じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ピサンベースキャンプ No.11

2013-12-17 15:19:08 | ネパール旅日記 2013
 
 11月15日 金曜日 快晴 風強し

 本日は4400mのベースキャンプへ行く。
エベレストやアンナプルナなどの8000m峰のベースキャンプとなると、そこに暫く滞在して高度順化などをするのだが、自分が登るピサンピークはそれ程の山ではないので長く留まる事も無い。
何故ベースキャンプなどと言うのか良く分からないが、強いて言えば、トレッキングポーターのナーランが登れるのはここまでで、この先はクライミングポーターのナラバードルは次のハイキャンプまで行く。
そして、ナラバードルはハイキャンプに荷揚げが終わったらベースキャンプに下りて来る。
その行動からすればベースキャンプと呼べるのだが、いずれにしても、8000m峰を狙う登山隊の大きなベースキャンプとは趣は全然異なるものだ。
 
 3200mで人が飛ばされそうな風が吹いている。
自分の経験と知識ではこの風の中でテントは張れないのだが、ドルジは意に介していないようで平気で出発準備をしていた。

 AM7:00 宿の皆に送られて出発。
ドルジのザックがパンパンに膨れ上がり、それでも入り切らないものがあちこちに括り付けられたりぶら下げられたりしている。

 ナーランが自分の荷物を背負ってくれ、ナラバードルは籠に野菜や昨日荷揚げし切れなかった物を入れ背負っていた。
二人とも今日の荷物は20キロ程度と何時もよりは随分軽かった。
本当は自分のザックはまだ少し重いと感じていたのでナーランに助けて欲しかったのだが、このくらい背負って登らなかったら大名登山になってしまうなと思い覚悟を決めた。
単体で目方のかかる物は持っていないから、必需品があれこれ集まってこの重さなのだと思うと、軽量化が甘かったかと反省させられる。
しかし、着替えもほとんど無く、洗面用具も無く、重い物順に数えると、厳冬期用の分厚いダウンシュラフが一番で、次がハードシェルのジャケットだ。
その他の重い物と言えばすべてクライミングに欠かせない金属の道具類で無くては成ら無い物ばかりで無駄は無いと思うのだが。

 そうか、荷物が重いのではなく、気が重いのかも知れない。
昨日まで敗退した話しばかり聞かされ、登頂成功の吉報はどこからも入って来なかったのが気持ちを重くし、序でに荷物も重く感じさせるのだ。

 昨日参拝したアッパーピサンの寺の下まで登り、昨日は右に折れたが、今日は左だった。
左は牛の放牧場になっていて入り口に棒が掛けてあり、牛が通らないようになっていた。
ドルジがそれを勝手に除けて入っていったので自分も後に従った。
暫く歩いて行くと村の方向から何やら大声で我々に向かって呼びかける声がした。
ドルジがそれに応えて何か言ったが、分かったのはピサンピークの一言だけだった。
多分かけ声の主は、そこはトレッキングルートじゃ無いと教えていて、ドルジはそれに応えて、自分らはピサンピークに登るのだと言ったのだろうと思う。
ここから上に続く道は登山道ではなく、夏場に牛を放牧地に上げる為の道らしいが、今は季節外れなので牛は歩いていない。
牛の道は時にとんでもない急斜面を直登していて見極めて歩かないと酷い目に遭う。
岩屑と言うのか、小石とも違う砂利ともまた違うザレ場が多く滑り易かった。
ナーランが登りは良いけれど下りは怖いなと言うので、ロープを出してやろうかと冗談を言ったが、実際に足を滑らせたらどこまで転がるか分からない斜面が随所にあった。

 手持ちの高度計が3800mを指す頃には高い気は完全に無くなり刺だらけの枯れた灌木が見られるだけになった。
この山の植物には全部刺が生えているような気がした。
歩いていてもズボンの上から刺さる事も有り植物によっては相当鋭い刺を持つ物もあった。
想像だが、牛や山羊に食べられないように刺を生やすように進化したんじゃないかと思うのだが。

 歩き始めて3時間で標高差800mを稼ぎ4000mに達した。
歩き始めは左程でもなかったがアッパーピサンの村を過ぎてすぐから呼吸が苦しく感じられるようになっていたが4000mを超えるといよいよ苦しさは増し、スピードが極端に落ちた。
テルモスに熱い紅茶を入れて持っていたのだが、ここまでに飲み干してしまっていた。
ザックのもう片側に1リットルのポカリスエットが入っていたのも半分飲んでしまっていた。
喘ぎながら登ると喉は乾くものだが、この時は特別で通常の三倍の量を飲んでいた。

 ナラバードルは強かった。
標高が上がろうと傾斜が増そうと苦にしない様子でぐいぐいと先に行く。
その後を高地には余り馴れていないと自ら言っていたナーランがやや苦しそうに追っていく。
自分は付いていく事は諦め、明日の体力の温存に努めるべくペースダウンをした。
計算してそうしたと言うよりも、もう小さな歩幅でしか歩けなくなっていると言うのが現実だった。

 取り敢えず100歩は休まずに進もうと、1.2.3.4・・・と100数えたら10呼吸分休んでまた100数えて歩き続けた。
ピサンピークの頭のドームは見上げる程の高さでもなく、厳しくそびえ立つと言う雰囲気でもなくすぐそこに有るのに、歩いても歩いても中々大きくはならなかった。

 自分は日本の山に登っている時には地図を読まなくても、距離も標高も目測で測って殆ど誤差が無かったが、この山の距離感は掴み切れなかった。
近くに見えるし、高くも見えないのだが、それは山が大きいが故の錯覚なのだ。
周囲の山が大きく高いので距離感も高さも目測の縮尺が狂ってしまうのだろう。

ちょこんと山頂と思われるドームが見えているピサンピークだったが、それは歩いても歩いても中々近づいていかなかった。
山が大き過ぎて今までの経験で養った目測が効かなかった。
ヒマラヤの山は地図で読む以上に高く、記されている等高線の傾斜よりも急で、そして、距離はとんでもなく遠く思えた。

 12:00、急なザレ場を登り切ったら開けた台地に出た。
そこが地図で示すピサンベースキャンプだった。
ガイドブックやネットの情報では標高4200mとなっていたが自分の高度計では4300mを指していた。
高度計の補整をピサンの村の標高でやっても良かったのだが、しかし、地図で3200mとなっているローピサンの標高が当っているとも限らないのだ。
自分の手持ちの地図は「アンナプルナ・アラウンド」1:155000で等高線の間隔が80mとかなり大雑把なもので、しかも印刷があまり精彩でもなく、読んでも良く分からないのだった。

 とにかく、10時の時点で4000mに居たとして、残の300mに2時間も掛かったと言う事で、高度による速度の低下が著しかった事は間違いない。
明日はハイキャンプの5400mまで、1100mを登るのだが、これより上の高度だとどれほど歩けるのか自分でも予想がつかなかった。

 標高4300mは昨年ロッキーの山で登った標高とほぼ同じで、これより上は未知の高さだった。

 ベースキャンプには既にテントが一張り張られていた。
それは昨日荷揚げに来た二人が張っていったもので、当座の水も汲み置きされていた。
それはキッチンテントで、自分の居住用にはノースフェイスの3人用程度のドーム型テントが張られた。

 自分はさっさとザックを放り込みマットを敷い寝袋を広げ横になる準備をした。
そして、熱い紅茶でも貰おうとキッチンテントに行くと、テントの中には石の竃が拵えてあり、食料も積んであり、どうしても三人が寝られるスペースは無いと思えた。

 悪い予感がしたので、ドルジにお前はどこで寝るんだと問うと、ナラバードルとドルジは自分と一緒のテントだと言う。
なんだとぉ~、お前のボスとの約束は、俺は一人用のテントに寝る約束でレンタル料を支払っているんだぞ、と言うと、テントの中を見てくれ、ここには寝られないだろう、何を言っているんだと平気な顔で答えるのだった。

 昨日見送ったフランス人の荷物が大きい訳ではなく、自分の荷物が小さかったのが良く分かった。
自分がクライミング道具やキャンプ道具のレンタルを依頼したトレッキング斡旋業者のボスに話した条件はドルジにも伝わっているはずだった。
何故なら、業者と自分の間にはかなり細かい条件を記載した契約書が交わされているのだから。
しかし、たぶんこの行き違いは故意だと思う。
トンとが一つ減れば荷物が軽くなりポーターが楽になり、レンタル料は会社側から自分が要求した条件を満たすべく支払われているはずだから、金を預かって手配をしたドルジは差額が儲かる。

 しかし、このキッチンテントにお前ら全員で寝ろ、と、契約書を広げて言っても無意味な事は分かり切っていた。
ドルジとナラバードルは英語が読めないし、ナーランは気が弱いので自分が言う事をドルジに通訳はしないだろうし。

 ここは気持ちを切り替えて乗り気るしか無いと思い、熱い紅茶をくれとドルジに言った。
ドルジ曰く、ジュースとコーヒーは持って来たが紅茶をかって来るのは忘れた、と。
ここで怒っても仕方が無いので無いものは仕方が無いと気持ちを切り替え、ミルクコーヒーを頼んだ。

 キャンプ用のガスコンロが二台、勢い良く燃えてお湯を沸かしていた。
一台には圧力鍋が掛かっていて米を炊いているようだった。
外は陽射しが強く風さえ避ければ寒く無いのだが今日は冷たい風か強く吹いていた。
自分もミルクコーヒーを啜りながら飯の炊けるのをキッチンテントで待つ事にした。
ナーランの寝床用に敷いたマットの上に無理矢理割り込み寝転がった。
弾き出されたナーランは外から石を拾って来て椅子にして座り込み飯炊きをした。
ドルジが手も洗わずにニンニクやタマネギを刻み始め、ナラバードルは空のポリタンクを持って水汲みに出かけた。

 ベスキャンプ一帯は夏場は牛の放牧場でその時期に使う小屋が有ると書かれたのを読んだ記憶が有るが、その小屋の跡かと思える石積みの崩れたものがあった。
しかし、ヤクの糞は沢山落ちているので牛やヤクの放牧はまだ続いているのだろうと思う。

 ドルジがニンニクとタマネギを炒め始めたのでキッチンテントの中が凄い匂いになった。
自分は居たたまれなくなり自分のテントに避難した。
そして、地面の傾きを測り、風向きを予想して東の入り口側にマットを敷き枕にザックを置いて肩幅を確保した。

 ナラバードルが水汲みから戻って来た。
すると、ブルーシープの群れがすぐ近くに居るから見に行けと、ナーランの通訳で教えてくれた。
慌ててカメラを持って行ってみると、とんでもない崖に切られた細い道を辿って行くではないか。
テントシューズにサンダル履きで来たのにこんな危ない道は歩けないと行くのを止めたが、彼らはこの道を10キロの水タンクを両手に持って上り下りしていたのだと思うと、底知れない体力と歩行技術に参りましたと言わざるを得なくなった。

 自分はこの山の登山計画を本当の単独で、出来ればキャンプ道具も何もかも自分一人で担ぎ上げたいと思っていた。
何も知らずにネットで情報を集め、序でに世界7大トレッキングルートの一つと言われるアンナプルナサーキットも廻れるしと、軽く考えていた。
6000mの山がどれほど高く厳しいものかなど想像もできていなかったので、自分一人で担げると思っていたのだ。
それがガイドとポーターを付ける事になったのは、ネパールのルールではピサンピークなどの山はガイドを必ず伴わなくては成ら無い決まりになっていたからだ。
だからガイドを捜してもらい、登山に必要なパーミットを揃えてもらうなどの事務的な事を頼める業者を捜し、ネットで依頼したのだ。
その時のアドバイスで、ポーターの事やレンタルの事などを教えてもらい、今回の登山の形になったのだった。

 実際にトレッキングで数日彼らと歩き、今日はいよいよ高所登山を開始してみると、これは大名旅行であり、登山も、ガイドに登らせてもらっている状態で、決して自分で登っているとは言い難いものであるなと思った。

 それはそうだ、ここには山の様子さえ知らずに来ているのだから、そんな登山なんてあり得ない事なのに、と、思いつつ、これ以外の方法では支分は登れないしなと、少し情けない思いに駆られた。
ヒマラヤ登山にポーターとクライミングアシスタントのガイドが居なかったら殆どのクライマーは登頂できていないんじゃないんだろうか、と思う。
エドモンド・ヒラリーとテンジン・シェルパが組んでエベレストの初登頂を成し遂げた時にも、成功の鍵を握っていたのはテンジンだったと言われている。
自分にはラクパ・ドルジ・シェルパが付いているから登れているけれども、彼が居なかったらピサンピークの登山道入り口さえ分からないのだ。
そう思うと、多少の事には目をつむって、取り敢えず登頂を果たし、自力でなんとかできる場所まで行かないと、こんな所で臍など曲げられたら堪らない。
我慢も必要だなと言う気にもなったのでテントのスペースを少し譲ってマットを寄せた。

 飯が出来たと言う声でキッチンテントに行くとまだガスは炊かれ続けていた。
ドルジにガスカートリッジは何個持っていると問うと10個だと言う。
この勢いで燃やし続けたら一日と言わず、夕食までに4~5個は使い切るだろうと思ったが黙っていた。

 ドルジが「ダルバートを食べるか?」と訊いたが、喰わないと言うとイワシの缶詰を開けてくれた。
なんだ、工業製品の味のするものが有るんじゃないか、と嬉しくなった。
それは醤油味でとても美味かった。
4000mを超える高地で炊いた米にしてはご飯も美味しくて、イワシの缶詰で大盛りの飯を食べた。
晩飯用に残しておくから、と、半分食べてドルジに確保しておくように頼んだ。

 昼飯を食べてからする事も無いのでテントに寝転んで日記を書いていた。
相変わらず風が強いが陽射しがテントの中を温め快適だった。
あまりの快適さと疲れから眠ってしまって、目が覚めると日はだいぶ傾いていた。

 キッチンテントではドルジが夕食の支度をしていた。
覗き込むとガスカートリッジの空缶が二本転がっていた。
このペースでは二日しか持たないと思うのだが、他にもっと持っているのか、それとも、何も考えていないのか?たぶん後者だろうが。

 ナーランが外に居て焚き火の支度をしていた。
序でに、ガスカートリッジの数を尋ねると知らないと言った。
この調子で使うと明日の夜で使い切ってしまうぞ、と言うと、ヤクの糞を集めて焚き火をするから大丈夫だと言い、準備していた焚き火の小枝にマッチで火を着けた。

 日本のハイ松のような背の低い灌木の枝はマッチ一本で容易に火が着き、そして一気に燃え上がり、少しするとヤクの糞にも炎が上がった。
ヤクの糞はまるでガスの炎のように青白く燃えた。

 河口慧海のチベット旅行記にはヤクの糞の焚き火で暖をとり湯を沸かす場面が何度も書かれていて、それを読む度にチベットの極寒の原野では頼り無さそうな火だと思っていたが、中々どうして、まるでガスか亜炭のように力強い炎ではないかと感心した。
ナーラン曰く、大きなヤクの糞2個で飯が炊け、1個の糞は1時間以上も燃え続けるのだそうだが、完全に乾燥したヤクの糞でなければないのだと勿体を付けて言った。
しかし、乾燥し切った円盤形の上等のヤクの糞は手を伸ばせば拾える所にいくらでも転がっていた。
拾い上げてみるとそれは意外に軽く、堅くて、何の匂いもしなかった。
なんぼでも有るじゃないかとナーランに言うと、ここは人が簡単に来ない高地だから放置されているけれども、牧草地などのヤクの糞は持ち主が決まっているので、勝手に拾える糞はそんなに落ちては居ないのだとか。

 ナーランが都市ガスの話しをしてくれた。
ナーランが住むカトマンズからバスで2時間程度の郊外の町では、牛の生糞を集めてガスを発生させ、調理に使っているのだそうだ。
仕掛けは至って簡単で塩ビの瓶に道で拾った牛の糞を入れてガスを発生させ、それをホースでガスコンロに引いて使うのだと。
そんなもので煮炊きが出来るのかと言うと、ヤクの糞とは反対に湯気が立つ程新鮮な糞を10キロも入れて置けばプロパンと遜色無く安定した火力が得られるのだとか。
但し、糞は意外に早く乾いてしまうので結構な頻度で入れ替える必要が有るらしい。
しかも、乾いた牛の糞はヤクの糞と同じように燃えるのでそれも燃料にするそうだ。
ヒンドゥー教で牛が神聖なものとされるのは有益だから興った話しだとも言われるが、それが良く頷ける話しだった。

 ナラバードルが晩飯ができたと呼びに来た。
ダルバートが出されたが、昼間の缶詰が有るだろうと言うと、無いと言う。
誰が喰ったかは大体想像がつくのだが、これはドルジでもナーランでもなく、ナラバードルだと思う。
彼は出来立てや新しい物には手を付けないが、残り物は全部自分らが食べて良いと思っているのだ。
もう缶詰は無いのかと言うとツナ缶が有ると出してくれたが、それは日本のシーチキンなどのレベルでは無く、血合いがたっぷり入ったあまり美味く無いものだった。
醤油が有れば食べられるのだが、オイル漬けで塩気も無く、喉を通らなかった。
仕方が無いのでダルバートの付け合わせの青菜を炒めたものでライスを無理矢理呑込んだ。

 晩飯を食べミルクコーヒーを飲んで寝袋に入ったが、まだ6時少し前だった。

 深夜に起きて星空とアンナプルナを撮ろうと大きい方のカメラを準備して寝の体制の入った。
しかし、テント内には何となくニンニクの匂いが漂い、隣の二人はあっという間に鼾をかき出し、とても寝られる状態ではなかった。

 自分の吐く息が寝袋に当ると水蒸気になってやがてそれは霜のように凍った。
高い金を払って無理してやって来てみたものの、心の底から楽しんでいるかと言うとそうでもなく、ヒマラヤって辛い所だな、と思い始めていた。


 
 

 



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