ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

妖怪の街

2012-12-13 05:00:00 | 

島根ワイナリーを2時過ぎに後にして、初めて見る宍道湖の北岸を走ります。宍道湖が右に見えるというだけで、私は何処をどう走っているのか見当もつきませんが、宍道湖はのんびり・ゆったりとした感のある湖でした。ずっと宍道湖の北岸を走ってるばかりと思っていたら、宍道湖を過ぎてそれに連なる中海という内湾に沿って走っていて、だんだん大山が見えてきたと思っていたのでした。

             

境港まで6kmの標識、この急で大きな橋を渡るともう少しだということになりますが、私は山陰最大の港、境港を見せてくれるのだとばかり思っていました。朝ではないので魚市場を見学できるのではありませんが、大きな港だと聞いていたので少し期待をしていたのです。

ところで走っている時は全く気が付いてなかったのですが、写真を見ると前を走る車の前がやけにぼやけています。センターラインがハッキリ写っているところの手前は黒い窪みのようにも見えますが、これは標識の影。何故前の車と標識の影の間がぼやけているのか・・・妖怪の街に近づいてきた、そのせいかも知れません。

             

境港に着き、駐車場に車を停めたところまでは境港の港湾を見れるのだと思っていました。ところが歩き始めてすぐに気が付いたのは水木しげるの描いた妖怪があちこちに佇む妖怪の街なのでした。世はここを水木しげるロードと呼ぶらしい。地図を見ると入ったところは川が流れていたので、水木しげるロードの入口から入ったのではなく途中から入ったのですが、十分その雰囲気は楽しめます。

             

もう3時半を回っていたので、西陽が差していて見難いのですが、一反もめんの籐椅子が洒落ています。家にこんな板の間があれば買って帰りたくも思えます。

             

タクシーのマークは鬼太郎のオヤジ、目玉になっています。

             

通りをずっと歩いてアーケードに入ると『水木しげる記念館』があり、この日はナントカいうアニメの催し(国際まんが博)の最終日だというので入館無料の大サービス、何の躊躇いも無しに入ってみたのでした。館の前には鬼太郎やねずみ男の着ぐるみが観光客と一緒に写真を撮られていました。

             

鬼太郎の身長って何センチだと思いますか?約130cmですって、私より大きくなくって良かった、安心しました。

             

ここは写真に撮っても良い所、カメラの絵に○印が付いています。この絵を見ているとそんなに違和感を感じないのですが、私が小さかったころの水木しげるのマンガはヘタクソだと思っていて、妖怪のマンガ作家って、所謂当時の少年マガジンや少年サンデーに連載していた水木しげるにしても楳図かずおにしても嫌いでしたね。

             

このアーケード下、その向こうの道も水木しげるロードですが、今は妖怪たちのモニュメントがずらりと並ぶこの道も、提案当初は反対者ばかり、この旅行から帰ってからたまたま境港を扱ったテレビでは賛成したのはたった2軒だけだったと報道していました。それが今は町全体が妖怪たちのお蔭を蒙って、観光客が倍増したと言います。NHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』が放映されたから観光客が増えたのか、観光客が増えたからNHKは放映したのか、どちらなんでしょうね。

             

水木しげるって、今の大阪市住吉の粉浜で生まれたそうで、私の家からはそう遠くではありません。でも実家は境港、生まれてすぐに実家に戻ったようです。高等小学校まではこの境港にいたので、このロードに水木しげるの名前が付いた由縁なのですね。私との縁はそれ位で、水木しげるの絵って、今でもそんなに好きではありません。

             

でもこういうオブジェになると、氏が描く絵よりもデフォルメされて、かわいい感じがします。絵のままではこのような像にはなり得ないのですね。

             

キャラクターはパンにもなっていますが(買ったのではありません)、どの妖怪なのか判らないものもあります。パッケージに『KOBE BAKERY』と印刷してあるので神戸ベーカリーでしょうか?神戸と境港の関係は?

             

道路の片隅でお土産を売ってる出店がテントがあり、こんなものを買わされてしまいました。3つで千円、味も量も決して高いと思わせるものではありませんでした。

日本国が先の戦争で敗戦モードに入ってから氏はニューギニアに派遣され、爆撃が原因で片腕を失くすという悲惨な目に遭っていますが、戦争に対してどういう思いなのでしょう。好きでないので氏の本をあまり読んではいませんが、何となく(戦争は)負けたから悲惨なのであり、勝ち続けていたらそうでもないという考え方ではないかと思える節があるのですが、私が水木氏や鬼太郎を好きになれないのは、そういう風に感じさせるからなのかも知れません。

                  gooリサーチモニターに登録!

島根ワイナリー

2012-12-12 05:00:00 | 

ブログを綴り出してからというもの、沢山の寺社仏閣を巡り歩いているつもりの私ですが、別段仏や神に対して敬ってるとか、仏像や神像を崇拝しているとか、私と同じ人間が造り出した神や仏に対して頭を下げようという気持ちは全くありません。弥生時代のアニミズムでもあるまいし、拝殿の前で祈っている人も本当に神様が願いを聞き届けてくれるとは思ってないでしょう。自分の願い事を叶えるのは自分の努力でしかありません、自分が何もしないで神にのみ頼っている人なんていないと思うのです。なのに何故皆さんは神社やお寺へと行ってお金まで払って、お願いをするのでしょうか。自己満足ですかね。

             

これは西の末社十九社、東側にも同じように十九社あり、私たちが行った時期には全国の神々が出雲大社に集い、この東西の十九社に泊まるのだそうです。面白い考え方ですが、こんなことをされたら、全国どこの神社に行っても願いを聞いてくれる神さんは居ないということです。まぁ元から神が願い事を聞いてくれるなどと思って参っているのではないのですから、困ったことにはならないんですがね。

             

19の末社より奥にあった素鵞社、スサノオを祀ってあるとか、スサノオがやっつけたというヤマタノオロチの話も出雲の神話でした。まぁ、侵略を正当化する話なんでしょうけどね。右の舎では砂を入れてある桶が二つあって、右の桶の砂を左の桶に移している参拝者がいましたが、いったい何を意味しているのか未だに分かりません。

                       

一旦本殿のある境内の雑踏から逃れるように外へと出ると、今日の最初の写真の神楽殿があり、これまた立派な建物に立派な注連縄です。来た時から見えていた大きな国旗は、神楽殿の前にありました。

             

もっと外へ出てみると、出雲大社と彫られた碑がある門があり、入り口はここかいなと思ったのですが、そんなわけないですよね。でも文化財云々の立札も立っています。

             

本殿を囲むように水路があり、その周辺を彩るモミジ、もうそろそろ終わりの感があります。

                       

水路脇にあった『勤王士 松本巌遺跡』との彫り込み、神=天皇だと考えると勤王の志士の碑が神社内にあっても不思議はないのですが、松本巌って誰ですか?

             

先日、漫画展に行った折に梅田の地下街で出逢った昔の職場の知人がいましたが、その娘さんが出雲大社で結婚式を挙げると言っていました。ここが出雲大社の結婚式場らしい、その家の名前が出てるかな?たまたま私が出雲大社に来た日がその娘さんの挙式の日なら、凄い縁を感じるのですが、その人の名前はありませんでした。

             

もうそろそろ1時前にもなっていて、夕食のことを考えると早く昼食をとりたいのですが、そば屋(別に蕎麦でもいいのですが)ばっかりで、しかも混んでそうなので、なかなか店に入ろうという気がしなくて、いっそ次に行く予定の島根ワイナリーで食べようということになりました。

島根ワイナリーまではそんなに遠くはなかったけれど、試飲ばかりしていると結構時間がかかって、昼食を終えたのが2時前になってしまいました。このことが後々応えたかも知れません。

             

九州の田主丸のワイナリーで試飲した時は、N田君も私も飲みました、後は奥さんに運転を任せられたから。でも今回は奥さんが免許を持っていませんから、S木さんにはジュースを試飲しておいていただきました。その代り奥さんが私と一緒にたくさん試飲していました。

                       

田主丸のワイナリーでは巨峰のワインなど試飲しましたが、巨峰の味など感じなかったし、私の車で来たのではなかったのでお土産には買わなかったのですが、今回は車ですし、結構美味しかったのでお土産に買って帰りました。『ENMUSUBI』などと出雲大社に因んだ名前がダサいのですが、味は結構いけますよ。

                  gooリサーチモニターに登録!

出雲大社

2012-12-11 05:00:00 | 

近頃、コナンや鬼太郎のキャラクターを使った山陰地方へのお誘いが目につきます。そのようなマンガにはあまり興味がありませんが、神話の国と言われる出雲地方へは一度行ってみたいと前々から思っていました。因幡の白ウサギの話は小さい頃から聞かされていて、山陰の海岸での話であることも知っていましたが、大国主命がウサギを助けた後、話はどうなったのか覚えてはいません。話がそこで終わっているなら、サメに皮を剥がれたウサギに海水に浸かれと言ったように、神々の中にも惨いことをする奴はいるのだし、サメを騙したウサギまでもが助けてもらえるというのは、親鸞の悪人正機説そのものです。

             

そのような真偽を確かめに行くのではありませんが、ソフトボールの試合が終わって飲んでいるうちに出雲へ行きたいような話をしたのか、よく島根へ行くと言う同じ部員で私より年配のS木さんが覚えてくれていて、先月の25・6日に行こうと誘ってくれたのでした。

             

7時に私のマンションまで迎えに来てくれたのに、忘れ物があるというのでS木さんの家まで戻り、そこから再出発(と言っても5分もかかりません)、10時前にここ蒜山サービスエリアに到着です。眼前に聳える冠雪した大山、標高1700mもある山は和歌山では見ることがありません。その偉大な姿に感動でした。ここからは高速道路だけ(地道は知らないので)私が運転を交代しましたが、出雲ICを降りても右とか左とかまっすぐとか指示を出すだけで交代してくれません。とうとう出雲大社の手前まで来てしまいましたが、そこから車が渋滞で動きません。やっと信号まで辿り着いたので左折して迂回、スムーズに行けたのに駐車場の手前の信号からは左右から車が入ってくるので、またまた動かないのです。

             

結局、駐車場に停めれたのが12時過ぎ、日曜だったので混んでいたのかも知れません。ただ車の数の割には人の数は少ないようですが、みんなが必ず行くようなところは列をなしていました。この手水所でも人の山、私は土を触ったのでもなく、手は汚れていないので洗わんでもエエと思っています。これは順番、必要なことだと思っている人も多いらしい。手が汚れていたら、この水を借りて私も洗いますよ。でも流れている水道水のほうがきれいになるような気がします。

             

手水所を過ぎればいよいよ境内です。こういう風に撮っていると、参拝者は少ないように思えるでしょ。

             

でも、拝殿の前は列を作って並んでいるのです。空いてるところもあるのでそちらで拝めばと思うのですが、拝む所は決まっているようです。

             

大きな注連縄の前が混雑しているでしょ。私などは手前の空いてるところを使ったらエエやんと思ってしまいますが、それはダメとS木さんの奥さんに言われて、「ここは二礼四拝ですよ」と更にダメ押しされて、仕方なく列の後尾に並びます。私の順番がやって来ますが、私の前の人のお願いがイヤに長かったのです。やっとのことで私の順番になり、お願いするようなことも無いので、出雲の神さんが叶えてくれそうもありませんが、世界から戦争が無くなるようにとお願いしておきました。

             

神さんですから、賽銭の多寡は問わないだろうし、その金額によって願い事を無視したり、成就させたりすることもないだろうと思って、賽銭はあげず、ただ先の願い事をしただけです。これで私の願い事が叶ったら、私はきっと出雲の神さんを信じるようになるかも知れません。それにしても大きな注連縄です。

             

出雲大社と言えば昔の神殿が復元されたと聞いていました。物凄い階段の上に神殿が祀られていたような記憶があるのですが、あれは模型だったのか?因みにこの三つの丸に接する大きな丸がその階段の柱跡だとか。

             

来年はこの出雲大社も遷宮の年だとか、伊勢神宮も然り、本宮大社も神門を修理していました。伊勢神宮は20年に一度でしたが、出雲大社では60年に一度なのです、ならば私の生まれた年にも出雲大社は遷宮の準備をしていたのですね。この少しだけ見えている本殿の屋根は、私が生きてきたのと同じ年数、ここで佇んでいたことになります。未だきれいやんと思うのですが・・・まぁ、伊勢神宮ほど無駄遣いはしていないようです。

                  gooリサーチモニターに登録!

中辺路

2012-12-10 05:00:00 | 

10時半に本宮大社を後にして、国道311号線を田辺方面へとほぼ西に向かって走ります。田辺から高速で大阪まで2時間ぐらいですから、1時ごろまでに田辺に着けば3時には大阪に到着しますが、私が降りる湾岸線の大浜から梅田までどれ位かかるのか、自分の家より梅田方面へは滅多に車で行かないので不安でしたが、湾岸線に乗ると梅田の中心街からどんどん離れていくし、近畿道を通ってどう阪神高速で梅田方面へ行くのかもよく分かっていません。どうしようかと思いながら、どんどん車は西へ進みます。

             

30分程度で近露へ、そこにも以前には無かった『古道歩きの里ちかつゆ』が建っていました。観光バスも来ていて、ここで昼食をとっています。私たちもそこでしばし休憩、確かこの辺りに近露王子があったはす、一度訪れているのですが、何処だったか思い出せません。この橋を渡って、そう遠くは無かったと思うのですが・・・

             

橋の下を流れるのは日置川、方向で言うと西の方が海なので日置川の河口になります。でも流れはその西の方から流れてきています。海の方から山の方へ流れてるやんと一瞬頭がこんがらがります。実際にはこの場所では西から東へ流れているものの、大筋では北から南へ流れているのです。旧の日置川町(今は白浜町に編入)は田辺よりずっと南にあるのです。この道路(県道217号線)を反対方向へ走ると国道317号線と合流、合川ダムを経て日置川河口へと辿り着くのです。

                        

福定の大イチョウをバックに眺めながら車を進めます。また30分ほど走って中辺路の出発点と言われる滝尻へ、ここには熊野古道館があり、以前来た時よりはずっと整備されていて、熊野古道のことがよく分かるようになっていました。

             

そして道を挟んである滝尻王子社へ、以前は胎内くぐりというようなところまで歩いたような記憶があります。でもこの日はそのようにゆっくりしている時間も無いのです。時間はもう12時、この日のうちに福岡へ帰らなければならないN田君の奥さん、夕方は娘さんと夕食を共にするとか言ってたけど、なるべく早く梅田に着いておかないとね。

             

当初は奥さんの方が長く居れるようなことを言っていましたが、来てみれば逆、N田君は次の日は同じ福岡からやってきた尼崎センタのH田君と合って飲むのだと豪語していて、結局帰ったのは次の日曜日だったとか、そりゃそうでしょ、私たちの最終日は21日、次の日年休を取れば23日からまた3連休だったんですものね。

熊野古道を歩くのに車で行くのは少し無謀なような気がします。運転手は歩けないからなのですが、一旦歩いて行った道を車まで戻ってくるのは時間が勿体ないですもの、それだけの時間があればもっと先に進めます。熊野古道を歩くなら、今度は電車やバスを使って、もちろん装備もトレッキングスタイルで、語り部を雇って歩きたいものですね。

                       

今回の旅の話はこれで終わり、普段は第3日曜は(この月は18日だった)ソフトボールの試合も練習も無かったのに、急遽試合が入ってしまい、最初の予定からすれば日程は1日減ってしまいました。そのお蔭で熊野三山の内の一つである那智大社には行けなくて、その辺りにある青岸渡寺補陀落山寺には行けませんでした。姫の家に一泊してもらえれば、追加料金もたいしてかからなかったのですから、N田君夫妻にはいつか再度那智大社近辺をゆっくりと楽しんでいただきたいと思っています。

                  gooリサーチモニターに登録!

熊野本宮大社

2012-12-07 05:00:00 | 

大斉原から5分ほどで本宮大社の鳥居の前に、そして神倉神社から比べると随分楽な階段を登って、神門前に到着です。この本宮大社へは何度も来たことがあって、4年前の3月に一度紹介していますから、今回は前回気が付かなかった、或いは紹介していなかったものを取り上げます。当時から比べると綴っている内容が複雑さを増しているかと思うのですが、それも働いていないので時間が有り余っているからだと思います。

             

先ずは神門ですが、改修中です。せっかく九州から来てもらったお二人にこのような玄関口を見せるにあたっては甚だ面目次第もなく、心苦しいのではありますが、まぁ何十年に一度の改修なのでしょうから、その僅かな期間に偶然来れたと思えば、考え方も180度変わって、ラッキー!などと思えるかも知れません。でも神門の改修を見に来たわけではありませんもんね。

             

こじんまりした石塔がありますが、立札には和泉式部の詩が二首、“晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて 月の障りとなるどかなしき”本当に和泉式部が熊野詣に来たのかどうかは分かっていませんが、熊野の聖地に入る前に不浄な身に陥ったので、神の坐す本宮には入れず残念だと詠んでいます。その夜熊野権現が夢に現れてもう一首“もろともに塵にまじわる神なれば 月の障りも何かくるしき”と、そう返歌したので式部は参詣できたというわけだそうです。

             

元来、熊野詣の信仰は昨日綴った一遍上人が創始したと言われる時宗の念仏聖が広めたものであり(神道でも修験道でもなかった)、念仏聖は、熊野の神は男女や貴賤、浄不浄を問わないという熊野の神の有難さを和泉式部を担ぎ出して、話を作ったのでしょう。

             

また反対側には後鳥羽上皇の“はるばるとさかしき峰をわけ過ぎて おとなし川を今日みつるかな”の詩が記された碑があります。この熊野本宮大社は現在の地図で見ると熊野川と三越峠辺りを源流とし熊野川へと注ぐ音無川とに挟まれてありますが、音無川は小川であり後鳥羽上皇は中辺路からこの音無川沿いの道を通ったのではないかと推察するのです。更に昨日の大斉原では熊野坐神社は熊野川・音無川・岩田川が合流する中州にあったとされていましたが、岩田川と言う川は地図には見えず、見てきた限りでは中洲のような感じではありません。


             

後鳥羽上皇について調べてみると、高倉天皇は清盛と政争を続ける後白河法皇の第7皇子で母親は平滋子、二条・六条と二人の天皇を経て、天皇になり平徳子との間に後の安徳天皇を設けますが、平氏一族が安徳天皇を擁して京から落ち延びたので、天皇の居ない都に是非とも天皇をということで位に就いたのが高倉天皇の第4皇子の後鳥羽天皇です。当時、安徳と後鳥羽の二人の天皇が居たのですが、奇しくも異母兄弟の間柄だったのです。もう大河ドラマ『平清盛』も最終盤ですが、このところ展開が早過ぎて面白くないですね。

                       

八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている霊鳥ですが、今年の拝殿の前に有る幟には“強”の字が見えます。神社はこのお蔭でロンドンオリンピックでの活躍があったと自慢しているのですが、神さんが付いているなら優勝させよなと思うのですが、それは神さんを信じない者の戯言でしょうか。

             

境内にあった見慣れない黒いポスト、境内で売られている手漉き和紙(音無紙)で作ったハガキを境内で買って、心の籠った手書きのハガキをこのポストに入れてくださいと、大斉原の前の掲示板に書かれていました。普通のハガキだったらどうなるのか、音無紙のハガキは切手無しで投函できるのか、切手が要るなら境内でも売ってるのか等が疑問です。八咫烏の黒色を醸しだしたポストはユニークですが、急にハガキを出せと言われても、そう簡単には出そうと言う気にはなりません。

                       

この大樹は多羅葉(たらよう)の木と呼ばれているもの、インド原産の常緑樹、昔はこの葉の裏に針などで経文や手紙を書いたと言われ、ハガキ(葉書)の語源となったと立札に書いてありました。この樹があるので黒いポストを考案したのかも知れませんね。

             

社務所奥のモミジもきれいに紅葉していました。

熊野本宮大社は全国に3000ある熊野神社の総本宮、今年は久留米にある全国の水天宮の総本宮にも行って来ました。

                       

この樹は駐車場横にあったイチイガシ、本宮町の木だそうです。稲作が伝来するまではこの樹の実を食用としていたようです。昭和62年に本宮町の木として制定されたとのことですが、田辺市となった現在はどうなっているのでしょうか。

大斉原から熊野本宮大社、僅か1時間程度の散策でしたが、結構中身の濃い行程となりました。

                  gooリサーチモニターに登録!

大斉原

2012-12-06 05:00:00 | 

最終日、9時にホテルを出た私たちは、少し戻って熊野本宮大社へと車を走らせます。前日のうちに本宮大社へ参っていたなら、朝から中辺路をゆっくりと散策できたのですが、ここまで来て本宮大社に参らないわけにはいきません。いや本当はここまでくれば那智大社へも参らなければならない筈なのですが、那智大社へ行けば青岸渡寺や補陀洛山寺も見ないわけにもいかず、新宮からなら車で1時間とかからない那智大社なのですが、今回はN田夫妻に神倉神社の階段も体験していただきたかったので、熊野三山制覇は諦めてもらいました。いやはや伊勢から下って熊野まで、時間がかかり過ぎましたね。

             

久し振りに来た熊野本宮大社、何となく前来た時の風景とは違うような気がして、駐車場が何処にあったのか思い出せないまま、前来た時は大社への階段の左に停めた筈だと思いながら、右手にある大きな駐車場に車を停めました。当然二人は本宮大社の鳥居の方へ歩いて行こうとしますが、それを制止して反対側の川の方へ案内します。細い道を通って三叉路に着くと右にとてつもなく大きな鳥居が目に入ります。大きな鳥居に向かって右手に熊野の山々を見なたら歩きます。

             

藤原定家の熊野御幸』では、京都からこの熊野本宮大社まで12日で到着していますが、今から800年以上前ですから今のような道も無いし、上皇や高級貴族らは自身で歩くわけも無く、山の中を輿を担いで上り下りしながら京から熊野まで300kmあるとしても、12日で到着するのは大変なことだったでしょう。彼らは今の本宮大社ではなく、この大斉原(おおゆのはら)と呼ばれているこちらに詣でていたのです。

                       

周りの木々を見てもこの参道が新しく造られたものであることが分かります。明治22年夏、熊野川の大洪水でここに佇んでいた熊野坐神社は3棟を残すのみで、殆んどを流出していまい、残った3棟を今の本宮大社に遷したのだそうです。

             

以前はここに幾つもの社殿が並んでいた敷地、正面には黄色く色づいたイチョウ、赤く紅葉したモミジが色を際立たせています。無断で写真を撮るなと書かれていましたが、何処に許可を求めに行けばいいのかも分からず、まぁ商用に使うんでもないのですから、ちょっとぐらいは良いのでしょう。因みに監視カメラを設置しているとも書かれていましたが、未だに文句を言ってこられていません。

             

ここに神社があったことを示す石塔、幟には正還座百二十年大祭とあり、洪水で流出してすぐに今の本宮大社に還座したことが分かります。

             

この頃のイチョウは何処で見てもきれいに色づいていて、中辺路沿いの福定の大イチョウや光泉寺の子授けイチョウのことも頭を掠めましたが、古座川奥まで行くことは出来ませんが、福定の大イチョウはこの後見れるだろうとは思っていました。

             

智真という僧がこの熊野で逗留し、百日の参籠の後、聖神の霊告を受け一遍と称して全国への遊行賦算をこの熊野の地から初めたと書かれていました。この“南無阿弥陀仏”の字は一遍上人のものとも書かれていましたが、相当ディフォルメされた字であり、ちょっと信じ難い話です。

             

この境内ではしてはいけないことがたくさん書かれていますが、車の進入は禁止では無さそうです。でも自転車でも放置はダメだそうで、放置と言うのはどの位の時間を指すのか、廃棄ではありませんから、車を取に戻るということなのですから、そのダメな時間を設定しなければなりません。このように車が停まっていて人が居ない状態は放置ととも取れるのです。この車はどうやら川との間で農作業をしている人のもののようです。

             

一通り見学して元来た道を本宮大社の方へ向かいます。右手にもう一つ神社が見えるので行ってみることにしました。途中のコンクリート製の石垣に設えてある水抜きの管にヘビが入ろうとしるのをN田君が見つけて騒いでいます。もう寒い時期なのに呑気なヘビだと思いました。動いてなかったら誰も気が付かなかったと思います。

             

本宮大社の末社の産田社でした。

             

引き返そうとすると、今度は違うヘビ、色もケバケバしいですし、今度はこちらを頭にしています。さっきのヘビを見ていなかったら注意してなかったと思うのですが、ケバい色のヘビには気を付けろと言いますから、用心して通りました。赤い舌をチョロチョロと出し入れするのが気色悪いですね。来年の干支に当たりますが、未だ出てくるのはチョット早かったですね。

             

産田社からの大鳥居の眺め、今回が初めてだったN田夫妻は、この鳥居の大きさに仰天したことでしょう。

京から大阪、田辺まで来て、中辺路を歩いて来た熊野詣の一行は、この大斉原の河原から船に乗り、速玉大社を目指したのでした。この区間だけが楽な行程だったのでしょうね。

                  gooリサーチモニターに登録!

速玉大社から神倉神社へ

2012-12-05 05:00:00 | 

花の窟神社を二時過ぎに出て、七里御浜を左に一路南下、道の駅ウミガメ公園を通過すると、バイパス道路が出てきます。これは以前から工事中だったのですが、完成しているのかどうか分かりませんし、何処に出るのかも知りませんから、またまた海沿いの道を走ります。5年前のナビは熊野川に架かる新しい橋が出来ているのに旧の橋を指示するので、速玉大社へは橋を渡ったところで右折しなければならなく、新しい橋からの車を避けながら右折するのは危ないじゃないか、HDDナビなどと言うからネットに繋げば更新できると思っていたら、そうは簡単にはいかず、お金も要るみたいで面倒臭いので更新はしていません。ナビもそうですが、自分自身の情報も旧態依然、更新できてなくてもどかしい次第です。

30分ほどで速玉大社に着き、熊野三山のうちの一つを参拝、私は数回来ているので散策、以前紹介してないものの写真を撮りました。

             

天皇の靴の跡だとか、けったいなものを碑に残すものですね。靴跡なんか無数にある筈なのに残しておいて何になるというのでしょう。碑には両陛下御靴跡と彫られてありますが、どの時代のものなのかよく分かりません。そんなに新しいものでもなく、今生の人のものでは無さそうですが、靴跡ですから靴を履いていた時代のもので、孝明天皇と呼ばれた人以前のものではないでしょう。だいたいこの岩はセメントで出来ているのか?普通、岩に靴跡など残る筈がありません。

                       

これはどうやら弁慶の像、弁慶は紀伊田辺の出身だとされていますが、何故速玉大社に像があるのか、弁慶の父親は湛増、湛増は保元の乱で敗れた源為義の娘・丹鶴姫、弟は新宮十郎行家(そろそろ大河ドラマ『平清盛』に出てきます)で、丹鶴姫の娘の亭主が湛増であり、湛増の息子が弁慶だという伝えがあるのですが、伝承があるだけで確証はありません。神社と言うものはかくも実証に乏しいものでも、伝承があれば飛びついて自慢したがるものなのですね。

             

神社の外には佐藤春夫記念館というのがありますが、何度来てもこの館には入ったことがありません。だって文豪と書かれてはいるものの佐藤春夫なる人物も書物も全く知りません。中上健次なら多少は知っているのですが、そちらの方の記念館は無さそうです。ふるさとの文豪は何も佐藤春夫だけではありますまい。

             

そしてはるばる九州から新宮にやって来た二人には是非行ってもらいたかった神倉神社へ、前回はナビ通りに走って進入した道を間違ってしまいましたが、今回は未だ覚えているかと不安でしたが、どうやらそこまで耄碌はしていなかったようでした。

例の階段の前でみんな仰天(みんなというのは彼の函館から来ていた人も含めて)、旦那さんと思しき人も私たちに何度も遭うので苦笑いしています。私は次に何処へ行かれるのかと尋ねてみたかったのですが、そのチャンスはありませんでした。皆さん階段を登って行きますが私はご遠慮、新宮で少しは有名な香梅堂のお菓子を買いに速玉大社の近くまで歩いて戻りました。

             

神倉神社は山腹のゴトビキ岩とゴツゴツとした急な階段がとてつもない特徴である神社で、他には何もないと言ってもいいぐらいの自然派的なもの、でも速玉大社の飛地境内摂社なのです。神倉神社への入り口には小さな橋がありますが、その正面にある猿田彦を祀った祠があります。その横に水が流れていて、小さな滝になっているのを見つけましたが、残念ながら危険なので登ってはいけないと注意書きがありました。

             

42号線から神倉山の中腹に見えるゴトビキ岩と社、冬の4時前だったのでもう陽が傾き、逆光になって見難くなっています。

             

この日は熊野本宮大社までを行動の範囲と思っていたのですが、新宮から3~40分かけて到着しても、暗くなってしまって印象も良くないので翌朝に回すことにし、今夜の宿わたらせ温泉のホテルやまゆりに直行です。熊野川沿いの右岸の道を遡って行くのですが、途中左岸側の道が去年の台風の影響なのか、土砂崩れに遭い道が寸断されたままの状態に置かれているのが何ヶ所も見えています。

             

5時にはホテルに到着、チェックインを済ませ、ここではN田君夫妻とは別の部屋も取れていたので夫々の部屋へ、早々に西日本一の広さを誇ると言う露天風呂を満喫しました。もう暗くなりかけていて、電気を点けてくれないと周りがよく見えませんが、この時期に及んで未だ節電しているのでしょうか。N田君の奥さんはとても感動したそうですが、私は何度も来ているので、以前とは同じ筈なのに、少し狭くなったように感じました。夕食は前日の大江戸温泉物語とは打って変わって、コース料理です。この方が落ち着いていて、いい感雰囲気ですね。ゆっくり出来たのでアマゴ酒を飲み、翌朝の計算書を見ると焼酎を12杯も飲んでいました。3人で12杯なら大したことないけど、奥さんはあんまり飲んでない筈ですからね。6時からと頼んでおいた夕食、食堂を出たのは9時を回っていました。

             

いつ眠ったのかも分からず、いつもの起床時間を大幅に遅れて起床、朝湯をして、朝食を食べます。これまた量が多い、車を運転しなければならないのでビールは飲みませんが、温泉粥なども出て、少し食べ過ぎました。

                  gooリサーチモニターに登録!

花窟神社

2012-12-04 05:00:00 | 

鬼ヶ城での散策を終え、次に見ようと思ったのは獅子岩ですが、もうすでに1時をだいぶんオーバーしています。確か獅子岩を見る絶好のポイントに喫茶店があったのを思い出し、そこで食事をしながら獅子岩を眺めることにしました。獅子岩は去年の夏に紹介していますから、ここでは私は写真を撮りませんでした。実は鬼ヶ城と獅子岩は『熊野の鬼ヶ城 附 獅子巌』と一対にして国の天然記念物に指定されている景勝地です。鬼ヶ城を過ぎると、そこまでは志摩から続くリアス式海岸が途絶え、途端に七里御浜と呼ばれる全長22kmにも及ぶ砂浜ではなく小石の浜が続くようになります。鬼ヶ城から獅子岩までは約2km、歩けばそこそこ時間がかかりますが、車なら一瞬です。

                       

N田君はしきりに海岸へ降りたがっていましたが、喫茶店からは降りるところがなく、獅子岩を回ってしか降りれないので諦めていました。そしてそこから、500mほど先の花窟神社を見てもらうことにしたのですが、昨年8月に訪れた時に車を停めた鳥居の前の駐車場は無くなってしまい、代わりに何棟かの建物が建っていました。僅か1年余りの間に全く違ってしまった周囲に戸惑ってしまいます。駐車場はその建物の新宮側に新しく造られており、新宮方面から来ると判り易いものの、尾鷲方面から来ると分かり難い所に有ります。だいたいこの花窟神社自体が国道沿いなのに判り難く、空き地の関係もあったのでしょうが、新宮方面から来る人には神社より先に駐車場や新しい建物が出来ているので判り易くなっているということは、名古屋方面からの客より、大阪方面からの客を当て込んで造ったのだろうと想像してしまいます。

             

安政年間に河口を切る工事で9名の人足が亡くなったとの案内板、昔は海からの冠水を防ぐのに命がけだったと書かれていますが、私は安政年間ってそんなに昔ではないと思っているのです。私が生まれるたかが100年足らず前のこと、幕府はかなり高度な土木技術を持っていたはずです。ただこんな片田舎の難工事までは手が回らなかったのでしょう。

                       

N田君はここから海辺へと降りていきました。おそらく裸足で足つぼマッサージを堪能したわけではないでしょうが、伊勢神宮から欲しがっていた白黒の小石を3つ持ち帰ってきていました。

奥さんと私は神社の境内へ、そして御神体の岩の前に立ちました。10月2日に掛けられたと言う綱、その時には垂れ下がった綱の先には花が付けられていたそうです。

             

この時写真を撮っていて気付いたのですが、鬼ヶ城で写真を撮っていた人が、ここでも私たちと同じように写真を撮っています。私とは違って本格的な一眼レフのデジカメでしたが、その時一緒だった女の人(奥さんだと思う)が、奉納帳に住所を書き込んでいるのを見て、函館・・・はるばる「北海道から来てるやん」と思ったのです。何故その人が奉納帳に書き込んでいるのを見たのかと言うと、その前にN田君の奥さんが記していて、そのままの場所でいろんな書き物を見ていたからなのです。ところで何故その人たちのことを書いたかというと、次に行った速玉大社、その次に行った神倉神社でもその人たちに遭ったからなのでした。

             

絵馬石奉納所と書かれたところに置かれた石々、いろんな願い事が書かれていました。丁度その時にN田君が石を持って帰ってきたので、「その石に願い事を書いて、ここに奉納したら」と進言したのですが、どうやら石は持って帰ったようです(確認はしていません)。

             

ここが新しく建った土産物売り場のような建物、食事も出来るようになっていて、「地鶏の親子丼が美味そう」とN田君がしきりに言うので、先に分かっていたらここで昼食をとっても良かったのにと思ったのでした。

             

私はここで熊野地鶏とキジ肉をそれぞれ冷凍したものをお土産に買いました。熊野地鶏などあまり聞いたことがありませんし、そういう地鶏を大阪で売っているのを見たことがありませんでしたが、翌日の帰った日は丁度いい具合に解凍できていましたが、しんどくて食べれなかったけど、そのまま冷蔵庫に入れて次の日に鍋で食べたら地鶏らしく硬めであり、かと言って噛み切れないわけでもなく、良い味でしたよ。キジ肉など日本の国鳥なのに食べても良いものかと逡巡するのですが、自分で撃って殺したのでもなく、売っていたのですから、勝手にいいんだろうと思って美味しくいただきました。考えてみれば、違法ドラッグが売られているからと言って、そのようなものを買って使用するなど以ての外なのですがね。

                  gooリサーチモニターに登録!

鬼ヶ城

2012-12-03 05:00:00 | 

浜島を後にして、リアス式の海岸を走ります。行ったことは無かったけど、スポーツ新聞の釣り情報欄等で見受けられた、迫間浦、阿曽浦、贄浦などの漁港を通過、意外に思ったのはそういう港では釣り堀が多くなっていたこと、私が興味を持って見ていたのは磯釣り欄ですから、安易に釣れる釣り堀が多くあるのは残念です。道は良くなっているとは聞いたものの細い道や急な山を登ったりしたので、1時間以上かけて伊勢まで戻り高速道路で南下した方が早かったかも知れません。錦を超えて国道42号線の標識が見えてきたので、ナビの案内には従わず、42号線に入りました。そこは紀伊長島、すでに高速道路は終わっていて、海岸沿いの道で来ても、高速で来てもここから先は同じです。

             

相賀の手前で紀勢自動車道・無料区間という標識がありましたが、到達先が何処か判らない(戻ってしまっては元も子もない)ので下道を走ったのですが、尾鷲まで来ていたようなので自動車道を走った方が楽だったようです。尾鷲の中心街を抜けると今度は熊野尾鷲道路の標識がありましたが、これも完成しているのかどうか分からなかったので下道を走りました。長く走ってないと新しい道が出来ていてもどうなっているのか分からなくて、下手に走って出口がとんでもない所に出ても困りますからね。熊野尾鷲道路はこの上の写真、海の向こうに見えている道に繋がっているようでした。

                       

12時を回って鬼ヶ城に到着、朝食が多かったのでお腹は空いていませんが、夕食のことを考えるとそろそろ昼食にしなければなりません。

海に向かって佇む鬼らしき像、最初見た時はトトロかとも思ったのですが、背中に何か書いてあるようです。“昔、熊野の鬼たちはここに集まり棲んだ。彼等は風に髪を飛ばし、渦を啖い、夜はよもすがら岩を揺すぶる波濤の音の中に眠った。月明かりの夜より雷鳴の夜を好んだ。二本の角は稲妻の中で生き生きとした。 -鬼ヶ城にてー 井上靖”とあり、海に面した方には顔があったわけではありません。補陀洛渡海記といい、この鬼ヶ城の碑といい、きっと井上靖はこの熊野の地にやってきて、あれこれと考えたのでしょう。

             

鬼の像の横にあった案内板、読めるので再掲しませんが、1,5kmもある沖の島に居る鬼を弓矢で以って射ることは不可能です。伝説は伝説で良いのですが、尤もらしい現実味のあるものにしないと、これから後の世には伝わらないと思うのです。

             

これが魔見ヶ島でしょう。こちらから弓を射て、100m飛んだとしても、矢はきっと目の前に落ちるように見えますよ。

             

鬼ヶ城の岩場、磯釣りには向いているようですが、上からは降りていけそうにもありません。

             

鬼の家という土産物屋があり、両サイドに鬼の像が立っています。車で来たので写真は撮っていませんが、この鬼ヶ城の入り口にも鬼の像が立っていて、これは曾て橋杭岩に置いてあったものと同じものだと思います。

                       

歩き始めるとすぐにお地蔵さんの祠がありました。

             

ここが鬼の棲家だったのでしょうか。

             

屋根があり、地べたも広いのでたくさんの鬼が棲んでいても不思議ではありませんが、井上靖の言うように雷鳴轟く夜の方を好んだのなら、とりわけ屋根など要らないのでしょうがね。

             

ここなどは完全に後世の人が作った階段であり、余計にも『奥の木戸』などと名前まで付けてしまっています。

                       

このように見ると、これから先には行けないように見えますが、ちゃんと道を拵えてあるのです。私は何度かこの鬼ヶ城に来たことがありますが、以前はこんな先まで来たような記憶がありません。行ったのに覚えてないのか、道が無かったから行かなかったのか、それさえも覚えていない耄碌ぶりなのです。

             

このように通れないようなところには橋が架けられてあり、手摺りもずっと続いているので、体力さえあれば簡単に行けるのです。私は早く昼食を(或いは昼食など要らん)と思っていましたが、彼らはどんどん先へと進んで行きます。この時すでに12時40分です。

             

沖からではなさそうですが、漁船が走ってきました。こういう穏やかな日は船に乗ってこちら側を見るのも一興でしょうね。実はこの鬼ヶ城の上にはハイキングコースもあるらしく、串本からここまでなら2時間はかかるでしょうが、春には約2000本のサクラが咲いてきれいらしく、一度鬼ヶ城山頂にも登ってみたいと思っています。

             

ずっと先の方まで歩いて行ったN田君、この先では釣りをしている人が居たそうです。そこで諦めて帰ってきたのですが、元の駐車場に戻ると1時を回っていました。42号線はこの鬼ヶ城の山の下がトンネルになっているのですが、トンネルを抜けて振り返ると手摺りが見えたので、鬼ヶ城の散策コースはこの小さな半島を半周しているのが分かりました。でもこちら側に歩いて来ても、車は元の駐車場に停めてあるのであり、こちら側から手摺りのあるところまで行けるかどうか分からないので、絶対来た道を戻らなければならないのです。それって結構しんどいですよ。

                  gooリサーチモニターに登録!