42
天国へ行って、キリストが人性を取られたことが、どれほど大きな犠牲であったかをこの目で見るまで、私たちが主の犠牲を完全に理解することはできないだろう。罪祭を定められた神の御目的は、罪人が罪の赦しの価の大きさを自覚できるようにするためであった。それは罪人に、罪を憎んで義を切望することを教えた。
コリント人への第二の手紙5章の21節に、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」と書かれている。また、ペテロ第一の手紙2章の24節には、「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」とある。何と鮮やかな描写であることか! キリストご自身が、ご自分のお体に私たちの罪を負われ、罪の責任を取ってくださったのである。彼はどのようにして、ご自分のお体に罪を負われたのであろう? 霊感の言葉は、イエスが十字架上で、どのように私たちの罪を負われたかを描いている。キリストは真の意味において、私たちのために罪となられ、私たちの身代わりとして、憐みの混じらない神の断罪を経験なさったのである。
ゲッセマネにおける神のいとしい御子の、筆舌に尽くしがたい苦悩、すなわち人の罪を負った結果、天父から絶縁されたことを悟られたときの苦悩について、我々はほんのかすかな概念しか持っていない。彼は、堕落した人類のために罪となられた。天父の愛から断ち切られたことを痛感して、次のような悲痛な言葉が魂から絞り出された。「わたしは、悲しみのあまり死ぬほどである」「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:38,39)
キリストの心に、天の誉れと権勢を捨てさせ、救おうとしていた者たちから軽蔑されて拒絶され、ついには十字架上で苦しむこともいとわず、罪深い世界へと来させたものは、永遠の、人を贖う愛以外の何のでもなかった。そしてそのことは、いつまでも神秘〔奥義〕であり続けるであろう。
説教集:すべてを与える愛 5 信じるとは
最後に、では私たちは、このような神様の愛にどう関わっていくのでしょうか。それは「御子を信じる」ということによってです。神様の愛は、もちろんすべての人に注がれています。しかし、その愛を受け取るのは、キリストを自分の救い主、また主と信じることによってだけなのです。キリストから離れたところには、本当の命はありません。
私たちには、病気が治ったとか、お金が手に入ったとかいう不思議な体験や奇跡的出来事によって、永遠の命の確かさを信じようとする根強い傾向があります。
しかし、キリストを信じることが、神様の愛と命を得ていることの確実な保証なのです(ヨハネによる福音書3章36節参照)。
しかも、ここで信じるというのは、無理やり思い込んだり、大声で「私は信じる!」と叫ぶようなものではありません。それはちょうど疑い深いトマスが、復活されたキリストにお会いしたときに言った言葉のようです。トマスはキリストの復活が信じられず、本当にキリストかどうか、手の釘跡を見なければ信じないなどと言い放っていました。そのとき、キリストが彼の前に現れてくださったのです。そして、トマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばして私のわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(同20章27節)
トマスは、自分の不信仰さを嘆きながらも、自分に示された神の恵みに驚き、「わが主よ、わが神よ」と言いました(同20章28節)。そして私たちも、私たちのために現された、神様の愛の圧倒的な力強さの前に、驚き、ひれ伏し、信じざるを得なくされ、「この人による以外に救いはない」(使徒行伝4章12節)と告白させられていくのです。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
私たち一人一人に、この神よりの喜ばしい約束の言葉が語られています。
《 これをお読みになるあなたが、この永遠の命の約束を自分のものとされますように 》 (この項最終回)