じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

CHYAMCHEへ No.6

2013-12-12 13:13:12 | ネパール旅日記 2013
 
 11月10日 日曜日 薄曇り後快晴

 本日はチャムチェ(標高1430m)まで、昨日と同じように川沿いの道を行く。
地図を読むと、標高差では僅かに120mで楽に行けそうだった。
歩いてみると、場所によっては急登や嫌な登り返しがあって、累積では500~600は登っていると思えたが、全体的には傾斜も緩く、また昨日のように苦手な石段も無く楽しく歩けた。

 このトレッキングルートは「アンナプルナ・サーキット」と呼ばれる総距離200キロ程のトレールロードだ。
このルートは名前の示す通りにアンナプルナ山群の周縁をぐるりとほぼ一周する。
アンナプルナ山群は東から、アンナプルナ2 アンナプルナ4 アンナプルナ3 ガンガプルナ 間に7000m峰を5つ挟んで最高峰(8091m)のアンナプルナ1 と並んでいる。
その他にも周囲には、例えば東ならラムジュン・ヒマール(6983m)、南側ならアンナプルナ・サウスが控え、写真の露出度では8000m峰よりも遥かに有名なマチャプチャレ(6997m)などを従えた巨大な山塊である。

 このトレッキングルートを知ったのは相当前なのだが、若い頃には時間も金も無く、自分の足で歩ける日が来るとは思ってはいなくて、漠然とした憧れを抱いただけだった。
だから、自分の足でトレッキングルート踏めば相当感激する予定であった。
しかし、時は移り、ネパールの山間地もそれなりに開け、かなり奥地までジープロードが伸びたのを見て、少し遅かったかもな、と思い左程の感慨も湧かなかった。

 なによりも嫌だったのは、雄大なヒマラヤの景色に見とれて歩いているとジープやバイグがこれでもかと言う程にしつこくクラクションを鳴らして走り去利、その度にもうもうと巻き上がる土埃にうんざりされられる事だった。
このように書くとそんなに頻繁に車が来るのかと驚かれそうだが、精神的には頻繁に感じるのだが、実際は1時間に一台も来ない。
とくにジープの類いは路線バス的な存在で、朝と夕方に限られていて日中はほとんど見かけない。
そしてそれも標高が上がるとジープは消え、バイクだけになり、標高3500mから上は徒歩とロバと馬しか歩かなくなる。
ちなみにネパールの車の後には「Horne please」と書かれていて、クラクションを鳴らすのが礼儀なのだ。

 ジープロードは本当に酷い道で日本の林道よりもまだ遥かに酷い。
急斜面の岩山を切り崩して道を作るので谷底まで数百mなどと言うのは普通だし、切り崩しただけなのでその後も落石やら崩壊も当たり前のように見られた。
路面には切り崩した岩が砕いて敷き詰められていて角ばった岩がゴロゴロし降り、タイヤに刺さらないか?タイヤを切り裂かないかと心配になる程だった。
この道を走れる車は四輪駆動車しか無いのだが、これが見事にインドのTATA自動車のジープタイプで、かなり元気に走っていて、インド製の自動車を見直した。
日本が世界に誇るトヨタのランクルも走っては居るが、ごく僅かで、金持ちのプライベートカーだと思う。

 ジープロードは徒歩しか無かった生活道路を拡張した箇所と、新たに斜面を切り開いて通した箇所が有り、交錯していた。
徒歩の時代の道が残っている箇所は、余りに急峻で切り開いても車は登れないとか、谷底に向かって危過ぎるだろうと言う所で、トレッカーに取っては昔を偲ぶ良い道とも言えるのだが、しかし、アップダウンが厳しく、無闇矢鱈と曲がりくねって距離が伸びる厳しい道でもあるのだ。
徒歩で登っていた時代の道がジグザグで曲がりくねっているのは、建築資材や生活物資を時には100キロ程もの荷を背負って登ったので勾配を緩めるのに工夫したからだろう。

 途中で追い越して行くジープには行ける所まではジープで行ってトレッキングの日数を短縮しようと言うとレッカーが乗っていて常に満員の様子だった。
屋根にも大量の荷物を積み、土埃の煙幕を残しエンジンを唸らせながら登って行く。
風が無く土埃が簡単に抜けない時にはタオルで口を塞ぎ目を閉じ、しばし立ち止まらなければならなかった。

 7時30分にバウンダンダを出発して1時にチャムチェに着いてしまった。
距離にすると15~16キロ程度しか歩いていないのでもっと先まで行こうか言ったが、急いで行っても日程が余ってしまうと言うのでのんびりする事にした。

 しかし、これが大正解で、午後2時頃からまた雷雨になった。
後で知ったのだが、昨日と今日の雨は高所では雪になっていて、この時に高い山にアタックしていた登山隊は難儀したらしい。
そして、自分がこれから登るピサンピークも雪が降って、何時もは岩だけの稜線が氷とのミックスになって一段と厄介になっているだろうと、ドルジが言った。
自分が「なんでそんな事が分かるんだよ?」と問うと「多い年は年に三回も登ったから大体の様子は分かる」と言った。
ドルジめ、お前の話しはどこまで本当なのか分かりゃしない。
エベレストに3回登ったとか、マカルーにも2回登ったとか、挙げ句の果てには今年はエベレスト登山隊のサポートリーダーだったとか言うのだ。
じゃぁ今年もエベレストに登ったのかと聞くと、今年は失敗だったのだそうだ。
なんでも難所のヒラリーステップと言う箇所で手間取って時間切れになったのだとか。
そして、エベレストに登るのに一番大事なポイントは「渋滞をいかに避けるか」なのだと言って、5月の最盛期のエベレストは登りと下りの隊が交錯して喧嘩腰なのだとか。
来年の5月もインド隊のサポートが決まっているとも言った。
なんとまぁ~そんな凄腕のガイドが自分一人の為に、しかも、6000mの山のガイドに駆り出されて来たとは、驚きだった。
ドルジ曰く、万全の準備と時間を掛けて登るノーマルルートの8000m峰で高山病は余りでないが、短期で一発勝負の6000m峰は高山病の出る確率が高く登頂率はそんなに良く無いのだとか。
中でもピサンピークはテクニカルな面はもとより一気に標高を上げるので登頂率は相当低いのだ、と、半ば脅かすように言った。

 ミルクティーをお替わりしながら「ドルジ、雨が降るのを予想したか?」と聞くと「当たり前だろう、だから急いだんだ」と答えた・・・どこか癪に触る奴だった。

 今日のホテルは昨日よりは少し良かったが、やはり建物は旧かった。
しかも、狭い道に沿って建つ宿の真ん前がジープの停車場だった。
あの恐ろしい崖っぷちの道を深夜にヘッドライトだけで走って来るのは信じ難かったが、早朝、夜も明けぬうちからもジープは動いていてうるさかった。

 チャムチェの手前のジャガットやシャンジェには新しくてきれいなホテルが在ったのだが、ドルジは昔からの馴染みなのか古い宿が好みのようだった。

 宿は混んでいた。
トレッカーも幾人か見られたが、ネパール人がやけに多かった。
日曜日だから旅行者なのかと思いダイニングで隣り合ったネパール人に尋ねると、来週選挙が在るので投票の為に村へ帰るのだとか。
ネパール人の戸籍がどうなっているのかは知らないが、本籍地(生まれ故郷)でしか投票が出来ないようなことを言っていた。
そして、来週になるとネパール全土の交通機関が止まってしまうので今週中に村へ帰るのだそうだ。
序でにネパールの選挙の勢力図なども説明してくれて、中国共産党肝いりの政治家と古くからの金持ちの争いなのだそうだが、名前など聞いても聞き取る事さえ出来なかった。

 宿は温水シャワーが出たので浴びたのだが、如何せん雨降りで陽が出ていず、シャワーの後が寒くて震え続けた。
ネパールの山間地は陽が照と陰るとでは極楽と地獄程も気温に差が出るのだった。

 拡声器を通した大声が夜遅くまで響き、時折ネパール音楽のような詩も聞こえた。
翌朝、村の祭りか何かが有ったのかと尋ねると、選挙演説だったと言う。
そうか、ネパールの選挙演説は酒を振る舞いつつ歌や踊りも交えて一晩中やるのでは金も掛かるなと納得した。

 昨日洗濯したシャツ類は乾いたが毛の靴下はまだ少し湿っぽかった。
明日、これが履けると良いなと思いながら雨が上がった窓の外に干して寝た。

 豆などで来た事が無いのに、右脚の人差し指に水泡が出来ていた。
これの処置は爪切りで穴を開け水を抜いて皮は剥かないでおけば皮がむけて痛む事も無いのは心得ていた。

 八時消灯・・・しかし、うるさくて寝付かれず。

 

 


コメント (2)
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