11月23日 土曜日 快晴
宿が快適でここに暫く居続けたい気分になった。
トイレや洗面所やシャワーや臭く無い寝具などの基本的な安心感が備わっているのだ。
ベッドには分厚い毛布が準備されていて、久しぶりに寝袋から解放されて寝た。
夜が明ける前に起きていた。
屋上から見えるダウラギリの朝焼けを撮りたいと思ったのだ。
厚着をしてカメラを持って屋上に行き日の出を待ってみたがダウラギリは東方向に位置しており西側に朝日は当たらなかった。
ふと見ると昨日の昼間、全面的に物干に広げたはずの自分の洗濯物が半分ほど隅に追いやられていた。
隅に追いやられて重なっていた自分の洗濯物は乾かずに凍り付き、代わりに誰か知らない人の洗濯物がはためいていた。
そう言えば昨晩隣りの部屋から「日本人が屋上の物干を占領しちまっているぜ」と言うが聞こえていた事を思い出した。
今朝はドルジもナーランもいつに無くのんびりしていた。
それは今日の歩く距離が短くて楽な事も理由の一つだが、ピサンピークアタックとトロン・ラ・パス越えが終わり、トレッキングも終盤に差し掛かった気楽さが大きかったと思う。
特にナーランはあと数日で家に戻れるので気持ちがそちらへ飛んでいた。
朝食を食べながら宿の若旦那と話しをして驚いた。
自分の中では「ネパール王国」だったのだが、王制はとっくに無くなっていたのだ。
複雑な権力闘争と、逐われた王家の悲惨な話しを聞いたが自分には良く飲み込めなかった。
しかし、王制でも共和国でも国民の暮らしはさして変わらないと彼は言った。
ネパールのトレッキング街道で少し近代的な宿を開けば繁盛すると思うが、何故大資本のホテルが進出して来ないのか尋ねた。
彼曰く、トレッキングルートに宿を開業できるのはネパール国民でその地に関わりのある山岳民族の者にしか許可されないのだとか。
外国資本が来たらネパール人の資本では太刀打ちできないので観光資源の保護と商売の権益は国が国民のために保護しているのだとも言った。
ナーランは彼がいなくなってから、トレッキングルートの宿は街道毎に特定の種族の権益になっていて、持たざる者との貧富の差は広がる一方で、それが共産党勢力を生んだ原因だと言った。
朝八時ムクティナートを出発。
ムクティナートからはポカラまでジープロードが続いていて、峠を越えたトレッカーの中にはここから車に乗る人もいた。
だからジープロードから外れた旧道沿いの茶店は寂れて見えた。
時折道の脇に土産物屋を見掛けたが長い事晒されているらしい商品は日に焼けて色褪せ埃を被っていた。
オフシーズンだから静かなのだろうと思っても見たが、しかし、営業を止めた宿や茶店も見られジープロードが開通した影響があるのは確かなようだった。
標高3800mのムクティナートから2800mのカグベニまでは荒涼としたチベット的風景の中を歩くのだが、高い山が迫っている谷間の道とは違って開放的で明るかった。
乾き切った風と開けた風景がこの国も大陸の一部を占める国である事を思い出させていた。
ダウラギリが見えた。
楽しみにしていた8172mのダウラギリだが、距離の関係からかあまり迫力を感じなかった。
ダウラギリは8000m峰で登頂も困難な事で世界に名を轟かせている。
近づいてみれば三角錐の姿は秀麗で申し分無いのだが、自分はカリガンダキ川を挟んで対峙するニルギリの方に惚れた。
ニルギリはニルギリヒマール山群と呼ばれる独立したさして大きく無い山塊の山で標高もニルギリノースで7061mと大して高くも無い。
しかし角度によっては独立峰にも見えて聳える姿は溜息が出るほど美しかった。
ジープロードを外れ旧いトレッキングルートを辿って来るとカクベニの街が見下ろせた。
カグベニは緑豊かで牧歌的な風景だった。
牛を二頭立てにして畑を耕す様が彼方此方で見られ、牛を追って鋤を押す男の歌声が響いていた。
日本では随分昔に無くなった農耕の姿であったが、しかし自分の記憶にはまだ確かに有る風景で、言葉も分からない歌に強い郷愁を感じた。
ナーランが、この界隈の木は全部植林した物だと言った。
この地が緑豊かにになったのはそれ程旧い事ではなく、痩せた土地を耕し、植林をして農耕地を造ったのだそうだ。
そう言われてみれば整然と植えられている樹木はまだ細く、頼りないものではあった。
カグベニの街には11時に着いた。
時間的に見ればまだ先まで歩けるのだが、ガイドブックを読めばカグベニは外せない、是非とも滞在したい街だった。
しかし、この街もジープロードの影響で素通りするトレッカーの方が多いのか、とても静かだった。
トロンハイキャンプの宿で一緒だった人や途中のトレッキングルートで見掛けた顔は一つも見掛けなかった。
ナーランによると宿にはネパール語が堪能な長期滞在の日本人がいたらしいが自分は会わなかった。
ちなみに、ネパールのトレッキングルートを歩いていて気に入った街や宿に出会って長期滞在しようと思った場合の経費は、宿代が300円程度、紅茶やコーヒーが30円から50円程度、パンケーキやピザやダルバートの食事で300円程度なので、一日1000円も有れば賄えてしまうと思う。
しかも、ネパールの田舎はガンジャーにも寛容なのでその手の趣向の有る人達には天国になり、長期滞在する人も多いらしい。
宿は今日も素晴らしかった。
部屋にはシャワーとトイレが付いていた。
しかし、ここまでの宿では期待する度に裏切られて来たのでそのつもりでシャワーの温水を確かめると、見事に普通の温水シャワーが出た。
早速荷物を解き、シャワーを浴び、序でに生乾きの洗濯物をザックに括り着けて歩き埃だらけになったものを再度洗った。
三週間延び放題に伸ばした髭も剃り、取って置きの着替えをして昼飯を食べた。
ヤクステーキにしようかと思ったがお楽しみは夕食にとっておき、昼飯はベジタブルフライドライスにしてみた。
流石に車で物を運べる街だと思った。
まず米が美味かった。
そして、フライドライスの味付けが醤油味だったのだ。
その味は、自分が子供の頃に母が作ってくれた焼き飯の味に似ていると思った。
昼飯の後ダイニングでビールを飲み日記を書いているとドルジが街を歩きに行こうと誘って来た。
ドルジとは既に和解していた。
和解したと言うよりは、全てはなし崩しにうやむやになり、自分が触れない事にしただけなのだが。
ドルジに連れられ500年だか600年の歴史を持つチベット仏教の僧院に行った。
kag Chode Thupten Samphel Ling monastteryと、パンフレットには書いてあるが読み方は分らかず正確な寺の名前は今もって不明だ。
寺の内部を案内してくれた修行僧の少年が流暢な英語で色々と説明してくれたのだが、こちらの理解力が足りなくて良く分からなかった。
チベット仏教は凡そ600年ほど前に新旧の派閥が入れ替わり現存する寺の多くは新しく起った大乗の寺で、600年の歴史を持つ寺は最古の部類になる。
そうであればチベット旅行記の河口慧海もここに立ち寄っているのではないかと思い少年僧に聞いてみたが彼は名前さえ知らなかった。
寺の内部の飾り物にヒンドゥー教の影響と思われる物が見られ面白かった。
帰りの出口に寄付を募る箱があったので100ルピーを入れた。
カグベニの街は静かだった。
ジープロードから外れ素通りの人が多いのか歩いているトレッカーは見掛けなかった。
街の人は老いも若きも日溜まりで居眠りをし、傍らには赤ん坊や犬や牛も寝ていた。
ドルジが一杯やって行かないかと言って路地の茶店に入った。
ヤクミートを食おうと言ってロキシーと干してあったヤクの肉を頼んだ。
固いヤクの干し肉はお湯で戻した後に少しのタマネギとニンニクや唐辛子を入れ油で炒めて出された。
少し固めのビーフジャーキーのような歯ごたえのヤクの肉はとても美味かった。
2杯目のロキシーを飲む頃には美人の女主人と街の事や暮らし向きについて話しをしていた。
トロン・ラ・パスを下り緊張の糸が完全に解け、やっと自分本来の度の形になって来た。
彼女はアッパームスタンの殆どチベットに近いところから出て来たそうだが高い家賃を払って茶店をやってはいるが生活は大変だと言った。
彼女に一杯やったら、とロキシーを勧めたが笑って手を振った。
3才位かと思う彼女の娘が自分に興味を持ち少しずつ近寄って来て、しかし手を出すと逃げて行くのを繰り返していた。
彼女が邪魔しちゃ行けないと言うと少し離れるのだが少しするとまた寄って来て、とうとう自分の膝の上に乗った。
シラミだらけなんだろうな、と思うぼさぼさの頭を撫でながら、旦那さんは仕事に行っているのかと問うと、マレーシアに出稼ぎに行っていて2年も会っていないとの事だった。
話しを聞いていたドルジが意味有りげに笑って自分の肩を突いた。
空になったグラスを置くと彼女がすかさず三杯目を注いだ。
家賃は月に6000ルピーで、プロパンのガス代が幾らで、と、細かな事を話し始めた。
自分はすっかりなついた子供の写真を撮りながら彼女の話しを聞いていた。
三杯目を飲み終えるとドルジが帰ろうと言って勘定をした。
ロキシーが一杯50ルピー、ヤクの肉が100ルピーで400ルピーだった。
ドルジがもたもたと細かい札を勘定していたので自分が500ルピーを出して釣りは要らないと言って茶店を出た。
彼女が、夜は7時まで、朝は7時からやっているから、と言ったのを聞いてドルジがまたくすくすと笑った。
宿に戻りベットにひっくり返って日記を書いているうちに少し眠った。
夕食時にダイニングに行くと泊まり客は自分一人のようだった。
待望のヤクステーキを注文し冷えたネパールアイスビールを飲みながら食べた。
ヤクのペッパーソースステーキは美味かった。
これまでの三週間で一番うまい夕食だった。
しかし、先ほど食べた茶店のヤクの油炒めはもっと美味かった。
夕食を食べ終えたのは6時少し過ぎだった。
茶店に行って一杯やろうかと思ったがビールが思いの外効いたのかとても眠くなりベットに潜り込んだ。
6時半就寝