7/22(土)十日ばかりもBLOGのアップをしないできたが、この間にタイトルのような年齢幅での邂逅などが目白押し!。
先ずは12日の正午、富士市東光寺の小澤さん九十三歳が、息子さん一家に付き添われて来てくださった。お会いするのは、住職の葬儀でご挨拶をして以来のことだから十数年経つか。お便りだけは折々に頂戴していたが・・・。
岡山からレンタカーで高知に入り、前夜は市内の老舗旅館に宿泊。この日の朝、牧野植物園を見学されてからの来宅である。両親の仏前にお参り頂き、拙宅で昼餉をご一緒しながら三時間ばかりの歓談。
初めてお会いしたのは昭和49年の夏であったと判明(48年と思っていたが)、剣道部の合宿で身延町下山の南松院の道場をお借りしたご縁である。半世紀にもなろうと云う前のことである。当時、小澤常敏先生はここの住職をされていた。その後、生家の東光寺に戻った。
そんな縁の余韻も覚めやらぬ翌日の早朝、枕もとのスマホに着信が・・・。何事かと思って取ると、なんと渡邊一雄さんからであった。「沖縄から、今しがた高知港に着きました。どちらに居ますか?」とのこと。
まさか、渡邊さんが高知に?それもクルーズ船で!。いや~驚きました。難病を患い、一時は生死のはざまを彷徨っていたのだから。昨年の晩夏か?、津川さんと一緒に豊洲駅でナベさんに会って食事をした。以前に比べると二回り三まわりも小さくなっていた。
高知では桂浜と、すぐ真上にある竜馬記念館をみてから食事、午後に出港して横浜港に向かうとのことである。否応ないさ、11時頃に竜馬記念館で会うことにした。
渡邊さんとのご縁も長くなった。氏が、未だ三菱電機に在職しながらアメリカでの駐在体験をもとにして、企業の社会貢献活動(フィランスロピー)普及の伝道師的な役割を精力的にこなしていた時代からである。と云うことは、平成五年からとなる。この年、私は会社の社会貢献推進室に異動となった。
竜馬記念館の入場口で十五分程待って、ツアー客を乗せたバスが着いた。ステッキを手に真っ先にナベさんは降りてきた。挨拶もそこそこに、旅行できるまでに元気になったことを祝福した。前に会った時より一回り大きくなっていた。
館内をゆっくりと廻りながら、これまでのことを聞きながら一時間程四方山話。二週間の船旅は、横浜を出て太平洋から日本海に入り、釜山にも寄港して九州、沖縄から高知へ。明日の昼前に横浜港に帰るとのこと。別れ際、バッグの中から著書を取り出して下さった。
「やっと見つけた手ごたえのある生き方」人生百年時代のバケットリスト 渡邊一雄 著。
77歳の時に出版した「人生のバケットリスト」を、大病した八十四歳の時にリメイクした著書である。囲碁、落語、カラオケ、俳句と多才な渡邊さんが、人生いかに生きるか「為己為人(ワイケイワイヤン)ー広東語ーの精神を発露した著書であろう。
そして週末の日曜日、松山市から木原君一家がやってきた。東京から松山に移住して十年?ほどか。小学二年生と三歳の男の子の父親になっていた。木原夫妻は、東京・三鷹市の酒屋さんが営み隣接するワイン中心のカウンターBARで働いていた。昼間は酒の販売・配達、夜はBARで。
この店に住居が近い、津川さんが常連だったことから私も同伴するようになった次第。若い二人が一緒になって、そして松山に移住した。丁度、その頃に元気でな・・と、送りだした次第。いつの間にや子供が二人いて、三鷹と同じスタイルの店を経営するようになっていた。
幼いとは云え元気な男の子二人を迎え、夏の定番であるBBQで歓迎することにした。川遊びをし、野菜を採り、薄暗くなるの待ちかねて花火に興じる。子供たちが眠り、ゆっくりと飲みながら「ダイスケ、頑張れよ。人生は三方一両得さ」なんて言った覚えがある。
そして昨日、我が家の次女一家が小学二年生の息子とやってきた。この小学生が野菜が好きだと云うのだ。野菜の収穫に興じ、川遊びで小魚を追う。仕掛けておいたエビ箱の漁に喜ぶ。そして、BBQ・・・。
それにしても今日も暑い!夏だね~と。昨日あたり四国地方は梅雨明けだとか、気象庁がいっているが、私の中では十日も前から梅雨明けしているのだ。梅雨前線のの問題ではない、日々の空模様、お天気が大事なのだ・・・。梅雨明け?こう暑くちゃ、BBQするのも嫌になるよ。