じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

チャメ へ No.8

2013-12-14 14:48:18 | ネパール旅日記 2013

 11月12日 火曜日 快晴

 ダナキュー(2300m)からチャメ(2670m)へ。

 AM4:30起床。
起床と言っても上半身を起こし寝袋に入った上に毛布を被ってノートに向かっているのだが。
寒くて起きる気がしない。
試しに腕時計を外し気温を測ってみると、8度だった。
体温で暖まっている腕時計は正確な温度を測るまでに時間が掛かるので30分程放置してみたが、8度で動かなくなったのでたぶん正しいのだと思う。
しかし、8度も有るのにこれほど寒く感じるのか?
自分の仙台の家でも真冬ならもっと下がるがこれほど寒いと思う事は無い。
身体が馴れていないからなのか?
しかし、ここでこの寒さに困っているようでは6000mの山の寒さに耐えられるのかと心配になる。
そして、気持ちのどこかで、洒落や冗談で登れる程ヒマラヤの山は甘く無いのかと弱気にもなる。

 この後、本当に寒くなり、部屋の中で氷が張る気温になって知ったのだが、ノートの紙に触っていられる間は大した寒さではなく、本当に寒いと鉛筆を持って文字が書けなくなるのだった。

 ナーラン曰く、マルシャンナディー川の谷間に沿った街は陽射しが無いのと川風で特に寒いのだそうだ。
そして、一番寒いのはピサンピークアタックのベースの宿になる、ピサンの村だと言う。
おいおい、脅かすなよ、ただでさえ山の迫力に圧倒され、寒さに打ち拉がれてピークアタックに弱気になっているのに、と、思いつつ、ガイドやポーターと一緒でなければトレッキングはともかく、ピークアタックは断念していたなと思った。

 6時に朝食を予約してあったのでダイニングに行ってみたが誰もいなかった。
キッチンにも人がいる様子は無く、結局朝食が食べられたのは7時だった。
段々とヒマラヤトレッキングのコツが分かって来た。
日の出より前の起床は原則として無いのだ。
電気の灯りや暖房に乏しいネパールでは日の出から日没までが活動の時間なのだろう。

 パンケーキに蜂蜜たっぷりの朝食を食べ、8時ダナキューを出発。
昨日ナーランとドルジが、明日は結構キツいぞと言ったのは本当だった。
ダナキューの村の外れから一度緩く下ってからは一気に登りになり、それは1キロで450m登る急登だった。
1キロで450mと言うとどんなスキー場の傾斜よりも凄くて、平均でこれだから厳しい所では本当にクライミングになっていた。
自分が喘ぎながら登る斜面を重い荷を担いだポーター達は殆ど表情を変えずに登って行く。
そして、登山靴を履いていても滑りそうな細かな砂利の道を何事も無いように歩く。

 登るだけならまだ良いのだが、精神的に参るのは折角登ったのにまた下る事だ。
この道は大きなアップダウンを越してその後も、細かく上り下りしていて心身ともに辛かった。

 大変だった理由に朝からの下痢が有ったかも知れない。
昨夜は夜中に三度もトイレに行った。
下痢の理由は、思い当たる節が多過ぎてとても特定できないが、一番危ないと思っているのは、ドルジ達の親切だ。

 シェルパ族は熱心なチベッと仏教の信者で、日本人と同じように物を分け合って食べるなど、労りの気持ちを持っている。
例えば、小さなリンゴを一つ貰ったとすると、均等には割れなくても人数分に割って分けようとする。
昨日、峠の茶で自分がリンゴを二つ買い、一つをナーランとナラバードルが分け、自分はドルジと分けた。
その時、ドルジがリンゴを割るのに皮に爪で傷を付けて割り、汁の滴るリンゴの大きい方を自分にくれた。

 問題はドルジの左手なのだ。
彼らは用便をすると手桶に汲んだ水を使い左で洗い流す。
その事自体はその国の習慣だから何とも思わないのだが、彼らは手を洗っても石けんなどは使わないし、それ程熱心にも洗わない。
その事を知っているので彼の左手で触った食べ物は現実的にどうこうと言うよりも精神的な圧力となって自分のお腹を刺激して来るのだ。

 今日、ネパールに来て始めての野糞をした。
集落を出ればどこでも自由にどうぞと言う環境が整っていて下痢をしても気は楽だった。
しかし、これも森林地帯までの話しで、4000mより上は隠れる所の少ない岩場の道になりそうも行かなくなる。
だが、その辺まで登ると行き交う人も少なく、前後を見極めれば問題無いとも言えるが、良い感じの岩の影は大抵先客の跡が残っていて快適な環境とは言い難かった。

 今日の歩きが辛かったのは下痢で力が抜けたせいも有ったかも知れなかった。
こんな事で6000mの山に登れるのかと、また弱気になってしまう。
そして、誤算が発生した。
ホケットティッシュを一日1個の計算で持って来たのだが、色々な事にティッシュを使い、一日1個では足りないのだ。
しかし、この事はどこの村でも買えるトイレットペーパーを発見して解決した。

 急登を登って振り返るとマナスルが聳えており、道の先にはアンナプルナ2がそそり立っていて息を呑んだ。
どちらも静かに聳えているが、自分如きに手が出せる山では無い事を無言の圧力として感じる。
これに挑んだアルピニストの肝の太さや、登り切った技術、体力、精神力に思いを馳せ溜息をつく。

 昨年、アメリカのコロラドロッキーの4000m級の山を6座登った。
日本には無い4000mの山が連なる様は迫力が有ったが、どの山を見ても自分に登れないとは思わなかった。
しかし、ヒマラヤの山は違っていた。
8000m峰や7000m峰の著名な山は言うに及ばず、地図に名前も乗っていない5000~6000mのピークでも自分に登れる気がしないのだ。
実際に標高差を考えても、ロッキーの4000m峰は登り始めが2500mから上がほとんどで、1500から1800も登れば頂上に立てる。
しかもアプローチが車で行けるように整備されている事が多く、気負わずに登れた。
しかし、自分が登ろうとしているピサンピークでも標高差は3000m有り、想像しただけでも大変な事は分かる。

 自分はヒマラヤの山の迫力にビビっていた。

 

 陽が上り道を照らすようになると気温はぐんぐん上がり、今日も半袖で歩けるようになった。
朝はフリースとダウンジャケットを着て歩き出し、昼近くなる頃にはすべてを脱いだ上に半袖になる。
この温度差がこのルートの難しさなのか、それとも、熱帯から氷の世界までを一度に体験できる醍醐味なのか、感じ方は人それぞれだと思うが、厄介な事であると自分は思った。

 1時20分 チャメの宿に入る。
今日も宿には一番乗りだった。
これはドルジの案内による所が大きい。
大抵のガイドはジープロードをなぞって来るのだが、ドルジはほとんど分からない旧道の入り口を巧みに見つけて入って行くのだ。
ジープロードは車が走れるように傾斜は緩いがその分距離が長い。
ドルジは殆ど崖じゃないかと思える急坂を、ショートカットと言って登って行く。
そして、登り切って暫く歩いていると、随分前に自分らを追い越して行った欧米人のグループがやって来てまた追い越して行く。
その時、何度か追い越して自分らを覚えている人はとても不思議がるのが面白い。
最初は、ドルジの馬鹿野郎めが、ジープロードをのんびり歩けば良いじゃないかと思っていたのだが、外人グループに一泡吹かせるのが楽しくてクライミングかと思うような急登を息せき切って登るのが嫌ではなくなった。
その甲斐あって首尾よく、出発は8時と遅かったのに宿には一番乗りで日当りの良い角部屋を確保できたのだ。

 昼飯に食べたカレーが割と美味かった。
それはその昔学食で食べた「うどん粉カレー」の味に良く似ていて、塩気が薄い事を除けばほとんど同じような物だった。
なので夕食にも野菜カレーを食べてみたのだが、これがまた当たりで、大盛りライスも苦にならずに食べ切れた。
ここでまたネパールトレッキングの法則の一つを掴んだのだが、大きくて流行っている宿の食事はうまい。
いや,万国共通で当たり前か?

 今日は水分補給を結構した。
ジンジャーティーを4杯にレモンティーを1杯にミルクコーヒーを2杯呑んだ。
カップは大きめのマグカップなので250ccは入っているとして、1750ccは飲んだ計算になる。
しかし、これではまだ足りない。
もうすぐ3000mになるので高山病の予防にも水分の補給は欠かせない。
明日からは2リットル以上を飲むようにしようと日記にも書いたのだが、そんなに飲んだ記憶は無いのでいい加減な物である。

 夕方、日が落ちてから、窓の向うに見えるマナスルが色づき始めた。
そして10分後にマナスルは真っ赤に燃えた。
子供の頃に岳人か山渓か、そんな雑誌で見た白幡史郎の赤く燃えるエベレストを見て、多少写真を齧っていた自分は絶対にフィルターの悪戯だろうと思っていたが、目の前でマナスルが赤く染まるのを見て唸ってしまった。

 あの写真を思い出し、ああ、来年はエベレストを見て写真に撮りたいと思った。

 6時の夕食時には停電していた。
皆がヘッドランプを頭に付けて唯一暖房のあるダイニングに集まっていた。
午後二時頃、大きなグループが到着して宿は一気に賑やかになっていた。
しかしこのグループもいくつかの小グループの集まりで、カトマンズのトレッキングツアーデスクでブックキングして歩いているだけのようだった。
だから、12人いて、ドイツ人、カナダ人、ポーランド人、フランス人と、それぞれバラバラだった。
良く聞いていると共通語は英語の用で、皆それなりに喋れているようだった。
自分はそんな輪には入れなくて何時ものように一人で離れて座っていた。
そこそこ美味いカレーに感激して食べていると、向かい側に相席を尋ね座った若い二人の男性が居た。
一人はドイツ人でもう一人がポーランド人だった。
ポーランドの若者がとても失礼な奴で突然自分に向かって「お前は中国人か?」と問うて来た。
無視していると隣のドイツ人が「彼は日本人だろう」と、幾分かポーランド野郎を嗜めるように言った。
自分は日本人だとは言わずにポーランド野郎にお前は何人だと聞き返した。
奴がポーランド人だと言ったので日本人だと言うと、ポーランド野郎は名前を名乗り中国人が嫌いでさ、と言う風なことを言った。
その後は結構悪く無い奴だと分かり色々話しをした。
その後彼らとは行く先々で何度も合って話しをする事になった。

 ポーランド君との話しも長くは続かず、やはり長居できる雰囲気ではないので熱いミルクコーヒーを持って部屋に戻った。

 午後七時就寝。
 

コメント
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