じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ベシサハールへ No.4

2013-12-10 20:08:59 | ネパール旅日記 2013
 11月8日 金曜日

 今日はカトマンズからトレッキングのスタートの地ベシサハールへ移動する。
ドルジが朝六時に迎えに来ると言っていた。
自分は4時半に起きてしまい、暇を持て余してTVのスイッチを入れた。

 エアコンは暖房も出来るのだと言う事を忘れていて、この部屋には暖房が無いのかと、半ば怒りながらの睡眠で、薄い毛布に寒さを覚え早起きしてしまったのだ。

 TVは見た事の無いボールゲームを放送していた。
ゲーム自体が全く分からない物だったが、それはニュージーランド対インドのクリケットの試合だった。
成る程、インドの影響なのだろう。
イギリスの植民地だったインドの影響なのだろうがケーブルテレビのチャンネル数ではクリケットがサッカーを上回っていた。
ルールも分からずに少し見ていたが、野球の様でもあるが、体当たりをする所などは格闘技でもあるなとしか分からなかった。

 5時50分に荷物を持ってロビーに降りたが灯りも点いていず未だ暗かった。

 ドルジは6時ぴったりに現れた。
やけにハイテンションで「グッ モーニン」と満面の笑みで挨拶をした。
一緒にやって来た登山専門のポーターはナラバードルと言ってドルジの近くの村の出身で同じシェルパ族だと紹介された。
ナラバードルは英語がまるでダメだった。
いや,ドルジの英語も酷いもので、耳で覚えた英語で読み書きは出来なかった。
しかも、何かと言うと「メイビー」を連発するのが気に触る。

 オフィスでボスと打ち合わせをすると言うのでタクシーでそこへ向かった。
タクシーは「マルチ」と言う、スズキがインドで作っている800ccの小型車で、自分のトレッキングの荷物と人が三人も乗ったらいっぱいだった。

 ドルジがここを曲がれ、と指示して行くのだが悉く間違いで右往左往してやっと着いた。
そこはオフィスと言うには余りにも住居的で、マンションの一室の応接間と言う感じだった。
大きめのデスクとソファーがあるのでネパールではこれが標準的なオフィスなのかもしれないが、日本人としては認め難い雰囲気だ。
昨日タメルのトレックキング斡旋業者を廻って感じた、仕事を請け負ったら人を集め、機材はすべてレンタルで済ませる業者が居るんじゃないかと言う勘は正しかった事が確認で来た。

 社長が「紅茶にしますかコーヒーにしますか」と聞くので、6時半のバスに乗るのに既に6時25分で間に合うのかと問うと、それは間に合いませんね、と、あっさり答えた。
おいおい、6時半のバスで行くから6時にピックアップだ、遅れないようにしてくれと言ったのはあんたじゃないか、と、言いたかったが、そもそも、6時半のバスに乗るのに6時のピックアップと言う時点でおかしいと思ったので、これがネパール流なのだろうと呑込んだ。

 ミルクティーを啜って居ると髭面のイラン人のような男が現れ、社長の弟でナーランだときれいな英語で挨拶をした。
ナーランはポーターとしてトレッキングの間中自分の荷物を担いでくれるらしい事を言っていたが、登山道具を除くと大した物は持っていないのでポーター入らないと言ってあったのだが、通じていなかったのか?

 ネパールと言う国は何事も一筋縄では行かない国であるな、と、思い始めていた。

 タクシーを待たせてあるからそろそろ行きましょう、と、社長が声を掛けた。
待たせてあるタクシーは、先ほど3人で窮屈に乗って来た車だったが、さらにクライミングの道具の大きなダッフルバックが二つと、ナーランが追加され、どう見ても乗れるはずが無いと思ったが、ギネスブックに乗るんじゃないかと言う不思議さで荷物も人も収まった。

 タクシーは穴だらけでデコボコの道をバスターミナルへ走り出した。
表通りは舗装されていると言って良いのか、かつては舗装したらしい痕跡があると言った方が正しいのか、やはり穴だらけで凄まじいものだった。

 凄い道路があるものだ。
これがネパール首都カトマンズのメイン幹線道路か、と、唸らずにはいられなかった。

 タクシーは人と荷物をギッチリ詰め込んで重そうに走っていたが、やがて左に傾いてガタンガタンと言い出した。
自分は直ぐにパンクだと思ったのだが運転手は首を傾げながらのろのろと走り続け、追い越して行ったタクシーに何やら告げられやっと車を停めた。
やはりパンクだった。
運転手はなんでも無い事のようにスペアタイヤを取り出し交換作業に取り掛かった。

 ネパールと言う国は何事も一筋縄では行かない国であるな、と、先ほど思ったのは正しかった。
パンクは仕方が無いとしてもスペアタイヤも空気が甘く走れない代物だったのだ。
運転手はタイヤ交換を終えこれでは走れないと開き直った。
日本ならさっさとここまでの料金を支払って次の車に乗り換えれば済む事なのだが、ドルジはどうしてもこの車でバスターミナルまで行かなくてはならないと思い込んでいるのか、乗り換えると言う事は頭に無いようだった。
自分はそれと無く、他の車で行ってはどうか、と提案してみたのだが「ノープロブレム」と言うばかりで次の作戦は考えていないようだった。
ネパール語で何を言っているのか分からなかったが、たぶん、空気入れをどこからか調達して来るような事を語っているのじゃないかと思った。

 そうか、どうしてもこの車で行くのか、ならば仕方が無い、と、自分も覚悟を決め、ダメなタイヤを外してタクシーで空気を入れて戻って来ようと提案した。
すると、それは良いアイディアだ、と、言ってタイヤを外した。
そして、運転手はタイヤを持って歩き出した。
200メートル程先にタイヤ屋が有って空気はそこで簡単に入れられたのだ。
ネパール語で話していたのは、潰れたスペアタイヤであそこまで走れるかどうかを相談していたのだった。

 ネパールと言う国は何事も一筋縄では行かない国であるな、と、確信していた。

 バスターミナルはパンク地点から僅かに数百メートルだった。
そこはバスターミナルではなくバンのターミナルで、まだ新しいトヨタのバンが何台も停まっていた。
ドルジが切符を買いに行き、8時出発の車を確保して来た。
バンの屋根に荷物を積み、指定された座席に座り出発を待った。
この手のバンは乗せられるだけ乗せて詰め込むのが常識だと思っていたらそれ程阿漕ではなく、18人しか乗らなかった。
バンは定刻に出発をした。

 車はカトマンズの街を出てすぐに峠道を登りに掛かったが、大型のすれ違いがやっとと言う道幅の一車線を故障したトラックが塞いで交互通行になっている箇所が数カ所も有り、渋滞が凄かった。
そして、舗装の剥がれた剥き出しの土の部分からはもうもうと土煙が上がりまともに息が出来無い箇所も有った。

 しかし、遠くの景色に目をやれば、カトマンズ近郊は標高が低いので亜熱帯の色が濃く、ハイビスカスが咲きバナナが実り結構トロピカルでもあった。

 車は二時間程走ってはトイレ休憩をとるのだが、中々馴れないと用足しも侭ならない。

 二度目の休憩はランチタイムだった。
バンの料金はダルバートのランチを含んでいて乗客は無料で食べられるのだが、カップルで乗っていた欧米人はそれを食べずに持参したパンを齧っていた。
確かに、味がどうのこうのと言う前に、店の環境や衛生的な観点からは食べ難いものかもしれなかった。

 午後2時50分ベシサパールに着いた。
バンから降りた真ん前が今日の宿で、見るからにガッカリさせられる建物だった。
しかし、だからと言ってこれより良いホテルも見当たらなかった。

 ホテルの部屋に入るとセミダブルのベッドが一つと、シャワーとトイレが着いていた。
しかし、やはり「しかし」なのだ。
トイレの便座はひん曲がり水洗の水が流れず、水道からバケツに水を組んで流さなければならなかった。
そして、シャワーのお湯は限りなく見ずに近い温度で、いくら待っても熱くはならなかった。
それでも、ここを最後に後はいつお湯の出るシャワーに巡り会えるのか分からなかったので無理して浴びた。
ベシサハールはカトマンズよりも標高が低く750メートルしか無かったのが幸いしてそれ程苦にはならなかった。

 明日から本格的に歩く事になるのでビールは飲まずに、野菜カレーとライスを注文し、なんとか食べ切った。
野菜カレーは塩味が薄く、また日本で市販されているカレールーで作るような旨味やとろみが無く、カレー汁の中に野菜が入っているような物だった。
しかし、このカレーでも、これから先の標高の高い集落の宿のカレーよりは随分と上品で美味かった事を後々思い知るのだが。

 ドルジたちは他のグループのガイドやポーターのネパール人同士でどこかに消えて行った。
これも後で知った事なのだが、毎夜、どこの宿でもネパール人同士が集まってネパール焼酎のロキシーを飲んでいるのだった。

 何もする事が無いので日記を書いて8時に消灯した。

 追記 
布団は臭く無かったのだが色が許せない色だったので自前の寝袋に寝たが厳冬期用の羽毛シュラフでは暑過ぎて寝苦しかった。



 


コメント
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