白雲去来

蜷川正大の日々是口実

「アウトレイジ」より凄い本が出た。

2013-08-31 10:33:38 | インポート

八月三十日(金)晴れ。

また真夏日となった。わが陋屋は、陽当たり、風通しが良いのが唯一の良い所。子供たちが皆学校に行き、愚妻も仕事に出ると、残っているのは私一人である。ほとんど収入のない浪人の身としては、せめて家事の手伝いでもしていないと肩身が狭い。台所の片づけ、掃除に洗濯が終わったのが十時前。

「週刊新潮」に出ていた、旧知の西岡研介氏の「伝説のやくざ」が出版した、「山口組『宅見若頭暗殺』と五代目追放劇」というショッキングなタイトルの本を買おうと思い、事務所に寄る前に、有隣堂に行くつもりで家を出た。考え事をしていたら、無意識に車を先に事務所に向けてしまった。まあいいかと車を降りて、事務所に行けば、何とポストに、出版社(宝島社)から、買おうと思っていた本が届いていた。何という僥倖か。先に書店に寄っていれば、一冊無駄になる所だった。

編集長の井野氏と西岡氏に感謝。事務所は暑いので、横浜公園の近くにあるスタバへ行き、読み始めたら、これが面白いのなんのって、止まらなくなった。いや面白いと言っては、著者とこの本に登場する人たちに失礼かもしれない。とにかく、すごい本なのだ。と同時に、頭に浮かんだのは「ここまで書いて大丈夫なの」という思い。夜になったら、のんびりと再読するつもり。岐阜の細川先生からもメールが入って「ヤバイ本ですね」。

夜は、スーパーを三軒ハシゴして、ようやく「そごう」の魚屋で「カツオ」を見つけた。カツオの刺身よりも、秋刀魚二匹のパックの方が高かったのにはショックだった。おい秋刀魚よ、あんまり上品ぶるんじゃネェよ。と一人ごちて家路についた。

Scan0001※「宝島社」刊。1429円+税。


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病床の同志を想う。

2013-08-31 10:08:00 | インポート

八月二十九日(木)晴れ。

札幌で弊社社友の梶浦直樹君と一緒に運動をしている雪田顕正氏が、何と癌であることが分かり、闘病中である。氏は近年、ご子息を亡くされた。私は、そのご子息を哀惜するあまりの思いが、しらずに氏にストレスを与えてしまったのではないかと思っている。ご身内を失うということは、その人にしか分からない渾身の悩みを伴うものなのだ。

三上卓先生の句、野火赤く 人渾身の悩みあり。人には皆「渾身の悩み」がある。政治家や評論家のように、軽々しく口にしないだけだ。

私も、五年ほど前に体調を崩し、病院を三回ほど変えて診て貰った所、内視鏡検査の結果「胃がん」の疑いがあると診断された。

そこの病院から、大学病院を紹介され、すぐに入院手続きをして、再検査をした。私の体を心配してくれた隠岐康氏から、漢方薬を頂き、入院の日まで飲んでみた。その漢方が効いたのかどうかは分からないが、病理の検査の結果、結局はセーフだった。ほとんどの医者は、信じなかったが、中には、千人に一人ぐらいは、そういった漢方で恢復する例も否定できないと言う医者もいた。

病理の結果が出るまで、正直言って心は穏やかではなかったが、野村先生の「熱い風呂に入っている時はジッとしていろ」との言葉を思いだし、まあなるようになるさ。と普通にしていた。たいした経験ではなかったが、このことがあってから何か、死生観と言えば大げさかもしれないが、人生に「腹を括る」というような諦観が芽生えた。正に遅ればせながらである。

その後、尊敬する方から、「お役に立って頂けないか」という要請があり、躊躇することなく承諾したのも、この時の経験があったからこそだ。今年は、野村先生が亡くなられてから二十年と言う節目の年だ。先生は、私たちの前で口癖のように言っていた。「人は、二十歳で死のうが、七十で死のうが、死ぬ一年前は等しく『晩年』である。だから人間は、どれだけ生きたかではなく、どう生きたかが大切なんだ」。

不安定な天気が続いている。大雨による洪水。雷による被害。野村先生の句に、「この雷鳴 ただごとならぬ国危し」がある。

終日、事務所にて仕事。六時に帰宅。子供を塾に送ってから、酔狂亭で雪田同志のご快癒を祈りつつ、月下独酌。此時一盞(いっさん)無くんば、何を以ってか平生を叙せん。


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主婦ならぬ主夫は忙しいのである。

2013-08-29 11:56:49 | インポート

八月二十八日(水)晴れ。

毎日、きっかり六時に目が覚める。起きると、すぐに朝食の準備。なにせ私は起きてすぐに朝食を食べないと調子が悪くなる。お米を食べるのは朝食の時だけ。医者から血糖値や血圧を指摘されてから、なるべく炭水化物の摂取を制限している。昼食は、日本蕎麦か、なるべく軽い物。夜は、魚とサラダが中心にメニューを考えている。もちん晩酌は別メニューだ。

だから、朝食は家族と別なものになってしまう。私は、朝はしっかりと食べる。ほとんど焼き魚と納豆かおしんこなどだが、週に一度は、どうしてもソース物が欲しくなり、定番のマルシンのハンバーグに赤ウインナー(最近はポークウインナー)と目玉焼きにキャベツの千切り。

愚妻や子供たちは、揃ってこの私のソースメニューを拒否する。また好きなメンチカツやコロッケなどは、ご飯のおかずにならい。などと言う。ケッ貧乏人の子供のくせに笑わせるんじゃない、と思うが、人の好みだから仕方がない。朝は、食事の支度や子供たちの弁当など、主婦ならぬ主夫は忙しいのである。

昼近くになって上の子供の友達が来て、一緒に勉強をしている。下の子供はもう夏休みが終わって学校にいっており、普段は、上の子供と二人なので、家の中はとても静かである。子供たちに昼食のチャーハンと卵スープを作ってやってから、調べものがあったので、野毛山の図書館に行った。しかし混んでいるので、すぐ出て歩いて伊勢佐木町の有隣堂で書籍浴。

夕方になって、みなとみらいの「生鮮館」へ行って鮮魚のコーナーを覘いたら、おおっ。あるある良いカツオが。値段は手ごろだし、ふふふと言う感じで買った。子供の友達が、夕食も一緒に食べて行くということで、子供たちには「三元豚」でポークソテーにフライドポテトを添えてあげた。その昔、下町のレストランやスナックに行くと「ポークソテー・ハワイアン風」というものがあった。ポークソテーの上に、缶詰のパインが載っているだけのもので、今思えば、何が「ハワイアン風」かと思うが、その頃は、そんな物だと思っていた。

夜は、愚妻と「あまちゃん」を見ながら、晩酌。朝が早い分、寝るのも早くなった。


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群青忌が近い。

2013-08-29 10:40:44 | インポート

八月二十七日(火)曇り。

野村先生の追悼集会「群青忌」を五年ぶりに行う。その際に会場で配布するパンフレットに、先生とご縁のあった方や、過去の群青忌で講演をして頂いた方々から、「追悼」のコメントをお願いしている。身内以外では十七名の諸先生たちである。

事務所に行けば、早速、長谷川三千子先生と藤井厳喜先生からの玉原が届いていた。封を切って心して読んだ。決して歳のせいなどではなく、感動で目頭が熱くなった。野村先生が亡くなられてから二十年。こうして追悼の思いを寄せて頂くことに門下生として感謝し、かつ誇りに思う。

これから、パソコンに入力して、また校正を見て頂いたりと忙しい日々が続く。群青忌の当日に、放映する追悼の映像のタイトルも決まり、来月の四日には、ナレーションの録音がある。いつもお世話になっている根本順善監督には心から感謝申し上げる次第です。

更に、パンフのデザインや案内状を作って頂いている、デザイナーのはが里枝さんにも、本業以外に忙しい思いをさせてしまっている。もちろん他の門下生にもだ。こうした人たちの思いを集めて群青忌は開催される。

午後二時、事務所に、お世話になっている大行社の本宮清一先輩が友人を伴って来訪。本宮先輩は野村先生の千葉時代からの同志である。一時間ほど仕事の打ち合わせをして解散。中華街で一献とも思ったが、まだ陽が高いので次回にということにした。

私は、伊勢佐木町の松坂屋の後に出来たスーパーで、カツオを仕入れた。ここはいつも中々良い物があるのだが、今日のは「都はるみ」だった。つまり「三日遅れーの」というわけ。それでも久しぶりのかつおだったので我慢して買って帰り、愚妻が戻るのを待って、晩酌。


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若い頃は演歌など聞かなかったが。

2013-08-29 10:10:02 | インポート

八月二十六日(月)曇り。

午前中から事務所。新しく入れたPCが使いやすくていい。窓を全開にして、とりあえず大掃除。それでも様々なものが通路に置きっぱなしで、どう整理して良いか分からず、出るのはため息、残るは借金か。

テレビのワイドショーでは、自殺した藤圭子さんのことばかり。そう言えば青森にいる時に、子供のパソコンでフェイスブックを開けようと「ふ」と入力すると、まずFBがあって、次は「ふなっしー」だったのが、藤さんの自殺以降は、二位が藤圭子になった。

報道によれば、藤さんと私は同じ歳である。しかし私は早生まれであるから学年は一級上になる。若い頃は演歌などはフンと鼻でせせら笑っていたから、彼女と彼女の歌う「怨歌」などに全く興味がなかった。私と同世代の者が、彼女の歌などを聞いていると、当時は「馬鹿じゃネェーの」と思ってもいた。

私が十八歳ぐらいの時に、鶴見の商店街にあったレコード店でアルバイトをしていたことがあった。そのお店に、彼女がキャンペーンに来た。大勢のマスコミやスタッフを伴って、お店でレコードにサインをしていたのを覚えている。その時の印象は、ずい分と小柄な女の子で、周りの大人がすごく気を遣っているのを見て驚いた。その当時、売れたレコードの補充をするのには、取次に「レコード番号」で注文をした。

若い頃の記憶と言うものはなかなか消えないもので、その頃、一番流行っていたのがショッキングブルーの「ビーナス」だった。確かレコード番号は「DP1694」。Pは発売元のポリドール。テイチクはTで始まる番号だった。私が当時好きだったのは、「ジョンメイオールと彼のブルースバンド」「オーティススパン」「ジェスロタル」「シカゴ」といったブルース系やニューロックなどのグループ。

そんな趣味と決別したのは、この運動に入ったことがきっかけで、反共運動が主流の時代。

街宣、ビラ貼り、集会と付き合う人たちも、当然、日本的な人たちばかりになって、飲めば軍歌や「蒙古放浪歌」といったものばかりを歌っていた。演歌を聴くようになったのは五十の後半ぐらいか。今は、ジャンルにこだわらず、いいなと思った歌手やクループのCDを買うようにしている。

ワイドショーの芸能レポーターとか言う男が、「もっと藤圭子の歌を聞きたかった」だと。CDがあるだろ。こんなことになる前に、その言葉を本人に伝えてやれよ。また、霊柩車にのっている娘に「お母さんとご対面しましたか」「どんな言葉をかけました」だって。こいつらにはデリカシーのカケラもない。

十五、十六、十七と私の人生暗かったか。こっちは六十、六十一、六十二にもなってまだ暗い。

夜は、恒例の町内のジジ・ババたちとの飲み会を「たつ屋」で行った。一時間ほどで帰宅。


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