11/9(土) 木曜日の午後、武蔵小金井のTUGAWA&HANAOKA女史宅を訪問。帰郷前のひと時を歓談して過ごした。二時半から八時半まで六時間もお邪魔をし、女史の手作り料理とお酒を堪能して来し方行く末を話し合った。
この家を訪ねると、居心地のよさに長居をしてしまうのが常である。甘えてばかりだ。挙句に、POLOの素敵なセーターをプレゼントされた。忝い!。
そして翌朝の金曜日を迎えた。最後になるかもしれぬ弁当を作る。「スキ焼」「厚揚げの根菜煮」「九条ネギとイカの酢味噌」「小松菜&油揚げの胡麻油炒め」「シメジ豚巻き」、焼きタラコとスクランブルエッグになった。
小松菜の胡麻炒めとスクランブルエッグにしたのは、弁当箱のスペース制約があることから、ご飯の上に載せるためだ。
こんな弁当を作り終え、外出の用意をした。夕方には錦糸町のホテルで「関東高知県人会大懇親会」があり、これに出席するので最近では珍しくスーツを着用した。ワイシャツは好みのボタンダウンのピンク、ノータイである。
その前に、一番の大事なことがある。東横線菊名駅からJRに乗り換えて新横浜駅へ。ここから新幹線で三島へ。三島駅で心の友、MIWA君に会うのだ。凡そ四十年も顔を合わせていなかったが、帰郷前に会えることになった。十代に出会った三島、彼の最寄り駅と云う三島へと向かった。
どんな風になっているか?と思いつつも、彼のこと故昔と変わっていないだろうなどと想像しながら。こっちは身も心もボロボロの雑巾のようなものながら・・・。
正午前、三島駅に着くと、MIWAは昔のままに精悍で、落ち着いた太い声でにこやかに迎えてくれた。彼の車に同乗し、食事を摂る沼津の鰻屋に向かいながら邂逅までの諸々を聞く。随分と苦労があったとのこと・・・。
彼の心中をおもんばかるばかり。それもすっかり過去のことになり、元気に暮らしていた。旨い鰻を頂きながら、妻のYUMIKOさんや家族のことを聞く。何しろ四十年も月日が流れているのだから。
長男は防大を出て防衛省に勤務、米国の大学にも留学したとのこと。防大と云えば観音先の高台に建つ。自分が横須賀の研究所に勤務したおりには防大の副学長と親しくしていた。
次男は米国の大学を出、その縁で知り合った女性と結婚。今は津軽岩木山の麓の旅館を継いでると言う。岩木山の麓と云えば岳温泉になるが、訊けばそうだという。
岳温泉を下りた直ぐのところに湯段温泉があり、佐藤初女さんが主催する「森のイスキヤ」があり、取材などで何度か尋ねている。岳温泉のバス停前にある旅館のことも記憶にある。様々に縁のつながりを実感するのであった。
すぐ裏に狩野川が流れる鰻店を出て、沼図市内を抜けてMIWAの家に向かう。沼津は静岡県東部では最大の街だが、シャッター通りになりつつあるとか。都会だったのにねぇ~、残念だ。
MIWAの自宅は、かの駿河銀行のオーナーが開発した裾野の高台に広がる、ゆったりとした邸宅が建つ処にあった。落ち着いた佇まいの宅で、YUMIKOさんが迎えてくれた。髪型も野際子さん風の昔のままに素敵だった。
掃除の行き届き無駄を省いたリビングに腰を落ち着けて、お互いの行く末についてあれこれと話しながら、かつての時代が甦るのであった。
新婚間もない夫妻が住んだ原駅の近くの小さな借家に泊まり、朝飯と茄子の糠漬けの美味しかったこと。牛臥の実家に泊めてもらった夏のこと、大瀬崎の剣道部キャンプにMIWAがヨットで来てくれたことなどに思いが至るひと時であった。
夫妻に三島駅に送ってもらい、別れを告げた。邂逅し、旧交を温めて充足感があった。会えてよかった。新幹線ホームに上がると夕日になろうとしていた。
16:24発の「こだま」にて東京へ。混雑する東京駅で総武線に乗り換えて錦糸町に向かい、ホテルの宴会場に入ったのは会が始まるところであった。
弱小の町、出身高校のテーブルは中学の同級OGAWA君に地元からの町長・副町長、遅れて先輩が来た。知人たちと挨拶を交わしながら故郷の料理や酒を頂く。
マグロの解体ショーが始まり、物まね芸人が舞台で芸を披露して会を盛り上げる。そんな時間を過ごしてから、先輩に誘われるままにOGAWAと渋谷「奈加野」へと流れた。珍しく奈加野は盛況!。先輩の予約で小座敷を空けてくれていた。
店主のNAKANOオヤジも座り込み、一緒に飲み始めた。私の送別だからオヤジがご馳走すると言うが、料理なんか要らないと断る。飲むのは俺のボトルだし・・・。郷里の同じ町の出身が四人、田舎の話に尽きた。引き留めるオヤジの所為で、帰宅は零時を過ぎたが、気分のいい一日であった。
土曜日の今夕、人形町「ちょっぷく」のオーナー店長YAMAちゃんとチーフのヨッちゃん、それに常連の数人で送別会をしてくれるそうだ。有難いと云うしかないか・・・。