白雲去来

蜷川正大の日々是口実

私の初めての遠足。

2016-04-28 12:50:19 | 日記
四月二十六日(火)晴れ。

朝から、ガツンと良い天気。何でも「夏日」であるそうだ。この時期の夏日は、我慢できないくらいの暑さでもなく、心地良い。今日は、下の子供が遠足とやらで出かけて行った。最近の中高校生の遠足や修学旅行というものは、私服で、かつそれぞれがグループごとに別れて、名所旧跡を巡るらしい。ふーん、という感じですね。

私が持っている一番古い遠足の写真は、小学校の三年生の時の物。半ズボンに黒い靴下、制服のような物に白い開襟シャツ。学校の帽子。リュックを背負って水筒を斜めから掛けている。まるで兵隊のようでもある。場所は、反町公園。集合写真が残っているのは、小学校の三年の秋と六年生の時に箱根に行った折のものの二枚だけである。中学生の時のものは、修学旅行を含めて集合写真をすべてとってある。高校生の時は、九州だったが、お金の都合がつかずに行かなかった。

最近の遠足は、集合写真もなく、皆、勝手にスマホで撮って保存するので、親が写真を見る機会が無くなった。集合写真というものは、大人になってから見ると、とても懐かしく感じられて、なぜ撮らないのか不思議でならない。あの時のアイツ、そして私・・・。半世紀も前の自分や級友がいて、私の宝物でもある。

夜は、月に一度の町内の仲良しさんたちとの食事会を「たつ屋」というラーメン屋さんで開催。先日、那須塩原のFBFから頂いた「コシアブラ」をおすそ分けして、お店でてんぷらにして貰ったら、皆さんとても喜んでくれた。季節を味わうことの大切さを知っている世代の人ばかりなので、嬉しかった。※もっと古いものがありました。小学校の二年生の時の物がありました。場所は弘明寺公園。写真は小三の時の物です。

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関内で懐石料理を堪能。

2016-04-28 10:35:22 | 日記
四月二十五日(月)晴れ。

一週間も前から今日の日が楽しみだった。お世話になっている人達との食事会がある。最近は、あまり割烹料理などを横浜で食する機会が無くなった。コンプライアンスとやらを気にする人たちが、私のような者に対しても、余計な気を遣うようになったからである。良い方に気を使ってくれるのならば良いが、まったくはた迷惑な話である。という訳で、とんと接待されることが少なくなった。まあ浪人の身としては、中々自分の支払いでは、料亭などは二の足を踏む所ばかりですからね。

今日は、そんなことを気にしない友人との一献会。場所は、半年前程に関内に開店した「O」という料理屋である。友人が、何度かランチで訪れ、料理とそこの主や女将の人柄をいっぺんに気に入り、私たちを誘っての食事会となった。

待ち合わせの時間の前に、「サリーズバー」へ顔を出すと、何やら撮影の準備をしていた。サリーの友達のキャシー中島がプロデュースする横浜を題材にした舞台をのための撮影で、その昔、キャシーが育った実家のお店をサリーズバーに見立ててとのこと。退院したサリーパパの怪我も順調と聞き一安心。

お店はすぐに分かった。一番乗りである。すぐに皆、といっても三人だが、先月の野毛に続いて今年二回目の食事会。ビールで乾杯の後は、「佐藤」の麦に。先付や次々に出される料理もとても美味しく、茶室に見立てた小部屋の雰囲気も、侘びていて良い。器にも凝っていて、楽しかった。恐らく、後半年もしたならば、予約を取りにくくなるに違いないと思った。いやぁー気がつけば十時近く。友人に送って頂き帰宅。人生の大事な一食を堪能した。

『週刊朝日』が届いていた。連載されている「司馬遼太郎の言葉」をまず読む。「三浦半島記の世界」の第二回である。第一回からスクラップしておこうと思ったら、古紙の集配の日にうっかりと出してしまった。松潤の表紙の物だったと思う。トホホである。この連載を読みながら三浦半島を巡ってみるか。赤尾先生や、お世話になった方のお墓もあることだし。

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佐原の祭り。

2016-04-27 11:53:37 | 日記
四月二十四日(日)雨後曇り。

早朝に、うつらうつらとしていると、我が陋屋を雨が叩く音が聞こえる。そうか、雨か・・・。やっ、今日は、千葉の佐原で行われるお祭りに友人らと一緒に行く約束をしている。六時に起きて、道中、電車の中での「旅飲み」のつまみを作らなければならない。と思った時に、六時の起床を伝える目覚ましが鳴った。と同時に、炊飯ジャーから、「旦那さん、ご飯が炊けましたよー」と「アマリリス」の曲が流れる。最近の炊飯器は大したものだ、音楽でご飯が炊けたことを教えてくれるのだから。しかし、それならば、携帯みたいに曲を取り込んだり、好きな曲を選べたりすればよいのにと思う。

例えば、忙しい時の朝などは「軍艦マーチ」や「突撃ラッパ」。雨の日、それも何も予定が入っていない時などは、大好きな小林麻美さんの「雨音はショパンの調べ」。そう言えば、その曲のレコードのジャケットは、先日亡くなられた画家の合田佐和子さんによるものだった。(取っておけば良かったなぁー)。仕事のある雨の朝には「 Singin' in the Rain・雨に唄えば」。雪が降っている時は「雪の降る街を」かアダモの「雪が降る」。台風の朝は、石原裕次郎の「風速四十メートル」。誕生日の日には「ハッピーバースディ」。やめようきりがない。それでも「象印」さん。ご一考を。

慌てて起きた。予報によれば、午後から晴れるとのこと。保土ヶ谷駅と横浜駅にて仲良しさんたちと待ち合わせ。総武線の十人乗りのグリーン車の小部屋?を勝手に貸し切って、朝から「旅飲み」。時計を見ればまだ九時少し前。朝の酒には、ビールの苦みと共に、背徳感と罪悪感がミックスされて、どうしてもうつむき加減に飲むようになる。しかし千葉の方には申し訳ないが、電車で酒を飲むときは、伊豆方面に行く時は、なぜか昼間であっても罪悪感が余りない。そして華やぐから不思議だ。車窓を流れる景色も酒の肴になるが、千葉方面に行く時は、「旅」という気分に慣れず、移動と言う感が強い。これは、同行した皆の一致した意見だった。

佐原の駅に、志村馨親子、松本佳展親子ではなかった原品君が迎えに来てくれた。本来ならば、毎年上野の「西郷南洲翁銅像清洗式」に出席するのだが、今年は群青の会の大熊雄次氏に出席して貰った。いつも千葉県は佐原のお祭りと重なり、地元の本宮さんから毎年ご招待されるのですが、西郷さんの清洗式と重なり、この三年ほどお断りしていた。しかし今年は、香取市の合併十周年記念の「大祭」であり、二十四台の山車が出る珍しい年。とのことでお、親しい人たちを誘ってお邪魔した。江戸情緒の残る町に、勇壮かつ「神が降り立つ」荘厳な山車が町を練り歩く。としても感動的なお祭りである。仲良しさんたちも皆感動していた。

本宮さんの計らいで、とても古風な料理屋で昼食。雨も上がり、町がしっとりして気持ちが良い。夜の風情も良いのだが、さすがに疲れて五時に撤収。八時近くに自宅に戻った。いい一日だった。

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自己完結型のボランティアに脱帽。

2016-04-27 10:50:31 | 日記
四月二十三日(土)晴れ。

まだ熊本の地震が終息しない。亡くなられた方や、そのご遺族はもちろん、家が倒壊したり、畑や田んぼが使えなくなったりと、その失意と落胆は想像もつかない。そして落ち着いた後から、即、現実に立ち向かわなければならないのだから二重の苦しみと戦わなければならない。もしこれが我が家だったら、家の借金は残っているし、新たに建てると言っても、もう歳でローンなど組めるわけもない。仕方がないので、土地を売って、いくらか残ったお金で、親子四人が暮らせるような安マンションに引っ越す以外にない。それでも生きているだけで良しとしなければと、明るく考えるしかないか。

しかし、そういったご苦労なされている人がいる時に、空き巣や、文字通りの火事場泥棒を行う、鬼畜にも劣る連中がいることが、同じ日本人として恥ずかしい。せめて、激甚災害に指定された時は、流言飛語や火事場泥棒の罪を極端に重くして、罰したら良いと思う。東北沖の震災の後だったか、父親の名を明かせない歌詠みがさっさと遠くに逃げて行ったらしいが、行くところがあるのは羨ましい。横浜で生まれて、横浜で育った私としては、家族を非難させても、横浜にしがみつく。

それにしても、震災の復興や被災された人たちへのボランティアを募集すると、予想以上の人が集まったと報道で知った。少数の不心得者には情けない思いをさせられるが、こういったボランティアの人たちを見ると、勇気を貰えるなぁー。それも、ボランティアの条件というのが「自己完結型」というのだから頭が下がる。

念のために「自己完結型」とは、「自分の分の食料・飲料水・必要器具・装備一式を自己で被災地等に持ち込み、一切現地調達で賄わないボランティア。泊り込みの場合もテントを持ち込むか、事前に近隣地域に宿泊施設を確保するまた、自分の出したゴミなどはもちろん持ち帰る。手ぶらで被災地に来て、救援物資などを当てにしたり、現地調達しようとしたり、宿泊場所が未定で非難所を当てにしたりと、トラブルを起こすボランティアが増えてきたので提唱されるようになった」。

コールマンというアウトドアの用品を扱う有名ブランドがある。私も、そこの製品を何点も持っている。最近、その会社が、小売店に対して、安売りをしてはいけないなどの圧力をかけて、「独禁法違反」で摘発?されたとのニュースを見たことがある。今回の熊本の震災では、モンベルやスノーピークといったアウトドアのメーカーが、テントや寝袋などを被災された人たちに送ったと言う。「独禁法違反」のメーカーさんも、もちろん支援の手を差し伸べたのだろうね。何もしないと、もう買ったやらんからね。あっ私が買わなくても、何ともないか。

今日もおとなしく、酔狂亭で月下独酌。

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例え、女郎であっても操を立てたものだ。

2016-04-26 10:42:42 | 日記
四月二十二日(金)晴れ。

今は、そんな女の人はいないかもしれないが、その昔(どのくらい昔だ)は、生活のために、仕方なく体を売って生活する女性がいた。戦後になってそんな「商売」が倫理上宜しくない、とおばちゃんの代議士さんたちが騒いで、法律で禁じた。その売春防止法が完全施行されたのが昭和三十三年。私は七歳で小学校の一年生だった。

私は、その時代のことは知らないが、映画や本で読んで、何となく皮膚感覚では分かる。ひところ、フイリピンやタイなどから我が国にそう言った商売を目的に日本に来る女性たちを「ジャパゆきさん」と言ったことがあった。その言葉の語源となったのは、十九世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことを「からゆきさん(唐行きさん)」と言ったことに由来する。資料によれば、「長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である」。伊豆の下田で、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの世話をした、有名な「唐人お吉」もそうだが、「唐」とは漠然と外国を指す言葉として使われた。「からゆきさん」のことは、ノンフィクション作家・山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』に詳しい。

いやはや、そんな女性の底辺史を書くつもりなどない。北国で繰り広げられている、鶴田浩二の歌の文句のような、馬鹿とアホウの絡み合いを、眺めていて、ふと頭に浮かんだのが、苦界に身を沈めた女の人たちのことだった。一説によれば、そういった不特定多数の見知らぬ客を相手にする女性にも、操を立てる(調べてみてね)意地があって、嫌な客には、決して、唇を合わせないとか、朝までの「泊まり」の客にはしなかったそうだ。しかしあまり選り好みもしていられないので、客の中で、景気の良さそうな客を馴染みにしてダンナのようにしている女性もいたと聞く。

ジタミさんという売れっ子の娼婦には、コーさんと言う馴染みの旦那がいて、金満家で鼻持ちならないが、身請けをしてくれる良いオトコが出てくるまでは、仕方なく一番の馴染みとして接している。しかし、周りの同僚からは、来た時と帰る時にお経を唱えるのが辛気臭いと、あまり評判がよくない。

最近入った、タミシンと言う名の娘は、節操がなく、寄ってくる者は誰でも良いと言うオールマイティー。肌が赤かろうが、桃色だろうが、一人でも二人の名前を使っている、アブナそうな男でも、自分がナンバーワンになるためには、なりふり構わない。多少、若いと言うこと売りにして、頑張ったが、世間というものは、やはりそういった客を選ばない、無節操なオンナの評判は、すぐ地に落ちて飽きられる。挙句の果ては、借金残してトンズラしてしまった。それも売れないことをお店のシステムにして。そうそう、お店の名前は「権力屋」だったそうだ。

暗くなるのを待って、我が酔狂亭で、ご恵送頂いた高知産の「カツオのタタキ」と、ご厚情に、感謝し「黒霧島」を相手に、世を罵り、我が不如意を嘆きつつ、月下独酌。

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