じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ヒレへ No.24

2014-01-22 14:25:06 | ネパール旅日記 2013

 11月28日木曜日 快晴

 今朝は4時過ぎに起きプーンヒルまで登り御来光を拝んで来た。
しかし,大して感激するものでもなく,一応ネパール観光の目玉と言われているので行っては見たが,トレッキングの道々、間近に巨大な山々を見て来た後では迫力に欠ける。

 チベットパンとフライドエッグの朝食を食べ、9時頃,ナヤプルを目指し歩き出す。
トレッキングは今日が最後だ。
もう歩か無くて良いと思うと寂しいやらほっとするやら複雑な心境になった。
しかし感傷に浸っている暇も無く最後の一日の行程は下り一方なのにハードだった。
2860mゴレパニから1070mのナヤプルまでを10キロ強で降りるのだから道の急さは推して知るべしである。
しかも,バンタンティの村から先は石の階段が延々と続き歩幅が限定される上に道はロバや牛の糞だらけで,それらを躱しながら歩くのに難儀した。
しかし,いくら酷い下りとは言え登るよりは何倍も楽なのは確かで,すれ違う登りのトレッカーに「あとどれくらい?」と聞かれる度に云われの無い優越感に浸りつつ、決まって「あと1時間くらい」といい加減な事を言っていた。

 このトレッキングで驚いた事はたくさん有るが,殆どの人が地図も持たずに歩いているのには心底驚いた。
だから,自分が茶店やレストランで地図を広げていると誰か彼かに見せてくれと言われた。
他の人達は自分がどこを歩いているのか気にならないのか不思議だったが,しかし,ガイド付きのトレッキングなのだからどこに居るかなど知らなくても困る事も無いのは確かだが。

 歩幅の合わない石の階段にうんざりしながら下って行くとウレリの村に展望の良いレストランがあった。
陽当たりと眺めが抜群なので昼飯をとる事にした。
看板に「ウレリの村の名物ピザ」と書かれていたのでソーセージのピザを頼む事にした。
この村には電気は来ていたがジープロードは通っていず荷物はロバで運んでいる。
車の終点のナヤプルからは一日で来られる距離だが,今までの経験から推測すればピザの具に期待は出来ないと思って注文してみた。
しかし,恐らく品切れだろうと思ったソーセージのピザのオーダーは受理され,程なくしてチーズたっぷりの美味そうなピザが現れた。

 ピザを食べながら眺める景色がどこか日本の山間のそれと似ており、心が和むと同時に郷愁の念に駆られた。
家を離れて一月なんて事は今までに何度もあったが今回は何故かやたらと里心がつくのだった。
トレッキングが終われば家に帰るのだが,それは嬉しく楽しみである反面,馴染んでしまったヒマラヤの空気から離れるのは寂しかった。

 標高2000mを切ってからはますます日本の風景に似てきた。
しかしそれは今の日本の山間地の景色ではなく,自分の記憶の中の40年以上も前の風景だった。
のどかな風景に旅人は憧れるが,現実のこの地の民の暮らしは自分らが思う程安閑としたものであるはずも無く厳しい事は容易に想像がつく。
しかし,分っていも憧れてしまうのは何故だろう。
ずっと昔に何処かで無くした大事なものがここにはあるように思えてならなかった。

 もう少し歳を取り足下が怪しくなったらこの辺まででも登ってきて日がな一日ここで景色を眺めるのも悪く無い。
そうだ、次は女房を誘ってここに来てみようか,などと、既に次の事を思い始めていた。

 ピザを食べ終えたタイミングを見計らってドルジがやってきて「今日はヒレ泊まりで良いか?」と訊ねた。
そうなのだ、タトパニで一日詰めてしまったのでポカラの宿の予約は明日からなのだ。
と,言う事は,降りてしまえば今日中にポカラに着けるのだが,無理をしてでももう一泊何処かに泊まらなくては成ら無いのだ。

 ウレリから下の方に幾つかの建物が見えていた。
その内のいくつかは大きく見える事から恐らく宿だろうと見当をつけ「あそこに見える青い屋根の宿に泊まろう」と言うと「おお,手前じゃ無くて先の青い屋根か?あそこは馴染みなんだ,あそこにしよう」とドルジが喜んで言った。
「ああ,お前の馴染みだと俺が不愉快な思いをしそうだから止めよう」と言うと,黙って立ち去った。

 急な石の階段はその後も容赦なく続き,ロバの糞や牛の糞を避けながらのんびりと下った。
最後の宿まで,急いで行く必要も無く,また、ゆっくり噛み締めながら行きたかったから余計にのんびり歩いた。
それでもヒレの宿には2時前には着いてしまった。

 宿に入ると,一番乗りの特権で部屋は選り取り見取だった。
二階のテラスの角で,一番眺めの良い部屋を選んで荷物を置いた。
ここからの眺めは自分が子供の頃の田舎とそっくりで,トレッキング最終日の宿として申し分無かったが,しかし,この宿が例の青い屋根の宿である事はとっくに知っていた。
まあ良い,ドルジがロキシーを煽って酔いつぶれようとも,明日は一時間か二時間も下ればタクシーを拾ってポカラのホテルだと、騒がない事にした。

 温水シャワーの出が良かったので序でに洗濯をしようとありったけの衣類を持って下に降りると,水場で洗濯をしていたドルジが洗ってやるから置いて行け,と言ったので気持ち良く頼む事にした。
ドルジは慣れた手つきで大きなゴミ袋に一つ分の洗濯物を手際良く洗ってバナナの前のロープに干してくれた。
風がないので乾かないかも知れないと言いつつ,自分の服も全部洗っていた。

 シャワーを浴びさっぱりしてテラスでビールを飲んでいると洗濯を終えたドルジとナーランが上がってきて座った。
もう何を言いたいのかは顔を見れば察しが付くのでナーランにビールをあと二本頼み三人で呑んだ。
ナーランとは明日で最後だからボーナスをやらなければならなかったが手持ちのルピーは少なく1万ルピーは持っていなかった。
相場は25日掛ける300ルピーで7500らしいが,やはり切りの良いところで1万渡したい。
ドルジが居たがどうせ分る事だからと,明日ポカラに着いたらATMに行くから一緒に来いとナーランに言った。
ナーランは戯けて「OKサー」と言って大げさに敬礼をした。

 今夜の客は自分一人かと思い始めた頃,白人の一行、6名の団体が宿に入った。
その姿格好はどう見てもトレッキングでは無く,普通に街中を歩いている服装だった。
翌日宿を出て分った事だが,ここから10分も下るとジープロードが来ていて一行はジープで来て少し歩いただけだったのだ。
更に,あの一行はポカラの旅行業者がやっている、東洋の神秘「ヨガ」をネパールの霊検灼かなる山間地で体験するツアーだったのだ。
彼らと彼女らは早速自分の物干し場の前にストレッチマットを敷きヨガを始めたが,あれはどう見てもただのストレッチ体操にしか見えなかったが,皆は真剣にインストラクターの真似をしていた。

 夕食は豪勢に羊の肉のガーリックステーキとジャガイモの丸揚げ,野菜サラダを食べた。
ロキシーを呑みながらドルジやナーランとふざけていると宿の主人も笑いに誘われて顔を出す。
彼はタカリー族である事を誇りにしているらしく時折怪しい日本語を織り交ぜてネパールの歴史とタカリー族の歴史を語ってくれた。
しかし,話しの序でに興に乗って日本語らしい歌を歌うのだが,所々の単語は分るとしても全体としては意味が通じない歌に間の手を入れ褒めなくては成ら無いのは辛かった。
しかし今日がトレッキングの最後の夜だと言うとロキシーはサービスだからいくらでも呑んでくれと気前が良かった。

 自分はいつに無く酔っぱらいロキシーを立て続けにあおっては騒いでいた。
後のテーブルのヨガのグループは今までトレッキング中に出会った白人のグループとは違いとても静かだった。
時折自分が言うでたらめな英語にクスリと小さな笑い声が上がっていた。
若い娘が2人居たので一緒に呑まないかと誘ってみたが断わられてしまった。
ベジタリアンで酒も呑まないのグループなのだそうだ。

 宿の下働きの少年が水汲みや洗い物と、良く働いていた。
感心な子供だな,住み込みで働かなくてはならない事情があるんだろうな,と思った時に,まだ非常食のチョコレートや塩飴が残っていた事を思い出した。
部屋に戻って食べ掛けのアーモンドチョコと塩飴と、どう言う訳か食べ損ねてマルファから担いできたリンゴもあげた。

 その夜,ドルジとナーランと強か呑んだ。
そして,来年の計画を練った。
行く先はアイランドピークだった。
ドルジ曰く,アイランドピークはフィックスロープも張ってあるしテクニック的にも楽だし,何よりも登りがきつく無いのが良いと言った。
もう一度行きたいかも知れないと自分が言ったピサンピークは登りが辛いから止めてくれとドルジが懇願し、アンナプルナサーキットを二周するんならエベレスト街道へ行くべきだ,とナーランが言った。
それじゃぁエベレスト街道を行ってカラタパールに登ってアイランドピークをやっつけて,何日必要で何時頃が良いのだと問うと,今回と同じ一ヶ月で,同じ頃,11月から12月が人が少なくて良いと言う。
よし分った,約束する,「たぶん」また来年来るからな,と言ってまたロキシーをあおった。

 酔いつぶれる感じで9時半就寝。

コメント
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