tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方、季節のたより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

5月早朝「座禅会に参加」。

2024年05月21日 | 坐禅会

今月の坐禅会が始まる午前6時前は、空は明けていますが、

曇天では、まだすっきりしない。

6時10分前に着座、すでに幾人かの参禅者、

驚いたのは椅子席が3つもる。

 

坊守さんの撞かれる梵鐘は午前6時の時報、

禅堂の戸が開いているせいか、鐘の音は一段とすみ、お腹まで響く波長。

同時に老師の撞かれる「小鐘3つはスタート」。

 

直ぐに、老師の座中のお話がはじまる。

「道元禅師様お教えの坐禅は、まず座ること、すなわち「正身端坐」、

正しくすわることを示された。

「正しく座る」とは、まず脚を組み、手のひらを組み、腰を立て、あごを引き、口を閉じ、目を開ける事、

形が整ったら、息を鼻から出し入れする、

息の音は隣の参禅者の気にならない程度、

「微鼻息かすかに」とある。かすかにとは、微妙で気遣かいされた息の出し入れ。

「心姿すでに整のい」、「心姿」とは、正しい端坐か、息は鼻からかすかか、その姿をはっきり見極めているか。

この時の気持ち・心を「手の平の上に置く」調心という。

「身を整え・呼吸を整え・心を整える」この3つが「三信」で坐禅の要素。

これが、お釈迦様のおすすめ。

世の中を生きるのは息苦しく、いろいろに難問に当たるのが普通、

その対処方法が坐禅であることを、お釈迦様80年の生きざまで会得された、

また道元禅師様は、「それが今を生き抜く最高の方法だ」と釈迦80年の生き方から学ばれた。

それが今、座っている道元禅師様が進める「座禅」です。

老師経験の中での事例、

「死のうとは思わないが、生きていることがつらいことがある」との

悩みの人が続けられた。

そんな時、御仏の像の前に座る、ただ座っていても何も起こらない、新しい命が満ちてくるまで座るのです、

正しい端坐・3信の実行の中でそれが現れてくるものだと。

多くの悩み苦しみ、その中に自分を入れ込んでいく、一筋の光明を得る。

お釈迦様がそうだったと伝えられた。

 

「光陰矢のごとし」歳をとると、命の有りようが見えてくる、

ろうそくが自然にすり減り消えていく様、みんなが消える日まで、生き続けなければなりません

「いつかは来る死とは、生という中にある過程」、

それは一体であり流れの中にあるのです、人それぞれにみな異な思い。

それでも結果はみんな同じことに。それが

「私の身は、代々のご先祖様の命の営みが受け継がれている。そして生かされている現実、

それが今の私の命の営み」こうしたことに眼ざめること。

それがこの坐禅の中にあるようです。

老師の結びは、

「他人事でなく皆様は過去世のご先祖の生きざまを感じて生きる事を知る人々になる」、

老師が続けてきて来られた「早朝座禅会ダルマ会」が無駄ではなかったことだと」

そして、小鐘1つ。

「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、

 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と、回向唱えられた。

今日の坐禅会は、老師の心の中が申され、ひと時緊張の時間も。

私は、この後の予定があり、座後茶話会に参加せず退席。

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4月「早朝坐禅会」に参加。

2024年04月21日 | 坐禅会

今朝の気温は10℃以下で、うすら寒い。

禅堂では、すでに老師・住職など3名が着座、

座ると同時に6時の梵鐘の音。

外では歓迎の「うぐいす」の音が続く。

いい雰囲気の中でのスタートでした。

しばらくして始まる老師のお話しは聞こえない、

「検単」と呼ばれる老師の検査、うしろを一巡、やはり緊張が走る瞬間です。

そして久々の「警策」を受ける、両手を合わせ首を少し傾ける、

同時にぴしゃり(痛くは無い)と。

本当は眠くなったときなどにお願いするためですが、

全員一律にうける、儀式かな。

そして無言の時間35分。

突然、老師のお話しが始まる、いまごろからの思いもありましたが・・・。

日常生活では、善・悪などいろいろな思い、行動を経験する、

そんな時、平静を保ち、今の自分を振り返る方法として、

「お釈迦様が坐禅を」お勧めになった、

そして幾草月、中国で学ばれた「道元禅師様」が帰国後
この教えを執筆、それが「普勧坐禅儀」である。

今日は、その全篇を解説しますと、

そして20分、座る時間の長いこと、さすが足の痛さを感じる時間でした。

「普勧坐禅儀」は、坐禅の具体方法等を含む心得の書。

坐禅3つの行動基本からその考え迄。

全部の解説は分かりよく、改めてとはいえ、意味のある時間となりました。

要は、「日常の生活にこうした基本の考えを心に行動してください」、と結ばれた。

終了の鐘一つまで、しっかり60分。

1炷(いつちゅう)40分を大きく超えての坐禅会。

座後の皆で頂くお茶とお菓子は、多岐の話題で盛り上がりました。

禅堂「義宣寺」近影。

ウエルカムの野鳥も

 

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今年の「初坐禅」は自宅にて。

2024年02月07日 | 坐禅会

義宣寺禅堂での早朝坐禅会は、3月から始まります。

参禅者の寒さを避けるための老師の配慮。

 

本当はこの時期、6時からの坐禅中に外が白けて明け行く様は何とも風情、

坐禅冥利に尽きる感じを持っています。

 

そんなことから、まだ午前6時は薄暗い、この期間に座らなくちゃの思い。

少し暖かくなった「書斎で、今朝座りました」。

今年初坐禅になります。

 

正式のザブ(禅堂で使う丸く分厚い座布団の事)がありませんので、

家庭用の座布団を4つに折りお尻に敷きます。

これが難問。

仲間や老師のいる禅堂での1炷40分は、難なく座り続けられるのですが、

一人で、4つ折りの座布団、禅堂とは雰囲気の違う書斎、

頑張って続けられたのが25分間でした。

 

それでもこの間に外は白け明ける雰囲気が味わえたのは何より。

書斎には、老師の書かれた、

永平寺道元禅師「恁麼の七事」の書額を掲げ、

今一つ、以前頂いた、今は貫主、

妙心寺派の山川宗玄師の「旦坐喫茶」。

雰囲気作りました。

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今年最後の「早朝坐禅会」に参加。

2023年11月19日 | 坐禅会

昨夜来の降雨は幸い、初雪にはなりませんでした、

それでも外は真っ暗で寒い。

午前6時からの参禅会、禅堂は赤々と明るい。

私より先客は、師家の老師と珍しくご住職様ほか2名が座についていらっしゃる。

私が座につくと、同時に小鐘3つ、スタートです。

同時に坊守様の撞かれる梵鐘の音。

 

老師の座中のお話しが始まった。

「白麓山の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、

盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす」、

今この鐘の音は鳴ったかとかと思うと、消えていく、どこへ行くのでしょう。

(平家物語りの巻頭語に加えて、「白麓山」は禅堂義宣寺の山号)

この事実を、諸行無常といいます。

この事を感じて生活するか、感じなくていくか、今あって先の保証の無い事を

鐘の音の中に聞き取る、それが「信、信仰」です。

余のことは諸行無常、これだけが信です。

同じ生活をするのなら、この信を感じ生活する方が、

より大きく変わるのではないか、

お釈迦様は、この事を「結跏趺坐・正身端坐」により、

姿勢・呼吸・気持ちを整え無情の時を有情する、そのありようをお示しになられた。

それが坐禅、今、私どもはその真似事の一旦をやっている。

(そして無言の時間・ファンヒーターの風音以外は静粛の世界)

しばらくして、先月のお話しの「命の風」のお話しから仏法への帰依について、

「菩薩大師心に唱えたまえ、我等それらと一心に至る」、

と、仏法・僧などへの三方への思いを託すお話でした。(子の解説に読経がありましたが難解)

一年の過ごしたあり様を諸行無常の一つ一つを確認しながら

来る年への準備をしようではありませんか。

「明日をありと思うな、心のあだ桜」

いつの時か我が身に降りかかる無情の流れ、

この命の風に出合わなければならない時がある、それがお互いが持っている諸行無常。

休み中もご家庭で静かに足を組み、命の風を感じてください。

そんな日々が送れる事を思い合いたいと思います。

そして小鐘一つ。

「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、

我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と、回向唱えられた。

 

 

 

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10月早朝坐禅会に参加。

2023年10月15日 | 坐禅会

雨天の朝になり、自宅出立の5時40分はまだうす暗い、

禅堂内の室内灯が赤あかと見える。

 

 

少し到着が早やかったせいか、どなたも居ない?、

6時の梵鐘が始まる、午前6時でしょう、

しばらくして正しく聞こえないが、老師の読経と「検単」が始まる、

真後ろに立たれると一瞬の緊張が走る。

小鐘3つでスタート。

 

「打つ鐘も打たれる鐘ももろともに」露の事、禅のごとく各のごとし

「あると思うと消えてなくなり、無いと思うとまた響く」梵鐘一つ聞いても

それが自分で有るという一体感が大切。

花は咲き、そして散る、また芽吹く、その命の循環、

それが私達の命の循環でもあるのです。

「坐禅」は難しい事をするのではありません、ここに座っているのがその私なのです。

老師のお話は続く中で、屋外は野鳥の声、虫の声も一切聞こえず、

ただただ雨音だけの世界なっていました。

 

初参禅の人もいらっしゃるので、肩の力を抜いて楽に座って下さい、

目はすべからず開くべし、両手の平に結んだ中に、個々の呼吸、思いを包む、

その時に大切なことは、宇宙に流れる空気、「気」をつかむのです。

ここの呼吸をしっかりつかもうとする「命の風」。

(命の風について、病身の子供の頃聞いた想い出を重ねられた)

生とは死であり死とは生である、両者は一体、それらはみんなの個性の中にある。

坐禅をするのはお釈迦様が見つけた「命の風」の届く道です。

それを今体験しているのです、

「命のかぜ」ということからを飛躍したが、

その教えを享受して坐禅を味わってください。
小鐘1つで終了。

今朝は、いつもと少し変わった座中のお話、

しっかりの40分(1炷)となりました。

 

初参加の4名は永平寺町在の芸術家とか、

ご住職ご縁の都会の人達でした。

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