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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 68

2013年07月30日 | 日記

 

 

    68

B.供えのパンの机

 聖所内の第二の物品は、供えのパンの机であり、それは神の言葉を象徴している。みことばを通して聖霊が提供する力と恵みによって、神は私たちの聖化の経験を導かれる。みことばはキリストのことである(ヨハネ1:1参照)。聖化に至る道は、他にない。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。キリストは、次のようにも言われた。「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。・・・よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:48-51,53)。

 勝利を得るために、私たちは隠されたマナを食べなければならない。マナは、この地上におりて来られたキリストを表している。マナは生ける神の言葉、命のパンでもあり、それを食べる者は生きるのである。イスラエル人は荒野でマナを食べたが、それは契約の箱にも納められた(出エジプト16:32-35参照)。マナが地上に降ったとき、イスラエル人たちは、「これは何だ?」と尋ねた。「マナ」というのは、まさにそういう意味である。ちょうどマナが天から降ってきて地上を覆ったように、命のパンであられるイエス・キリストは地上におりて来られ、人の罪深い性質をとられた。彼はひとりの人間となられ、飼い葉桶で寝ている赤ん坊イエスを見た人たちは、「これは誰だ?」と尋ねた。キリストが真のマナである。マナが夜間に天から降ってきたように、世界が罪と誤謬で非常に暗くなっていた頃、キリストはこの地上におりて来られた。マナは早朝に集められた。一定の時刻を過ぎると、マナはとけてなくなった。同様に、私たちも早朝に霊的マナを集め、その日に必要な霊的食物を食べなくてはならない。時間が経過して、俗事が心を占めるようになると、天のマナは消失してしまう。霊的マナも、荒野のマナと同様、自分で植えて収穫できるものではない。それは、神からの賜物である。私たちは、それを作ることができない。しかし、マナを見つけようとして、遠くをさがす必要はない。イスラエルの人たちが朝起きて外へ出てみると、そこらじゅう至る所にマナが落ちていた。神がお与えになる命のパンも、私たちの近くに見出される。そのマナを食べるとき、私たちは生き返り、すべての罪に勝利できる力を得るのである。


    原稿:会社の新聞への投稿より:来たるべき日に備えて ③ 母の涙

 私が中学生の時である。家族みんなが寝静まった真夜中に、突然玄関の戸をたたく音がして「電報です。電報です」という声が聞こえた。夢み心地の中で、玄関の戸を開ける音が聞こえたかと思うと、突然、「とうとう死んだ!」という母の大きな叫び声と、その後はしゃくりあげる泣き声が聞こえてきた。布団の中で私は、こんなに取り乱した母の声を聞き、「いったい何が起きたのだろう。母はどうしたんだろう」と心配で、その夜は眠られなかったのを覚えている。小学校教師の妻で、近所でも評判の美人と噂される母を、私は内心誇りに思っていた。その母をこんなに悲しませるものとは何だったのだろう。