じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

トロン・ラ・パス越え No.18

2014-01-05 09:32:49 | ネパール旅日記 2013

 11月22日 金曜日 快晴 強風

 ドルジが起き出してパッキングを始めた。
時計を見るとまだ4時半だった。
ドルジに「起床は5時半って言ってたじゃないか」と言うと、他のパーティーは皆起きているし、朝飯を食べているグループもあるから起きろと言う。
「なんだよ、明日は5時半だと言ったのはお前じゃないか、どういう予定の立て方をしてるんだ」と文句を言うと「出発が五時半と言ったんだ」と言うので頭に来て「お前らだけ勝手に行け」と言ってまた寝袋に潜り込んだ。
ドルジは何も言わずパッキングをして部屋を出て行った。
しかし、まだ真っ暗な外は既に騒がしく、大勢の人の興奮した声が聞こえる。
今までの宿の朝とは完全に違った雰囲気で、アンナプルナサーキットの最大の難所「トロン・ラ・パス」越えに興奮している様子だった。

 しょうがねぇなぁ~とりあえず起きるか、と、寝ていられる雰囲気ではない宿の空気に押され寝袋から這い出した。

 パッキングを済ませヘッドランプを灯しダイニングに行くと夕食時にも増してごった返していた。
チェックアウトをしている人も多く会計のためにカウンター前は押し合いへし合いで殺気立ってさえいた。

 ダイニングはストーブの火も入っていなくて寒かった。
中にはあんな薄着で峠越えをする気なのかと心配になる人がいたりして驚かされる。
また斜向いの席では、白い髭の爺さんと見た目では中学生かと思しき白人の女の子の二人連れがマカロニらしいパスタを持て余し、爺さんが、食べないと歩けないぞと促していた。
不味くて食べられないのではなく、高山病の初期症状だろうと思う。

 自分を見つけたドルジがお湯とパンケーキとミルクティーを持ってきた。
朝食は最後の日本食、梅お粥とマルコメの味噌汁だった。
パンケーキはネパール標準の味で、蜂蜜をたっぷり掛ければ食べられたが、如何せん気温が低く蜂蜜は凍って瓶から出て来なかった。
スプーンでほじくり出すのも面倒なのでドルジにやった。

 体調が良いのか、フリーズドライのお粥と味噌汁では、まだ足りなかった。
行動食として、ドルジから配給されたナッツチョコと自前のアーモンドチョコが半分と、ソイジョイが一本に塩飴が一袋あった。
そうか、チョコと飴が有ればソイジョイは食べても良いなと言う事で、部屋に持ち帰ったミルクコーヒーでソイジョイを齧った。

 アンナプルナサーキットの宿の中で唯一ここだけがポットン式のトイレだったが早朝は気温が低く凍っていて臭気は無かった。
しかし、宿泊客の人数の割りにはトイレの数は少なく、そして、使う人が多ければそれなりに汚れもするのでダイニングの傍のトイレなどは結構悲惨な状態だった。
自分はトイレに関しては色んな意味で嗅覚が鋭く、複数あるトイレのきれい度や混み具合を把握していたので出発前も心置きなく準備ができた。

 5時30分、ヘッドランプの明かりを頼りに出発。

 最大の難関は宿のすぐ裏手のトラバースだった。
先週降った雪が融けては凍りを繰り返し、完全な氷雪面になっていた。
そこは滑って落ちたら谷底までと言う肝の冷える場所で、氷に慣れていていも緊張した。
自分は登山靴を履き、手にはバランスを取り易いポールを持っているので歩けるが、中には怖くて座り込む人も居て僅かの距離で渋滞していた。
一番難儀したのは重い荷を背負ったポーター達で、靴もスニーカやズック靴で滑って歩けない様子だった
ドルジは危ない箇所の谷側に立ち、自分を渡らせた後も、後続のポーターに手を貸していた。

 こんな滑り易い氷の上を馬は平気で行く。
峠を馬で越える人も居て、真っ暗な登山道に馬の鈴の音がいくつか響いていた。
ネパールの高地の驢馬や馬は人間が手足を使わないと登れないほどの急斜面を四つ足にものを言わせて登って行くのだ。

 早いグループは四時半には出発していて、見通せる限りにLEDライトの白い光が列んでいた。
なるほど、あそこが道なのか、あまり急には登っていないな、などと観察する余裕があって、馬と驚異的に早いドイツ人二人連れ以外には抜かれる事も無く、快調に登って行った。

 気温は氷点下10度程度で標高の割りには冷えていなかったが、薄着の欧米人は震えながら歩いていた。
早朝強かった風が止んだからこの程度の寒さだったが、風が吹いていたら彼らはどうしたんだろうと思う。
あまり知られていない事だが、簡単そうに思えるこの峠越えで毎年幾人かの人が亡くなっている。
自分が居た数日もレスキューヘリは毎日トロンハイキャンプやトロン・ラ・パスから人を搬送していた。
多くは高山病でのレスキューらしいが、数日前には滑落事故での救助もあったらしい。

 ドルジに「いつまでライトを点けておくんだ」と言われ夜が明けていた事に気が付いた。
自分は朝日に照らされ焼けて行く山を見るよりも前に居る人を追いかけて抜く事に燃えていた。
自分を抜いて行ったドイツ二人組は歩くのは速いのだが休みも多いのでまだ射程距離内に見えていて、絶対に抜かなければならないと言う無意味な使命感に駆られていた。

 急な登りを終え風景が変わった。
荒涼としているが、ヒマラヤらしく無いなだらかな丘陵風景になったのだ。
ドルジに「もうすぐか」と問うと、無言で首を横に振った。

 ナーランが遅れていた。
普段カトマンズ近郊のさして高く無い所で生活しているナーランは高所に弱いのかも知れなかった。
少し休んでナーランを待とうと言うドルジに、ナーランと後から来いと言い残し先を急いだ。

 写真で見て知っている峠の頂きはタルチョが旗めき茶店が一軒有るはずだったが、ずっと先まで見通せても目に入らなかった。
と、言う事はドイツ二人組を抜くチャンスはまだ有ると、先を急いだ。
少し先の大岩の前で彼らが休んでいたのだ。

 日陰は凍り付いたままの道も朝陽が当たり急速に気温が上がって行くのが感じられた。
大岩の前で休んでいたドイツ二人組の前を「ハロー」と、虚勢を張った笑顔で挨拶して通り過ぎたが、息は上がっていた。
しかし、なんとしても逃げ切りたかった自分は彼らが腰を上げないうちに引き離そうと脚を緩めなかった。

 8時00分、トロン・ラ・パス到着。
5416mの峠は風が強く寒かった。

 茶店で暖を取ろうと逃げ込むと、薄暗い中に馬で登った先客二人が居た。
歩いて来た訳でもないのに一人が疲れ切った顔をしていたのは高度障害だろう。
二人には見覚えがあった。
シンガポールから来た男性客とガイドの女性の二人だった。
彼らは自分と入れ替わるように茶店を出て行った。

 ドルジとナーランは左程遅れる事無く茶店にやってきた。
ドルジが「ティー?」と訊くので「大盛りのレモンティー」と頼んだ。
普通なら高くても50円のレモンティーが大きなマグカップとは言え300円もしたが、茶店のおやじは毎日トロンフェディーから1000m、灯油を背負って登って来るのだそうで、紅茶の値段も頷ける。

 茶店で暖まっている間に次々とトレッカーが到着し、歓声を上げ写真を撮っていた。
自分もドルジとナーランと写真を一枚撮ってムクティナートを目指し下り始めた。
山への登頂ではないが5400mの高みを登り切ったら少しは感激しそうなものだが、自分は殆ど何の感慨もなかった。
自分のヒマラヤはピサンピークで終わっていたのかも知れない。

 ドイツ二人組も一緒に下り始めた。
彼らのガイドとポーターがドルジやナーランと話しながら歩くので必然的に八人のグループになって歩く事になった。
下りは急ぎたく無かったので休息してやり過ごそうとしたのだが彼らも同じ場所で休んだ。
そこには先行していたシンガポールも居たが、ガイドがただならぬ様子で騒いでいた。
彼女は歩けなくなった客にレスキューヘリを呼びたいのだが携帯電話が通じなくて困っているとらしかった。
ドルジが何やら言うと彼女の携帯を持ってトロン・ラ・パスへの道を登って行った。
20分ほどで戻ってきたドルジが、レスキューヘリはジョムソンからすぐに来ると彼女に言った。
シンガポールが水を欲しがったのでテルモスのジュースを飲ませた。
彼は軽い高山病のようだが、それ以上に体力負けでバテている様子だった。
シンガポールは顔が真っ青で震えていたのでレスキューシートで包んでやった。
すると遠巻きから小さな歓声が上がった。
なんだか恥ずかしくなったのでさっさと出発した。

 トロン・ラ・パスから先はムスタン地方と呼ばれ風景も気候も一変する。
ガイドブックによれば、ムスタン地方はチベット的な風景が広がると書かれているのだが、成る程、川沿い明るく開ける景色は峠の向こうの谷間の風景とは全く違う。

 陽射しが強く風が暖かかった。

 ナーランの荷物を下ろすのに丁度良い岩の所で休んでいると英語の若者四人連れがやって来た。
隣に座った男が自分の食べているナッツチョコを見ながら「腹が減った」と言うので食べ掛けのチョコを「喰うか?」と言って渡した。
無言だったが眉毛をピクッと上げ、目がありがとうと言っていた。

 ナーランと二人して下りは苦手だった。
携帯電話が通じるようになるとドルジは頻繁に誰かと話しをしていた。
遅れるドルジを放って先を急ぐのだが、凍った道でぼやぼやしているとすぐに追いつかれる。
 
 転がり落ちるような急坂を下って11時00にチャパルグ到着。
標高4800mのチャパルグにはトレッキングシーズン中だけ開いている茶店が3軒ある。
チベッタンブレッドとゆで卵とレモンティーの昼飯を食べた。

 茶店からはトロンピークの山腹に切り開かれつつあるジープロードが見えた。
まだ岩を砕いて山腹を削っただけで車が走れる状態ではなかったが、しかし、いずれ完成すればアンナプルナサーッキットをジープで回れる日が来る事になると思うとトレッキングスタイルも変わるだろうなと複雑な思いに駆られた。
ナーランにあの道はいつ頃完成するんだと訊くと、10年経ってもあのままじゃないか、と言った。
選挙が近くなるとパフォーマンスで工事が始まり、終わると放置されるのが常だそうだ。
もしも工事が再開するとしたら次の選挙の頃で、それがネパールさ、とドルジが言った。

 12時00、チャパルグからムクティナートに向けて出発。
急坂が終わり広い河原の道に出た所でレスキューヘリがトロンピーク方向を目指して飛んで来た。
シンガポールを救助に行くヘリだろうが中々高く上昇せず旋回して上がってはまた降りて来る。
ドルジ曰く、ヘリは一気に6000mオーバーには上がれず、風を見ながら旋回して昇るのだとか。

 ムスタン地区はチベット文化の影響を強く受けていると言われる。
チベット旅行記の文章とぴったり符合する風景を目の当たりにし、河口慧海はポカラからラサへ向かうのにこの地を通ったはずだと確信し胸が熱くなった。
河口慧海はあの河原でヤクの糞を拾いお湯を沸かし麦焦がしの団子を食べたのだと勝手に決め込んで暫し感激した。

 ヘリが下降するのが見えた後、少ししてジョムソンの空港へ向けて飛んで行った。

 午後2時30分ムクティナート到着。
 
 ムクティナートからはネパール第二の都市ポカラまでジープやバスを乗り継ぐか、または30キロほど先のジョムソンまで行けば飛行機での移動も可能になる。
トロンの峠からこちら側はもう辺境の地ではないのだ。

 今はオフシーズンで静かなムクティナートだが、オンシーズンにはポカラから車や飛行機でやって来る観光客で混雑するらしい。
ここはトロン・ラ・パスから降りて来るトレッカーも多いが、アッパームスタンへの入り口としても賑わう。

 宿の看板がロッジからホテルに変わった。
部屋は申し分のない清潔感にあふれ、トイレも温水シャワーもホテルと名乗って良い設備だった。

 自分は五日ぶりのシャワーを心置きなく浴び、全衣類の洗濯をし、屋上のベランダに万国旗の如く列べた後、身も心も解放され、日当りが良くて暖かなダイニングでビールを片手に日記を書いた。

 この日の夜はベジタブルフライドライスとオニオンスープにしたが、これが今までに無く美味くて感激した。
しかし、後から隣りの部屋に入ったカナダ人が食べた「ヤクステーキ」が如何にも美味そうで、あれを食べれば良かったと少し後悔した。

 明日、カクベニの宿では絶対にヤクステーキを食べる事を心に決め、午後7時半就寝。














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