11月26日 火曜日 コラパニからタトパニへ
宿そのものはとても快適なのだが如何せん道路に面した部屋は時たま通り過ぎるジープの音や馬鈴を低く響かせて行くロバの群れの音に悩まされ快眠とはいかなかった.
しかも昨夜は深夜にヘリコプターがジョムソン方向へ飛んで行く音が聞こえたが、レスキューだったのかと、気になった.
やはりジョムソンからポカラへ向かう街道は既に秘境でもなんでも無く、単なるネパールの田舎なのだなと痛感した.
昨夜の白人男性二人連れの晩飯は特筆ものだった。
オーダーはライスだけで、皿に大盛りの白米にケチャップを掛けて食べたのだ。
トロン・ラ・パスより向こう側の高地の美味く無い食べ物を欧米人がケチャップで凌いでいたのは見ていたが、彼らは仕方なく食べていた訳ではなく、これが好きだったのかと唸ってしまった。
今日の予定は未定だった。
ナーランとドルジの提案は途中からバスに乗ろうと言う事だったが、自分はトレッカーとして出来る限り自分の脚で前に進みたかった。
それで無くても往年のアンナプルナサーキットの色は随分と褪せ気味で、相当に楽な行程になっているのだから。
コレパニ 7時半出発 ガサ 9時半着
コレパニからガサまで2時間歩いたのだが、ウンザリだった。
ジープロードには既に小型のバスまで走っていて、それらが巻き上げる土埃の凄さは下るにしたがって酷くなる一方だった。
バンダナとタオルで口を覆っているのだが、それでもじゃりじゃりする程に微粒子の土埃は酷かった。
当然衣服も埃で真っ白で、ガサよりもっとずっと手前のレテやダイクででもバスがあれば乗りたかった。
しかし、皮肉なもので、バスに乗るぞと決めた途端に乗れるバスが見当たらなくなるのだ。
結局はコレパニから10キロ以上も歩き、タトパニまで下り一方で3時間もあれば行けるところまで来てしまった。
ガサは大して大きな町でもなかったが軍隊の駐屯地が有って独特な雰囲気だった。
自分は茶店で紅茶を飲んでのんびりしていると、10時発のバスのチケットが買えたと言ってドルジが喜んでやって来た。
先週の選挙の警戒でカトマンズから彼方此方の村に派遣されていた兵士がガサに集まり、今日、ポカラ経由でカトマンズへ戻ると言う事で、バスターミナルは兵士でごった返していた。
自分らの他にも白人のトレッカーが3組程居たが彼らは午前中のバスのチケットは手に入らなかったらしい。
こう言うところは我がガイドのドルジは極めて有能で、大抵の場合は一番良い席も確保してくれる。
実際に自分は20人乗り程度の小型マイクロバスの一番後の角の席を確保されていた。
しかし、ここは後輪の上でバスが走り出すと地獄を見る事になるのだったが。
インドのタタ自動車製のマイクロバスは、座席定員20名程度のところへ40人程も詰め込み発車した。
ツーリストは自分だけで、残は兵士と地元民が数人だった。
歩いているとあまり感じない道路のデコボコだったが、車で走ってみると凄まじい悪路で、瞬く間に尻が痛くなった。
開け放した窓からは前輪が巻き上げた土埃が容赦なく入り込み、最後部の自分は常に土埃の煙幕の中に居た。
マイクロバスは時にギャーをエクストラローに入れ、これは無理だろうと思う急坂をジワジワと登って行った。
道が幾分開け川沿いになると風が通って気持ちが良かったが、その分、心許ない路肩が崩れてバスが落ちたらお終いだなと、肝が冷えるので痛し痒しだった。
バス料金は1人650円だったが本当の料金は分らない。
例によってドルジがピンハネしている可能性は大きかった。
これは勘なんだが、恐らく一人200円もしなかったろうと踏んで居るのだが。
途中でバスが止まったが乗って来たのは人では無く、ガソリンのポリ缶が二つだった。
既に人の座るスペースは無い詰め込み状態で出発しているのでポリ缶はどうなるのかと見ていたら、幾人かの手を渡っているうちに何処かで落ち着いたらしく手渡しは無くなった。
油臭いポリ缶に騒ぐ人も無く、なんだか不思議な光景だった。
このバスが戻る時にガソリンが満タンになって村に届くのだろう。
バスで走っている間に見掛けたトレッカーは皆無だった。
やはりこの区間は歩かないのが当たり前になっているのかも知れない。
歩いて3時間の距離をバスは2時間で走り切って12時にタトパニに着いた。
地図で読む推定距離は15キロ程度だから平均時速は7キロ位と言う事になる。
タトパニはネパールでは有名な温泉地だった。
しかもポカラからバスやタクシーでも来られるのでトレッカーばかりではなく、普通の旅行者が多く、今までの村や街と雰囲気が違い、すっかり観光地だった。
自分はこの雰囲気には馴染めないと思ったが、こんな街が好きな人は多いのだろう、西洋人も日本人も恐らく長期滞在なのだろうと思わせる人を随分見掛けた。
既に3週間を着倒した衣服は相当草臥れ、禿げた額が日焼けで黒光りし、トレッカーとしての風貌は整っていたが、しかしここは観光客の街なので汚いトレッカーは肩身が狭かった。
宿の「洗濯請け負います」の張り紙がやけに目についた。
昼飯に「ヤクステーキ」を食べた。
4000mのムキナートで1000円だったヤクステーキは標高が下がるにつれ値を下げ、1100mのタトパニでは500円になっていた。
しかし、標高と味は反比例の法則に則って、タトパニのステーキはまた味を上げていた。
昼飯を食べ部屋で寛いでいるとドルジが風呂へ行こうと誘いに来た。
タトパニの温泉はどのガイドブックでも一押しで、観光嫌いの自分でも外すわけにはいかない名所だった。
しかし、温泉大国日本で湯巡りを趣味にして来た自分としては、正直に言って、こんなもんか? と言うのが感想だった。
コンクリート製の幼児プール程度の大きさの湯船は源泉掛け流しで湯量も多く、温度も適正と、悪くは無いのだが、総ての作りや配置が粗雑と言うか、今一と言うか、残念なのである。
湯船の脇には清流が流れロケーションも抜群だし、ビールやツマミを売る売店も有って何も不足はないのだが、長湯をしてのんびりする気にはならなかった。
流れ出る湯で身体を洗い洗濯を終えたら白人の団体がぞろぞろとやって来た。
男女とも、湯船に入ったら大量のお湯が溢れ出す体格で、興味も湧かなかったのでさっさと退散した。
ドルジが押さえた部屋は屋上のペントハウス的な眺めの良い部屋だった。
すぐ前のテラスからニルギリが見え、自分はビールを持ってテーブルに陣取りそれを眺めていた。
すると、二組のカップル四人組が相席を良いかと言って来た。
椅子は四人分しか無いので三人を座らせても1人が立っていて落ち着かない。
あぁ~ぁ、またこれかよ、と思いつつ、急いで飲んだって美味くも無いビールを飲み干して席を譲った。
カメラを持って散歩に出た。
宿が連なる目抜き通りから少し外れた茶店を見つけて入ると、ドルジとナーランが飲んでいた。
二人は既にだいぶ飲んでいたようで機嫌が良かった。
自分もロキシーを貰って呑んだ。
ドルジとナーランはネパール語で話しに夢中で自分は入れなかったが、それが選挙の結果だと言うのは何となく解った。
一月近くも毎日聞いているとなんとなく単語の一つや二つは覚えてしまうもので、耳が慣れたたのでこれから急速にネパール語を吸収できると思ったが、後一週間で旅は終わりだった。
この夜、夜中の12時を過ぎてもテラスで騒いでいる奴らが居て寝付けなかった。
声からすると若い白人のグループらしかったが、酔っぱらいの若者に文句を言いに行く度胸は無かったので寝袋を頭から被って堪えた。