11月29日 金曜日 快晴
昨夜は楽しかった。
何杯飲んだのか分らないロキシーだったが二日酔いも無く,頭痛も無かった。
もう標高が低いので酒を呑んでもおかしな影響は無いのだろう。
昨夜,部屋にもどっから,静かなはずの白人ご一行が騒ぎ出した。
ダイニングでは酒も呑まないベジタリアンと言っていたがそれは大嘘で,部屋では酒を飲みヒーリングミュージックを大音量で流し、かつ大声で騒ぐのだった。
風に乗って漂って来るのがガンジャ独特の香りだったのは錯覚では無い。
言葉の端はしにZENとかYOGAが出て来るのだが,ヨガも禅も形の問題ではない事が分っていない頓珍漢な会話だった。
乗り込んで行って日本の禅の心の講釈を垂れてやりたかったが、残念ながらそんな英語力も度胸も無かった。
寝付かれずに愚図々していた。
トイレに行こうとヘッドランプを灯したら点かなかった。
今夜からは正真正銘のちゃんとしたホテルだからヘッドランプは要らないのだが予備電池はまだ1個あったから替えた。
40時間持つはずの電池を2個使ったと言う事は80時間も点灯させていたのかと驚いた。
11時を過ぎても白人団体のヒーリング談義は止まなかった。
これがトレッキングの最後の夜でなかったらとっくに怒鳴り込んでいるところだが,明日は緩い下りを5キロも歩けば良いだけなので黙って寝袋に潜り込んでいたらいつの間にか眠った。
チベットパンとゆで卵とミルクティーの朝食を食べ,宿の娘との固い約束を胸に出発した。
宿には娘が二人居て、どちらも美人だった。
まだ高校生の娘は外国人と結婚してネパール国外に住みたいと願っていた。
もっとも通りすがりのトレッカーでごま塩頭の自分がその対象でない事は承知していたが,冗談でも娘の笑顔は嬉しかった。
ヒレの宿からの道は日本の昭和の昔の山村風景と良く似ていると思った。
氷河の山に端を発した急流も随分大人しくなり水温も上がって魚が捕れるのだろう。
日本の山間部の渓流に似た川に投網を打つ人の姿が見られた。
標高が下がるにつれ亜熱帯を意識させられる気温と陽射しになり、常に見えていたヒマラヤの白い峰々が見えなくなった。
ドルジやナーランと離れ、一人最後のトレッキングを噛み締めるように歩いた。
この時,帰りたい気分が3割,もっと歩きたい気持ちが7割になっていた。
そして,あれ程嫌っていたドルジの小狡いごまかしもなんとなく許せてしまう気になって、来年,資金が許せばアイランドピークを彼らと登ろう、ドルジと登りたいと思うようになっていた。
1時間半も歩いて賑やかなビレタンテイーの町に出た。
予定ではナヤプルまで歩くはずだったがビレタンティーの町にはタクシーが数台スタンバイしていて、ドルジは早速交渉を開始した。
ドルジ曰く,ナヤプルからもここからも料金は一緒だから乗ってしまおうと言う事だった。
しかし,タトパニ行きのバスの一件で揉めた事を忘れていないドルジは、知っている単語を全部並べ、この先の道がどれほど無駄でつまらないかを得々と語る事を怠らなかった。
ドルジの熱弁をよそにナーラーンが交渉を決めたようでスズキの小さな車に荷物を押し込んでいた。
もっともタクシーでは贅沢だと言う人はナヤプルまで歩かないとバスは無い。
ナヤプルまでは2キロ程度、しかも未舗装とは言えトラックまで走る道とあっては埃の凄さは推して知るべし,歩く気は毛頭無かった。
ナヤプルからは穴だらけの舗装道路を快適に走り、眺めの良い峠を一つ越え一時間程でポカラに着いた。
ポカラでは久しぶりに普通のホテルにチェックインした。
落ち着いてホッとする間もなくナーランのボーナスのためにATMを探さなければならなかった。
ネパール第二の都市であり一番人気の観光都市と称されるポカラは自分の感覚ではあまり豊かでは無いアジアの観光地ににありがちな田舎の街にしか見えなかった。
土産物屋が建ち並ぶメイン通りを適当に歩いて行くとATMの看板があった。
そこでキャッシュカードを入れ現金を引き出そうとしたのだが自分のカードは相性が悪いのか取り扱いできないと表示された。
ナーランは今日の夜のバスでカトマンズへ帰るのでなんとかしなくては成ら無い。
仕方が無いので緊急用に温存していたUSドルを両替してナーランに渡した。
日本円の手持ちが有ればそれの両替でも良かったのだが数千円しか持っていなかった。
日本食屋の看板を見つけていたので三人で昼飯を食べようと言ったのだがナーランは床屋に行きたいから時間がないと言うので10000ルピーを渡し,また来年の11月な,と握手して別れた。