一昨日の日曜日、佐賀での取材は旧知のと云うか旧友と云うべきか、Joujima女史とそのグループ「ハンドベルクラブ」。OGのメンバーの中に現役はお一人の総勢15名の方々。
平成7~8年にかけて結成されたクラブとのこと。きっかけは、女史がNTTの社長表彰「社会貢献活動賞」の受賞や、老人施設で音楽指導(療法というべきか)するビデオ、社内誌での紹介などから、その活動を知り自分達もお手伝いできないかとハンド・ベルクラブができた。
指導は勿論、女史である。女史は、音楽学校を卒業して電電公社に入った変りダネであるが、それに至った経緯にはドラマがある。(その辺りの事情は、ここでは云わない。LA6号の発行を待たれよ)
サークルの練習は、皆さん人生のベテラン揃い由、中々賑やかであった。私達の取材がもう少し先のことかと思っていたようで、それまでに皆でダイエットして美しくなろうと・・・言っていたそうな。一段と美しくなった皆さんにお会いしたいものだが・・・。
賑やかな取材から、女史が予約を下さった「鰻屋」てランチ。セイロ蒸しを食した。カマラマンの杉田を空港に見送った後、久留米市の自宅へと向かった。
車椅子で動けるようにリホームしたという自宅マンションで個別のインタビュー。実は、17年も前になろうか、取材に訪れたことがる。彼女が、社長表彰を受けた後になるが、老人ホームでの音楽指導の模様をビデオ取材をしたのだ。その時の彼女は、右足が不自由であったが車椅子を使うほど悪くなかった。
幼い頃にポリオ(所謂小児麻痺)に感染した彼女は、運動ができなかった。外で飛び跳ねる遊びもできなかった。その分、内向的になると思われるが、彼女は精一杯に明るく元気に生きてきたと云う。病気なんかに負けないように・・・。
50歳頃から病気の進行が始まったそうだ。歩く事も困難になり、今では股間から両足の先までの装具着用とT型杖が手放せない暮らし。自宅では車椅子を使う。
久し振りに会った彼女は、そんな不自由を吹き飛ばすほど、元気一杯、前を向いて生きていた。
自分の古い服を直をしたいと、昨年から洋裁を習い始めたそうだし、ポリオの会にも入り、積極的に情報交換や提言をしていこうと思っているそうだ。
彼女の人生を訊きなながら、私も少し真面目な話をした。己のことについて、普段は奥底に眠っている子供の頃の日々のことについて。
「僕もね、小さいころにチンバ・ビッコと言われてたんだ。3歳ぐらいから小学校に上がる前までくらいかな。結核性の関節炎に罹ってね。もう少しで手術する破目になっていた。手術をすると、足が曲らんようになっていたんだが・・・。アメリカでいい薬できたと云うことで何とか間に合った」
「足が不自由な所為か、手におえんやんちゃ坊主になって、それが未だに尾を引いているようだ・・・」
私の話など、何の意味もないだろうが、彼女が動くに動けない、外で遊んではだめだと言われていた、子供時代の葛藤や苛立ちは共通するかもしれない。
そんな次第で、旧交を暖めながらの取材となった。年月の流れの中で色いろなことが起きるが、一つづつ乗り越えて今が在ると実感した。