした冒険小説を書いているが、中国に題材をとった作品には良い物がある。

 

 随分前のことだが、新自由クラブという政党があって、横浜から立候補した人の応援を頼まれてアルバイトをした事がある。その時に、候補者と友人であった胡桃沢氏が応援に来ていて、一緒に写真を撮ったものがある。

 

 夜は、ビールの小瓶一本を飲んだら、ガタンと眠くなってしまい、早々と寝てしまった。


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ぶつけた人が可哀想だから、転んだことにしてくれと。

2010-10-29 22:46:30 | インポート

十月二十九日(金)雨。

 今日も寒い一日である。またこの時期に台風が発生し、明日はその影響で風雨が強いとの事。今日の産経新聞の一面、曽野綾子さんの「小さな親切、大きなお世話」の中に、ナルホドという一文があった。全文を紹介できないのは残念だが、心に残った部分を紹介してみたい。

 

  「貧困の定義は、『今夜食べるものがない』ことだが、弁護士にも学者にもこの繁栄した日本が貧困だという人がいて、あらゆる制度を使って国家から金を貰おうとする寄生人間の後押しをする。人は、国家、社会、他人などから権利としてもらっている間は、必ず不満を覚える。自分より少しでも多く貰う人を許せない。感謝どころか、不満、憎悪、悪知恵の全てが、もっぱら内側の日本国家や社会や知人に向けて放たれる」そして、こういう国家にしたのは、「日教組と、それに抵抗しなかった親達である」と。

 

 全く同感である。右翼民族派は、半世紀近くにわたって「日教組の解体」を主張し、運動してきた。私も、民族派運動に入った直後から「日教組解体」の運動に参加した。古くは、秋田、前橋、立川・・・。当時は、右翼VS日教組という図式でしかマスコミは捉えていなかったが、先輩達が血眼になって日教組の解体、撲滅を叫んできたことが、正しかったことを、今では否定する人はいまい。

 

 午後から、愚妻を連れて病院へ行った。愚妻いわく、珍しく無愛想な医者がいて、「首が痛い」「足が痛い」と訴えても、手首の様子を見るだけで、後は、うんとも、すんとも返事をしないそうだ。ふざけた医者だ。もっとふざけているのは、愚妻の会社。病院へ行った時に、一緒に行った事務員の女性が、「罰金など取られたら(ぶつけた本人、会社の専務)がかわいそうだから」という理由で、愚妻が「転んだ」ことになっているという。可哀想なのは、ぶつけた方ではなく、ケガをした愚妻の方ではないか。誠意ある対応がなかったら、労働基準監督所に行くのはもちろん、ガツンとやってやろうと思っている。

 

 夜は、真面目に自宅で読書と原稿書き。静かな一日だった。

 


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女房が手首を骨折した。

2010-10-29 08:41:33 | インポート

十月二十八日(木)雨。

 いやはや寒い一日だった。中学の一年から二年間、牛乳配達をしていた。東條英機元首相などの戦争指導者が東京裁判で死刑になったのを荼毘にふした久保山斎場の近くが配達場所だったが、坂ばかりで牛乳を満載した自転車をこぐのがとても辛かった。冬には、当時流行っていた吉永小百合とマヒナスターズの「寒い朝」を歌いながら、配達をしたものだった。今でも、その歌を聞くと、牛乳配達をしていた頃を思い出す。

 

 午前中は原稿の下準備をして、午後から肝臓の治療のために入院している藤巻強氏を見舞うため、小林民三氏を迎に出ようと思ったら、愚妻が自宅に戻ってきた。仕事の途中で何か忘れ物をしたのかと思ったら、左手を吊っている。どうしたのかと思ったら、何でも、仕事中に、会社の敷地内でバックしてきた車にぶつかり、その勢いで、転び左手首を骨折したとのこと。顔や足も打撲で痛いとのこと。ぶつけた本人が自宅まで送ってきたが、当初は事情が分からず、文句も言わずに、お引取り頂いたが、正直言って釈然としなかった。

 

 幾ら会社の敷地内と言っても人身事故であることは間違いないにも関わらず、警察にも届けもしていないとのこと。単なる「怪我」で済ませようとする会社の態度が解せないのである。機関誌の編集や「大吼」の編集なども手伝って貰っているのに、左手が使えないのではパソコンの操作もできない。アルバイトだから多少の事は我慢しろ、と言うような姿勢であったらとんでもないことだ。

 

 子供が二人もいる主婦が片手を使えないという不便さは、どれほど家庭を不便にするかという想像力に欠けているのではないか。もし手に後遺症でも残ったならどうするのか。人身事故を起こしたという、事の重大さに気がついていないような気がしてならない。

 

 そんな訳で、一時間ほど遅れて、藤巻氏を見舞う。ことのほか元気な様子にひとまず安心。今週中には退院とのこと。病院から出て、小林氏と藤棚商店街の「大千居」という中華料理屋に入ったが、ここが中々美味かった。

 

 帰宅後は、子供達と一緒に夕食の段取りや片付け。愚妻は当分何もできないので、また仕事が増えそうだ。


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訃報が続く。

2010-10-28 22:20:21 | インポート

十月二十七日(水)曇りのち雨。

 北海道では初雪とのこと。横浜などにいると、雪に対して傍観者でいられる。雪国の人には申し訳ない。

 

 今年の夏の記録的な猛暑。暑すぎて白菜などの葉物野菜が育ちが悪く、韓国ではキムチが漬けられず困っているという。秋になれば各地に熊が出没。そして豪雨。気候の変化と言うよりも、何か天変地異の前触れなのではと勘ぐってしまう。今度、山浦嘉久先生にお会いしたら聞いてみようと思っている。「分析」に関しては、山浦先生の右に出る者はいないと、勝手に思っている。

 

 来月は、久し振りに札幌を訪れる。学純同の五十周年にかこつけて、仲良し会でツアーを組んだ所、何と十四人の人たちの参加の申込みがあった。前田伏樹総裁には、物見遊山で申し訳ないが、そういったことでもなければ、中々札幌に行く用事もない。小樽の青塚食堂に行くのが楽しみでもある。

 

 札幌の田中清元和尚のご尊父が逝去なされ、今月末に葬儀があるのだが、生憎、月末は、町内のお友達であるオグリンさんの娘さんの結婚式があり、以前から出席を懇願されていたので、葬儀には梶浦直樹君に行ってもらうことにした。思えば、清元和尚とは長い付き合いだ。亡くなられた青年思想研究会の高橋正義先生の書生をしている頃からだから、もう四十年に近い。前田総裁と初めてお会いしたのは、昭和四十九年の事。当時は、学純同の庶務長をしていた。長谷川光良氏は「総評デモ突入事件」で黒羽刑務所に服役中だった。前田総裁とは、現在埼玉県の中学の校長をしているS氏等が立正大学で行なった、三島・森田両烈士の追悼祭に行ったことが懐かしい。そのS氏とも先日、三十年ぶりで再会をした。良い同志に恵まれたと感謝をしている。

 

 ご葬儀と言えば、群青の会の代表である正田秀幸氏のご子息が亡くなられたと、山崎一弘君から連絡があり、正に驚愕した。ご子息が小さい頃に一緒にキャンプに行ったりしたことがある。正田氏はもとより奥様のご心痛は察して余りある。三十一日が通夜式で、翌一日が告別式とのこと。告別式に出席するつもり。正田さんご夫妻とお会いするのが辛い。

 

 夜は、原稿に向おうかと思ったが、本を読んでいたら眠くなり、そのまま寝てしまった。


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雪虫の事など。

2010-10-28 21:44:38 | インポート

十月二十六日(火)曇り。

 建国義勇軍国賊征伐隊事件で前橋刑務所に在監中の木村岳雄氏と、民主党の石井紘基刺殺事件で宮城刑務所に在監中の伊藤白水氏のお二人から同時に書簡が届いた。嬉しいことに、木村氏は残刑が一年を切ったとのこと。以前届いた木村氏からの手紙では、色々な意味で注目されている西村修平、槇泰智の両氏が前橋まで面会に行ったり、様々な支援をしていると書いてあった。両氏とは戦線を共有することはないが、激烈なる闘争の陰に、こういった獄中の同志を思いやる気持ちがあるからこそ、彼等の元に仲間が集うのだろう。獄中者への支援は、簡単なようで中々できないことなのだ。

 

 伊藤白水氏は無期であるから全く先が見えない。知り合いの方で無期が伊藤氏を含めて三人もいる。無期懲役の平均受刑年数は二十七年ぐらいと言うこと。それでも仮釈放が貰えるかどうかは断定できない。

  残刑は 十年もある 明日も雪か

 とは、野村先生の句である。月並みだが、その方々の獄中での健康を祈る次第である。

 

 弊社札幌社友会の梶浦直樹氏のブログに、「雪虫」のことについて書いてあった。北海道では、雪の降る少し前に、白い小さな羽虫が飛ぶ。その雪虫が飛ぶと本当に雪が降るから不思議だった。網走で過ごした初めての年。九月の後半に一瞬雪が舞った。私は新入工場で掃夫をしており、担当さんに、「風流ですね」と話したら、「蜷川、その内泣くよ」と言われた。年が明けた二月、流氷が接岸する頃、本当に寒さに「泣き」が入った。

 

 横浜などでは、雪は何か神様がくれたプレゼントのように感じていたが、北国の雪は、耐え、克服するものであることを知らされた。

 

 夜は、我慢しきれずに、ビールの小瓶を一本だけ飲んだ。一週間ぶりの事でもあり、五臓六腑に染み渡った。来月早々に山平重樹先生とお会いする。期待を裏切らないようにしなければ。


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