オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

雨の朝

2020-01-17 | 弁当

1/17(金)昨日は一日曇天であったが、今朝は明け方から雨になったようだ。昼前になったが未だ庭の池面や小さな中庭を濡らしつづけている。しっとりとした一日となりそうである。

         

昨夜の食事は久しぶりに「猪鍋」を作つた。碓氷老と亭主が入院中で暇な従姉が病院から戻り食事に来た。土佐鶴の新酒をぬる燗にして飲みながらの夕食であった。

                 

 

そして、明け方まで読書で過ごした朝を迎えた。朝食はトースト、目玉焼きにモヤシ&ベーコンのソテーに昨夜の残り物の「大根煮」であった。老から過食になるので少なめにしてくれとリクエストされたのだ。

朝食後、昨日収穫した僅かばかりの土佐文旦を拭いてケースに仕舞い、新聞紙を被せた。これで三月の初旬まで熟成さす。然し、今年は滅茶少ない。渋柿と同様に例年の十分の一である。

二階のベランダに干した愛宕柿の残りの干し柿を十数個取り込んだ。この中から三個ほど選んで「クリームチーズ」を詰めて冷凍した。20日に来高する末娘夫妻を囲み、22日に妹夫妻・姪夫妻が我が家で懇談するのでその折に供しようと思ってのことである。

             

作り方は今日と違うが、一昨日に作っておいたのを従姉に味見をさすと「こりゃぁ美味いねぇ~」とのことであった・・・。

 

こんな雨の静かな日、CDを聴きながらBLOGを記す。浮世離れした暮らしである。家の整理は一向に手に付かないままであるが。肝心なことをせず、暇に飽かせて夕食のメニューなどを考えている暇人である。

午後から町役場まで老を連れて行くことにした。老の印鑑が届いたので転入手続きをするために!、これが済めば老は晴れて安田町民になる。私の方は未だ先になるが。。。、

未だ雨は静かに降りつづいている・・・・。

 

 

 

 

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かくして今日も暮れ・・・

2020-01-15 | 弁当

1/15(水)七時に起床、寒いのと弁当作りがないので実家に居ると朝がおそくなる。起床してやることは仏前の供えと、USUI老の朝食を用意するだけのことである。急ぐ必要などありゃしない・・・。

朝風呂に入った後の朝食はトースト、ホウレン草のバターソテーにベーコンエッグ、野菜のスープ。デザートはバナナとリンゴである。朝食後は、天気がいいので洗濯をする。老が直ぐに汗をかくので洗濯物が増えるのだ。洗濯ものを干してから庭掃除を軽くこなす。

午後、従姉を隣町の病院まで送りスーパーで食材の買い物。クリームチーズも買ったが、これは干し柿の中に詰めて冷凍し、デザートや摘みにするのだ。大きな愛宕柿の干し柿を開いてクリームチーズを詰めるだけのことである。

帰宅後、老を誘って畑へ。今日も書類の焼却をする。そして、僅かな土佐文旦と八朔を収穫した。収穫したミカンを入れるケースと運ぶためにネコ(一輪車)を押して行った。

老は焚火の世話に余念がない。紙類が無くなったので焚火用に枯れ枝を燃やす。小さな枝を鋸で引く老の額から汗が・・・。早くも汗ビッショリだという。この程度で?と驚くばかり。おまけに八朔を食すべく剥いている姿がハアハアと息が荒い!。

              

 ひとケースだけのミカンを載せたネコを押していた老が、二十メートルばかり進むとギブアップ「腰が痛い~」とのことで。然し体力なさすぎだ~。これでゴルフをやる気なのだから・・・。

                

 

四時過ぎに家に戻る。今夜と云うよりは夕からと早いのだが、夕食は「キハダマグロ刺し身」「オカラ」と「親子煮」「茄子&インゲン煮」「茄子と豚小間の味噌炒め」、以上のメニュー。準備が遅れて六時半からの食事となった。老は缶ビールを、私は紙パックの冷酒にした。

            

 

食事に来るように言ってあった従姉が遅い。病院から未だ戻っていないようだ・・・。僕らの食事がすみ、洗い物も終えてから姿を見せた。入院している旦那の夕食介助をしてから帰ってきたとのことであった。

親子丼にしてやり、デザートのブドウに夕方にクリームチーズを詰めて冷凍した干し柿を出すと喜んでいた。

                 

 

斯様なことで、今日も暮れていったのであります。余りにも平穏すぎる日々!。

 

 

 

 

 

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雨と燗酒

2020-01-14 | 弁当

1/14(火)天気予報どおりに朝から曇り空がつづき、午後三時を過ぎる頃からポツリポツリと・・・。畑で古い書類などを焼き終える時間であった。

部屋に籠りがちな老を誘って焚火と云うよりは書類の焼却である。主に亡父が関わっていた剣道や書道、古い郵便関係の書類であったが、二時間程も焼いていたことになる。

焚火をしながら畑のミカンの一つ二つを味見したり、墓前や仏壇用の「しきび」の枝を取ったりして過ごしたのである。

昼前に太陽が束の間さしてきた瞬間もあったが、優れない天気の一日であった。畑から戻り、老の転居届を出すために町の役場まで行った。行く前に印鑑は持ってるの?と訊くと「要らないんじゃない!」と言う。

小雨となった閑散の町、閑散と云うよりも人一人の姿を見ぬままに役場のカウンターに立った老が、書類を出す。手続きを始めてから「印鑑はお持ちですか?」と訊かれる。老は「持ってないよ、拇印じゃダメ?」などど言っている。

こっちは、だから言ったじゃないのと思う。それに拇印?腹は出てもボインはないだろう!などと、思うのであった。

町に一軒の鄙びた文房具を扱う店にも碓氷なんていう三文判はない。隣町まで足を延ばしたが、やっぱ無かったのである。老が言ったのは「この碓氷のハンコは珍しいので、見かけると買うようにしたんだ。家には20個くらい在るよ」だった。なら一つくらい持って来いよ~、と言いたかったが・・・。

そんなことで、老の町民への道はまだまだである。こんなボケ事じゃ、転入を拒まれるんじゃないか!。となると面白いのだが・・・・

帰りの車中で「今夜は寒そうだから鍋!それにウドン。燗酒にしない?」と振ると「いいねぇー」、と応じた。

そんなことで雨の夜は燗酒に鍋(野菜たっぷりに豚小間)となった。準備するのは私、食べて飲んで「満腹、苦しいと」と、更に「酔ったようだ!目の周りを雲がかかっている」と、のたまう老である。

五時半から始まった夕餉の宴は七時前に終わった。酔ったと部屋に引き上げる老を尻目に洗い物をする小人。かくして今日も安穏に過ぎようとしている・・・。

 

 

 

 

 

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藻くずカニ

2020-01-13 | 弁当

1/13(月)今朝は七時の起床。尤も四時前に目覚め、寒いこともあり本を読んで時間を過ごしていた。

実家の整理に入る前のインターバル期間で暫くはノンビリと過ごすことにしている。今日の予定は、PCの無線LAN・プリンターの接続と部屋の中でゴロゴロと時を過ごすUSUI老を誘っての散歩、従姉を旦那が入院している病院まで運ぶだけである。

朝食を終えて暫くすると、従兄の孫の養子に入ったHIROSHI君から連絡が入り「これからPCの設定に行きます」とのこと。そう、全ての設定は大学で情報学を学んだHIROSHI君がやってくれるのだ!。

無線LANが繋がったかと思うと、不通になってしまった。通信会社のサポートに電話をしたが、改めて専門家から連絡をするとのこと。HIROSHI君を帰してから連絡が来た。その指示に従って設定をすると繋がった。安心して、プリンターを安芸市のK"s電気まで老を誘って買いに出かけた。

安いプリンターを買い、ついでに市内のスーパーで食材を買ってから帰宅。すると従姉か待ち構えており、隣町の病院まで連れて行った。田舎は交通機関がないに等しい。拙い運転ながら送り迎え程度なら何時でも対応できる。

従姉を降ろして病院からトンボ帰りし、三時の体操音楽が流れる中を老を誘って散歩に出た。「10cmぐらい歩幅を延ばすつもりで歩こう」なんて言いながら、柚子ロードを一時間弱散歩した。途中に、従兄が川で獲ったモズクカニを飼っている場所がある。そのことを老に伝えると「一回しか食べたことがないない」と言う・・・。

散歩の帰り、その生簀を覗いて一匹だけ持って帰えることにした。入れ物がないので甲羅を掴んで提げた。これで味噌汁を作ろうと!。

              

           これだと、カニと云うより女郎蜘みたい!

従兄からは何時でも持っていけよと言われていたが、身が少ないので私は滅多に食べない。遠来の客人があった時に珍しかろうと出すぐらいである。

帰宅した老は、汗をかいたので着替えをしなくちゃと云う。あのスピードと距離で?汗かいちゃの?である。老人は運動量が少なすぎる。明日から毎日、散歩しようと云った次第。

帰宅してから夕食の準備に入った。老が毎食毎食、過食と云うので今夜はシンプルにする。メインは「クリームシチュウ」、毎日出る「大根煮」に「ウルメイワシ焼き」、自家製の蕪千枚漬け、冷奴にした。

               

「今夜は何を飲みますか?」と訊くと「焼酎のソーダ割」と老が応じる。勝手に作ってもらい、膳を並べる。「今日は珍しくお腹が空いた」と、今日も平和な老でありました!。

夕食も洗い物も終えた八時ころになって、従姉が病院から戻った様子。窓に明かりが点いたので呼びに行き、旦那の様子を聞きながら暖ためたシチューなどで夕食を摂って貰った。「病院から戻ったら食べにきなよ」と、送った時に言ってあったのだ。所詮、この程度のことしかできないのだから・・・。

 

ネットの環境も整ったようだし、散歩もした。従姉の旦那も小康のようなのでまず先ずの一日と云えよう。

 

 

 

 

 

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初薬師

2020-01-12 | 弁当

1/12(日)今日は地元の旦那寺である真言宗豊山派の寺、金剛山弘泉院「北寺」で初薬師の法要があり初めて出掛けた。北寺は我が家から県道沿いに流れる安田川を遡った2㎞程の処にある。地域名は別所と云う所で、その地名からもかつては寺領であったと思われる地区に建つ。

亡父母が健在の頃は毎年行っていたそうだが、私は初めてのことであった。毎年行っていると云う父方の従姉の車に同乗させてもらった。厄払いをしてもらう人は九時ごろから行くとのことだが、私たちは全体の祈願読経が始まる11時前に着いた。

老若男女と云いたいが、老男女ばかり五十人程が狭い境内に集まっていた。近隣の寺からであろう、7~8人の坊さんと北寺の住職による安全・健康・厄除け祈願が終わる頃に、長くて大きな数珠が本堂から境内に出された。本堂に入れない善男善女は輪になってその大きな数珠を回して無病息災を願うのであった。

              

法要後に供される食事の場には参加せず、お土産を頂いて帰宅した。初めての参加は亡両親の習慣を辿り、旦那寺への感謝であったが、廃れてゆく習慣への帰趨か・・・。

「北寺」の創建は平安中期とかで、国指定の重要文化財の仏像が九体ある。この仏像は高校生の折に見せてもらったことがある。その頃と違い、今は立派な安置場所に収まっている。

                 

余談であるが、寺の入り口の脇に建つ古い石碑に目がいった。それは、日露戦争に従軍した村人の慰霊と顕彰を記したものであった。当時は中山村といった小さな村から、三十九人が従軍して十二人が戦死、二十七人が帰還とある。明治四十一年の建立とあった。明治維新後に徴兵制が敷かれてから三十年を経ない頃のことであろう。

 

帰宅して寒空の下の池を眺めると、いつにのまにや「カキツバタ」が一輪紫の花を開いている。アヤメは母が好んだ花で、拙い句集にその名を付けた。- 初薬師母の思ひかカキツバタ一輪咲きにおり - 

               

  

 

 

 

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帰郷三日目

2020-01-10 | 弁当

1/10(金) 大荒れ予想の東京・羽田空港を発ったのは水曜日の午後一番だった。搭乗の時間になっても、予報とは違って強風にならなかったのは幸いか。それでも昼前に自宅を出たときは雨が強く、寒かったのだ。

                 

処が、上空に至ると群青の空がり地上の悪天候などはどこ吹く風。大揺れもなく快適な飛行であったが、何時ものルートと違い太平洋上を飛んだ。強風を避けたのであろうか。室戸岬を真下に下降体制に入る。沖は白波が立ち、故郷の海岸線に寄せる波は激しさを物語るように波が押し寄せていた。安田川の河口に小さな我が町が望めた。

               

着陸した高知空港は風は強めだが青空広がっていた。朝のうちは強風だったとのことだが。余談だが、帰宅後のTVニュースで強風に飛んだ屋根や塀が映った。なんとなんと、隣町の四国で一番小さな町「田野町」である。どうやら竜巻の襲撃だったとか。この町の丘に建つ中芸高校に三年間通学したのだ!。

帰郷した夕、ベランダの干し柿を取り込みパックに詰めた。干した時は310~450gもあった愛宕柿が、20~25%までの重さに干しあがっている。出来栄えは?表面が固すぎるのだ。なんでやねん!。

                  

丁寧に干し柿の処理をして、煮込みウドンの夕食を摂ったのは八時。燗酒の用意が面倒で、冷酒を友にして冷凍のカマス開きを肴にした。

翌日は部屋掃除。二週間余の空き家で埃が・・・・。午後から買い物に行く。十日に碓氷老が来高するので食材を仕込む。この日の、昨夜の夕食だが「煮込みウドン」に大根煮、大根おろしに冷奴、友は燗酒で「ぬる燗の土佐鶴」だった。

              

そして今日、午後の成田発のジェットスター便で来高する老を空港に迎えたのである。今週の月曜日、人形町で一緒に飲んでいるが、飛行機から降り立った老を迎えると懐かしく感じたのは何故?。

途中で摘み用に縮緬ジャコなど贖って帰宅。早々と夕食の用意をした。今夜は「豚&野菜の鍋」をメインにして「大根と厚揚げ煮」「自然薯の刺身」「縮緬ジャコ」に老が手を付けないサラダ。老のリクエストで燗酒となったが、燗酒は土佐鶴の新酒で変わらず。

老は食事を終えると、疲れたと早々と部屋に入った・・・。老、本格的な山里での一夜である。

 

 

 

 

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弁当事始め

2020-01-07 | 弁当

1/7(火)明日の午後一番、ANA便にて帰郷するが昨日は今年の初弁当を作lった。ホタテ&ホウレン草のバターソテーに、牛小間炒め、小松菜の煮浸しと鮭&タラコ焼きなど。

                

加えて、孫のSORAが書初めが午前中に終わり、我が家に来ると云うな。SORA用に好物の唐揚げ&ウインナーソテーと塩揉み胡瓜&ミニトマトのオムスビ弁当を準備した。

                  

私は郷里の先輩でサラリーマン時代の大上司とも云えたUDAさんからの誘いで、UADAさんがメンバーの外国人記者クラブ内の寿司BARで昼酒を飲みながら二人で歓談。ここは郷里の酒「南」を置いているのでこの冷酒を注ぎあって飲る。

日本や世界経済の行方、我が干し柿作りの日々、亡くなられた先輩方のことを話しながら店仕舞いの時間まで二時間ほどの歓談。すっかり出来上がってしまったのは云うまでもない。

UDAさんからの年賀状に「一杯やりたいね」とあったが、随分と早いお誘いであった。何時までも気にかけて頂いてありがたいことである。

KISHIMOTO大兄には日曜日に急遽お時間を頂いて会えたが、KIYOTA大兄&ROUJI君とは残念ながら会う時間がなかった。NAKAJIMAさんに会えば、仕事に復帰するように言われるのが目に見えている。

人との繋がりだけは、なかなか断捨離とはいかん・・・・。余りにもいろいろな方から支えられ、お世話になってきたのだから。ひとり一人の顔を思い浮かべると、お会いしたくなるのが心情。

そして昼酒の酔いも冷めやらぬ昨夜は、人形町で懇談。USUI老が「高松」の席を取っていたので、取り敢えず高松へ。HOYAさんもご一緒になり一時間程過ごしてから「ちょっぷく」へ。会社のAOKI君、FUJIKURA君に悪徳不動産マッチャン、遅れてYOSHIOが来る。ささやかながら新年会であった。

AOKIが近江牛を持ってきたが「量がたりね~、安い肉だろう!」と弄った。仕事納めで飲んだ折、彦根に帰省する彼に近江牛ぐらい持って来い、と言ったことは忘れていたのだが・・・。

チーフのヨッチャンが、私の壮行会なるにし時のアルバムと引き延ばしてパネルにした記念写真をくれた。昨年の11月6日、帰郷前の土曜日の夜であったはず。昨夜は佐賀に居るNAKAMURAさんを除いて、写真のメンバーとは全てご一緒した。

 右からケンちゃん、NAKAMURAさん、店長のヤマちゃん、HOYA兄いの横がチーフのヨッチャン、セイジュの助っ人ママで大活躍したマッチャンと左端がフナッシーである。然し「壮行会」とは大仰だねぇ~。

新年の仕事始めの日から、外人記者クラブ、夜の人形町と堪能した次第である。

 

そして今朝の弁当は、チキンソテー&生鮭のソテーにキノコを添えたものがメイン。ほうれん草の胡麻和えと卵焼き、ガンモドキ&里芋煮となった。

         

こうして並べてみると、毎日同じようなメニューが並ぶ。進歩がないと実感するばかりだが・・・。

                 

この同じような弁当も、明日の朝で終わる。3月3日の帰京までお目に掛けることはない。これからは田舎暮らしの日々と野菜物が並ぶBLOGになろうか・・・。

 

             

 

 

 

 

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令和二年、愈々始動!

2020-01-05 | 弁当

1/5(日) 殊のほか長かった年末始休暇も今日で終わる。明日から、いよいよ令和二年の始動となる。とは云え、こちとらは永の休暇、覚めることのない冬眠に入って早や一年!。世間とは完全にずれているのだからなにおか言わんである。

今日は「奈加野」のオヤジが久々にボートレースに行くと云うので付き合った。オヤジは明日から日赤に入院して胆嚢の手術を受ける。私は今月8日から田舎に戻るので、最後の挨拶とお大事にと言う気持ちである。

然しながら最終レースまで付き合うことなく、途中で失礼した。と云うのも、三時に横浜でKISHIMOTO大兄とお会いする約束ができたのだ。東京での滞在が限られてきたので朝に連絡して、時間を頂いた次第である。

ボーロレースの方は相変わらずの「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のようなものであった。寒風が吹き抜ける京急電鉄・平和島駅から横浜に向かった。待ち合わせた横浜駅西口の交番前も寒風が吹き抜けていた。

地下街の蕎麦店に入り、燗酒をやりながら久々の歓談。近況や家族のこと、ゴルフのことなどを聞きながらひと時を過ごした。何時ものことながらお世話になるばかりである。

横浜駅で崎陽軒のシューマイを買って、五時過ぎに学芸大学駅に帰り着いた。今夜は息子夫妻が食事に来ると連絡があったので、早めに切りあげての帰宅である。家人の帰りが珍しく早くて、食事の用意に取り掛かったところであった。

義母を交えた五人で食事を摂るも、話すことはあまりない。オヤジ以上にノー天気な愚息との間では話が通じることはないのだ・・・。疲れるぜ!全く。

年末始のお休みの終りは、かくの如しであった。

 

昨日記した黒田君の終末の様子を確認するために古い「日々の綴り」なる簡潔な日記を取り出してみた。肝心の平成27年1月4日~8日までの分が欠落していたが・・。

1月3日の綴りには「今日から終末医療に入りました」と、黒田君からメールが届いたと記してあった。それを受けて翌日の4日には、津川さんを誘って病院に行った記憶がある。

そして、9日には[14時からWEBチームとの打ち合わせを一時間。黒田家から弔辞と火葬場への同行依頼があった。弔辞の文章を急いで作り筆耕先を探した」とある。金曜日の夜になり、筆耕先を探すのに難儀した覚えが甦る。

通夜は12日の月曜日、13日が告別誌で両日とも寒かった。会社からお手伝いに九人をだした記してある。高齢の上に病気の父親が痛々しかった。

通夜、告別式ともクライアントや仕事先の方々が参列し、黒田君を見送ってくれたことは昨日記したとおりである。

サラリーマンを辞めて以来「日々の綴りと手帳「」に過ごしてきた経過を記してきた。大まかではあるが、二十年弱の経過ではあるが分る。大ボケの年齢になったが・・・記憶辿る旅ができるようになっている。意味があるかどうか?ながら、自分の為に。

幸いにして明日もまた、予定がある。

 

 

 

 

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墓参

2020-01-04 | 弁当

1/4(土) 今日、故黒田洋一郎(楊一郎)君の墓参に行行った。彼が逝去したのは六年前の一月七日の朝だと記憶にあるが・・・。

亡くなる前夜、夜の十時過ぎに彼と電話で話したのが最後になった。翌朝、奥様から連絡があり津川さんと東大病院の病室に駆け付けた時は、看護師さんから死後の清拭を受ける処であった。お悔やみを云い、病院の裏から冬枯れの忍ばす池を渡って御徒町に出たことがありありと残っている。

朝からやっている御徒町の立飲み酒場で二人で偲び酒を交わしながら彼のことを語ってから会社に出たのである。

黒田君は凡そ一年前、すい臓がんの宣告をされていた。余命、三ヶ月から一年とのことであったが、気力・体力で克服しようと自転車通勤などをしてきた。彼ではならない仕事と責任感で、働き続けた。

それまで弱音を見せたことがなかった彼が、師走の沖縄取材から戻った頃から痛みに耐えるような姿を垣間見るようになった。そして師走も残り少ないクリスマス近くに再入院をしたのであった。様子を見に行くと、弱音は叶い彼らしく元気な表情を見せていたのだが・・・。

葬儀はとても寒い日だった。彼が眠るおおくら大仏・妙法寺の斎場で執り行われた。クライアントや外注のライター・カメラマンと大勢が参列し、彼の人柄が偲ばれた。

墓参後の成城学園駅ビル四階レストランで奥様と津川さんで歓談しがらその後の様子を伺う。中学生だった長女・長男も大学一年生と受験を控えて猛勉強しているとのことである。元気に育っている様子を聞いて心休まる思いであった。

                 

            駅ビルから新宿方面を臨む。歓談中の二人。

黒田君が眠る「妙法寺」の本堂と、裏手ある墓所。境内の見事な枝垂れ桜。この枝垂れ桜が満開の頃、墓参したことがある。

        

 

今日は斯様に、黒田君の思い出とともに心鎮める一日であった。

 

 

 

 

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初春、水辺に遊ぶ・・・

2020-01-03 | 弁当

1/3(金) 今日から平和島のボートレースが始まった。何の予定もないので、競艇場に初詣することにした次第。

空いている東急電車で自由ケ丘駅を経由して大井町駅へ。JR京浜東北線に乗り換えて一駅、大森駅から無料バスで競艇場に到着。無料バスの中は、加齢臭ふんぷんの爺が多かったが、中にはバギーで乗り込んでくるお母さんが・・・。

平和島には大型のショッピングセンターや、企業のオフィスや大型倉庫まであるので、平日ならスーツ姿の勤め人まで乗車するが人数は少ない。ボートレース場専用バスなので圧倒的にギャンブル狂が占めている。

車中もさることながら、場内でもマナーとか云う言葉を知らないか、頓着しない面々が大勢いる。レース紙やハズレ舟券・そ他が散らかっているのは情けなさを通り越し、不愉快に思うのは小人故か。

そんな光景や、小さな子供を遊ばして舟券論議をしている母親の姿に眉を顰めることもなく、今日も胸内で舌打ちしてレースの行方を追う小人であった・・・。

初日でもあり、予定した1レースから10レースまで遊んだ!と云うより遊ばれてしまった。冬時間の今は、11時過ぎから16時過ぎまでが開催時間で12レースまで有る。

今年の初日と云うこともあり、大晦日と同様に場内は混雑していた。なるべく人の少ない場所に居るようにして貧乏神?が寄ってこないようにするが・・・。

                 

そんな努力も虚しく、昨日の弁財天への願掛けも利き目ななく、四勝六敗と負け越しに終わったのである。春から縁起がいいや!と云う次第には終わらなかった。が、まだまだ今年は始まったばかりだ、と思うに如ず。

       

 

そんな遊びをしながら、手仕舞いにする頃には夕食のメニューを考えていた。朝から食事を摂っていなかったこともあり、何を食べようかと思案するのだから勝負師にはなれん。所詮は暇なオヤジの水遊びだ。

駅前のスーパーで食材を買い、食事作りに励んだのである。缶ビールを飲みながら根菜の煮物、豚シャブにお節の諸々を並べた次第。今日も家人は仕事である。

 

明日は現役で若くして亡くなったスタッフの墓参に行く。TUGAWAさんと一緒だが、ご家族とも顔を合わすことになっているが・・・。

 

 

 

 

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