じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ローピサン へ No.9

2013-12-15 10:56:39 | ネパール旅日記 2013

 11月13日 水曜日 快晴

 今日はいよいよピサンピークが見える「Lower Pisang」の村へ行く。
写真でしか見た事が無いピサンピークの実物と対面する。
まだ見ぬ山に対する気持ちは、登る事の現実を思うと、見た瞬間に、ああ、これか、と思える程度の山であって欲しいと願いつつも、どこに登ったのかと聞かれた時に胸を張って言えるように、他の峻険で凛々しいヒマラヤの山と遜色無い峻嶺であって欲しいと矛盾していた。

 ピサンピークを紹介するガイドブックやツアー会社の説明文では、この山はアンナプルナサーキットのトレッキングの序でに登れる山として比較的容易に登れそうに書かれている。
標高も6091mで、確かに6000m峰では有るがギリギリで越えたもので同じ6000m級でもお買い得感の強い山だと自分は思っていた。
そして、この山に登って厄介な事が有るとすれば、それは急斜面の氷壁が少し心配かも知れない、と書かれていた。
実はその説明を読んだ時に、そうか、氷壁か、自分の一番得意とする分野だな、とほっとしたのだった。
勝手な思い込みに過ぎなかったのだが、東北の雪山を登っているので、雪や氷には強いと自負していたのだ。
しかし、実際にヒマラヤの氷の山に取り付いて知ったのだが、アイゼンの爪が刺さらない氷が有るのだ、と。
そして、本では読んで知っていたが、氷の山へ行く時にはアイゼンの爪はヤスリで研いで行けと言うのを如実に実感した。
自分が知っていた氷と堅さが違っていたのだ。
アタックしてみて自分の安易さに気が付いた。
名前しか知らない山は経験した事も無い高山で、登山ルートの地図も手に入らず、雪や岩場の状況も分からないのに、何の根拠で登れると踏んだのか? 
根拠など何も無く、ただ、なんとなく登れるんじゃないかと、漠然と思ったのだった。

 ピサンピークは、ピサンの村を出てから一気に標高差を稼ぐ急登の連続だった。
自分がアタックした数日前にかなりの積雪が有った後で、5000mから岩と雪のミックスになり、5600mから上で傾斜が急になると雪は氷になり、技術的にも体力的にもそんなに簡単な山では無かった。
少なくても、エキスパートでは無い普通の登山経験者が登る山としては、難度が高い山だと思った。
そして、一般的に案内されている標準的な予定の日数では高度純化が出来ないうちに5400mのアタックキャンプまで行ってしまい、かなりの確率で高度障害に見舞われるだろうと思う。
ピサンピークに登るなら、アンナプルナサーキットと組み合わせるにしても、ベースキャンプ4200mでの高度純化を慎重にしてからアタックキャンプに進むのが良いと確信する。

 自分は東北の冬山は馴れているが、国内の高峰、3000m級の厳冬期は登った事が無い。
たった一度12月の八ヶ岳に登った事が有るだけで、そもそも経験不足なのだ。
厳冬期の富士山やらを平気でこなせる実力が有って相対するべき山なのだろう。

 
 今日も4時30分に目が覚めた。
昨夜は変な夢を見て寝苦しく熟睡した気がしなかった。
心のどこかに仕事を辞めてまで山登りに来た事の引っ掛かりが有るのだろうか?
夢には色々な仕事で関わった人が脈絡無く出て来て、自分は無理難題を振られ困っているものだった。
熟睡できないのはたぶん、高度障害の軽い初期症状なのだと思う。

 6時に朝食を予約していたが外はまだ静かで人が動いている気配がしない。
しかしネパール人の活動時間は日の出から日の入りまでを知っているので寝袋に潜って日記を書いて日の出を待った。
 
 部屋は大抵ツインベットになっていて、どちらに寝るかは陽の当り具合で決めるのだが、チェックインしたときの陽の当り具合で決めると見誤る事が有る。
昨夜のベッドの選択は失敗だった。
窓際で西日の当って温かい方を選んだのだが、そこは日没後は窓からの隙間風が冷たく夜は寒いのだった。
だからベッドが微妙に傾いていた。
いやベッドが傾いているのではなく、マットレスのへこみ具合がズレて居て傾いて感じるのだが、その理由は直ぐに推測できた。
窓からの隙間風が冷たいので寝ている人は無意識に身体の位置を窓から遠ざけるように動かすのだ。
そして、ギリギリまで逃げて来て来れ以上は落ちるぞと言う所で寝る事になるのだ。
それが毎晩続いてマットレスはへこみ、目で見ては分からない微妙な傾斜を作っていたのだと思う。
昨夜の夢見が悪く寝苦しかったのは高度障害の初期症状かとも思うが、ベッドの傾きも安眠できなかった一因かも知れない。

 結局朝食を食べられたのは今日も7時近くになってからだった。
だから朝食前にパッキングを済ませ、食べ終わったらトイレに行って直ぐ出発と言う体制に変えた。
自分としては朝のトイレタイムを削るのは不本意なのだがネパール人の活動が日の出から日没までとなればこちらがそれに合わせるしか無いのだ。

 7時30分 チャメを出発。
9時10分頃、軽い休憩をBhratangでとった。
ここにはリンゴ畑が有り茶店でも売っていたので4個買って皆で食べた。
2個買って半分ずつなどにするとまたドルジが手で割ってくれるのかと思うと、4個買っても100円と少し、迷わず4個買う事にした。
リンゴは日本のフジなどの大きさと比べるととても小さく、皮がやや硬くてパリパリしている。
硬い皮に用心しながらリンゴを噛むと、とてもみずみずしく、甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
リンゴの味が濃いと言うのか、甘みも酸味もどちらも濃く、野性的な感じがした。
これから先、マナン辺りまでがリンゴの産地なのだが、マナンで見かけたリンゴ農園の看板には日本の技術援助があった事が記されていた。

 10時50分Dhikuru Pokhariに着く。
ここで昼食をとるか一気にピサンの村まで行ってしまうかドルジが聴いて来た。
一時間と少しでピサンまで行けるのでそこで昼食でも構わないのだが、ピサンは地図の記す高度では3200mになっており、時間があるのだからゆっくり行こうと言って昼食にした。

 ドゥクポカリのホテルは新築で綺麗でWiFiまで備えていた。
こう言う宿に泊まりたいよなぁ~と思いながら、恐らく連泊で腰を落ち着けているらしい欧米人が寝袋を干すのを眺めていた。
ガイドを付けていないバックパッカーの宿選びは優れていると思う。
まず、ロンリープラネットなどのガイドブックでお勧めの宿の目星をつけ、現地に近づくとその方向からの旅行者の情報をもとに評判の良い宿へと向かう。
その上で実地検分して気に入ったら泊まると言う、自分に言わせると神経質すぎないかとも思うが、彼らは1年や年の旅は普通なので一泊の宿の善し悪しはとても大切なようだ。
しかし、それだけ時間に余裕も有るし、ガイドブックが推薦する景勝地を巡る他には宿を探すなりの事しか、他に重要な事も無いのかとも思うが。
ここでも英語の壁ってハンディーだよな、と、つくづく思い知らされる。
自分も色々聴いてみたい事が有るのだが、どうしても腰が引けて話しかけられないし、例えば泊まった宿のダイニングで欧米人らが情報交換しているのを知っても、中々その輪には入れないのだ。
自分は生活用語の英語では困らない程度の会話は出来るのだが、彼らの中に米語が母国語の人が混じっていると単語の中に今流行の若者言葉などが頻繁に出て来るようになりお手上げになってしまうのだ。
いつか米国に長期滞在して米語耳を養ってみたいと思っているが、予算の関係と、何よりも気後れしてついつい退いてしまう。

 ドゥクポクリで今まで当たりだったスープヌードルを頼んでみた。
ネパールと言う国には基準と言うものがないのかと問いただしたくなるのだが、ナーランに「このスープヌードルは今までのと随分違うね、こう言うのも有るの?」と尋ねると「トマト味やオニオン味、ガーリック味にカレー味と、たくさん有るよ」と答えた。
「いやそうじゃ無くて、これはスパゲッティーだから、スープスパゲッティーだろう?」と言うと「でも、それもヌードルじゃないか、問題無い」と言った。
食べてみると不味くは無いし、トマト味のスープにスパゲッティーが少し浮いているのはとても自然なのだが、今までのスープヌードルに対する認識から脱せない自分は納得がいかなかった。
スープヌードルは量も少なく腹が膨れなかったので茹で卵を追加で貰い食べた。
茹で卵とフライドエッグは日本の物と同じなので安心して食べられる。
しかし、同じ卵料理でもスクランブルエッグは少し様子が違う。
大体が日本で言う炒り卵で出て来ると思って間違いない。
しかも、それには緑の葉っぱが入っていたりするが、塩さえ振っていないようで味は何もついていない。
辛めのケチャップが美味いのでそれで食べれば悪く無い。
ちなみに、プレーンオムレツはただの卵焼きで、ベジタブルオムレツは野菜が入った卵焼きだ。
これも塩気も何も無いのでネパールケチャップで食べたら普通に食べられる。

 昼飯を食べ長椅子に寝そべっていると黒人系のアメリカ人女性が唐突に「この荷物をどけてくれ」と言って来た。
突然の呼びかけに吃驚して起き上がると「これは貴方のザックか?私はここに寝転がるから邪魔だ」とにこりともせずに言った。
とにかくザックをどかせと言っている事は分かったので無言でザックを椅子から下ろすと、サンキューと言って自分の小さなザックを枕に寝ころんだ。
自分はサングラスが嫌いなので南国でも雪山でもあまり掛けずに居て平気なので普通に寝転んで目を閉じていた。
しかし快晴の空の陽射しは強く彼女はサングラス無しでは寝ても居られない様子で起き上がってザックの中を掻き回し始めた。
結局サングラスはそこには無かったようで起き上がってこちらを見てお決まりの質問から会話が始まった。
日本人か?から始まって何日の予定だと続き、一ヶ月だと言う答えに随分長いじゃないか?となって、自分がピサンピークに昇ると言うと、ワァーォ エキサィティング!!などと驚いてみせるのだが、こちらからは話しかけないので会話は直ぐに途切れる。

 何時も思うのだ、どうして米語を話す人には怖じ気ずくのか、と。

 ナーランがチェックポイントから貰って来た紙を見せて、これが無いとこの先ごはんが食べられない大事な紙だと言った。
それはツーリストを伴ってトレッキングをしていると言う証明書のような物だと思う。
何故にそれが必要なのかと言うと、ガイドやポーターがツーリストと宿に泊まった場合、宿代も食事代もロキシーも無料なので、宿に対して旅は継続中だと言う証明を貰うようだった。
自分のように一人で3人も連れていた場合でも全員無料なのだが、しかし、自分一人が一泊して宿に落とす金は最高でも1500円程度にしかならない。
これで三人に宿と食事を無料で提供して儲けは有るのだろうか、と不思議に思ってしまう。
ドルジが常に自分の知っている宿に行こうとするのは行き易い事も含め、常日頃の義理と言うのがあるのかも知れない。

 12時00 ドゥクポカリを出発、1時00にピサンの村に着いた。
今日は楽な一日だった。
距離はそこそこなのだが傾斜が緩く標高が上がっているのに歩くのが苦にならなかった。
昨日、標高2800mを超えたときから少し感じていた頭の違和感と軽い吐き気が今日は消えていた。

 日本でも3000m峰を登ると、その度に2500mで軽い吐き気を感じ、3000mを超してしまえば後は治るのが常だった。
北や南アルプスの縦走をすると3000mで3泊程度は寝泊まりをするのだが、2500mでの吐き気を越えた後は食欲が落ちる事も無く寝苦しさを感じる事も無く過ごして来た。
しかし今回は3000mで食欲不振を感じていた。
たぶん馴れないネパールの食事も関係しているのだろうが、自分が思っているよりも疲労しているのかも知れなかった。

 今日も一番乗りで宿に入ったので日当りの良い角部屋が取れた。
ピサンは夜冷えるからとドルジが毛布を持って来てくれた。
ドルジと言う奴は基本的には良い奴なのだが、日本人の感覚を今一掴み切れていないようで、つまらない事で神経を逆撫でしてくれる。
それと、大した額でもない小銭を誤摩化すのを止めたら何も文句の無い良いガイドだと思うのだが、残念な奴だった。

 部屋の窓からピサンピークの頭、通称ドームが見えていた。

 ピサンの村へ向かう道で見えたドームには正直に言ってガッカリだった。
茫洋とした感じは東北の2000mにも満たない山の斜面に似ていると思った。
どこにも鋭さや厳しさを感じる物が無く、やはり誰でも登れる6000m峰なのだと舐め切って、既に頂上はもらったと確信した。

 ピサンの村は風が強く噂通りに寒かった。
自分はダウンパンツに厚手のダウンジャケットを着込み、毛糸の帽子に手袋までして部屋に居た。
手袋無しではノートの紙が冷たく、手がかじかんで鉛筆も持てなくなり字も書けなかった。
陽射しが有っても風が強くて外には居られず、昨日までの宿はピサンの村に比べればとても温かかったと言える。

 ミルクティーを貰いにキッチンに行くとドルジがこっちへ来いと言うので行ってみると、本当は宿の人達の寝室らしい、透明の波板を屋根に張ってサンルームのようした温かい部屋だった。
自分はそこでミルクティーを飲みながら破れた股引を縫っていたのだが、温かさに誘われて寝てしまった。
谷間の村のピサンは日没も早く、陽が陰ると急速に寒くり目が覚めた。

 薄暗くなった宿に続々とトレッカーがチェックインして来た。
昨日のポーランド君の一行と、他にも欧米人のグループが来ているようだった。

 ダイニングには大きなストーブが有り他所のグループのポーター達がそれを取り囲んでいた。
その中のトレッキングガイドと思しきネパール人が日本人かと問うて来た。
そうだと答えると自分が履いているダウンパンツを見て、ピサンピークに登るのかと聞いたので明日は休養日で明後日から登り始めると言うと、数日前にアタックした5人のパーティーは寒さと雪の深さで登り切れなかった、と教えてくれた。
それは聞かない方が良かった話しだなと思ったが、そんなに寒いのか?と聞くと、その時は特別冷え込んだ時で今はもう大丈夫だろう、と言ったが、それでも夜明け前の6000mは氷点下20度以下は間違いないと言った。
またまたまたぁ~そう言う情報をここで聞いても脅かされてるとしか思えないから要らないのに、と思いつつも、ついついアレコレ訊いてしまうのだった。

 5時30分頃、疲れ切った様子の二人が入って来た。
後から来たガイドの話しでチュルーイーストにアタックしていたフランス人達だと言う事が分かった。
残念な事に敗退だったそうだ。
原因は深雪と寒さだそうで、鼻の頭を少し凍傷でやられているガイド曰く、氷点下35度にまで下がったのだと。
チュルーイースとはアプローチが長いらしいから自分が二日続けて午後から雨に遇ったあの頃、既に高所に登っていたのだ。
  
 チュルーイーストを狙う位だし、ローヨッパアルプスを抱えるアルピニストの本場フランスから遠征して来たのだから腕に覚えはある人達なのだろう。
敵に回したら一番厄介な天気が臍を曲げたと言う事で、運が無かったとしか言いようが無い。
二人は食事をする気力も無いかのように無言で座っていた。

 ああ、明日は我が身かも知れない、と、弱気の虫が起きる。

 本日のディナーはポテトカレーライスだった。
この手の夕食をディナーと言うのは憚りたいし、ネパールに来てディナーを食べたと思った事は無いのだが、この地では腹一杯に食べればそれはディナーなのだ。

 さっきの暗いフランス人が隣の部屋に入った。
筒抜けに聞こえる話し声なのだがフランス語は一単語も知らないので雑音にしか聞こえない。
話し声は良いとして、フランス人もコンビニの袋に物を入れて来るのか、パリパリガサガサと音を立てるのは堪らない。
日本人には山小屋で守らなくては成ら無いお約束の筆頭として浸透しているが、フランス人は無神経なのか?

 7時半、まだ反省会をしているのかフランス人が煩いが、他にする事も無いので寝た。





 



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