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二千年前にキリストが死なれたとき、自分はその場にいなかったので、自分は彼の十字架の死に関与していないと、ある人たちは考える。それは真実だろうか? キリストは、十字架刑からくる肉体的苦痛によって死なれたのではなかった。身代わりとして負われた私たちの罪の重みが、彼の心臓を破裂させたのであった。キリストは、私たちの罪のために死なれた。私たちの罪が彼を刺し通し、彼を死に至らせた。通常の十字架刑で見られたように、ゆっくりと衰弱して絶命されたのではなく、大声で叫ばれた後、突然こうべを垂れて死なれたのである。ローマ兵がその脇腹を突き刺したとき、血と水が流れ出た。それは、彼が心臓の破裂によって死なれたことを示していた。
キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代わりとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった。
詩篇には、キリストの苦難を預言した言葉がある。「数えがたい災いがわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました」(詩篇40:12)。私たちの罪が彼の罪となった故に、彼の罪は頭の毛よりも多かった。このために、彼の心の臓は機能停止したのであった。別の言い方をするなら、心臓破裂である。現在、私たちが犯す一つひとつの罪は、神の御子を再び十字架の苦悶へと引きずり戻すものであるのに、どうして罪の生活を続けることができようか? 私たちが罪をやめて、キリストのような品性を発達させることのできる唯一の方法は、神の愛を目の当たりにして感動し、生活のうちにその愛をあらわすことである。
説教集:愛とゆるし 4 裏切りの街角
それから数時間後、キリストは裏切り者ユダの手引きによって、あれよあれよという間に捕らえられ、縛られて引き立てられていきました。その時、弟子たちはどうしたかというと、「皆イエスを見捨てて逃げ去った」と聖書にあります。(マタイ26章56節)
キリストが逮捕されるという、信じられないことが起きて、弟子たちはクモの子を散らすように逃げていってしまったのです。しかしペテロは、少し逃げたのですが、気を取り直すと、キリストのことが気になり、後をつけていって裁判の傍聴人の中にまぎれこみ、キリストのようすをうかがうことにしました。キリストの裁判は、当時の宗教指導者であった大祭司の館で行われました。ペテロはその中庭まで入っていき、裁判のなりゆきを心配そうにチラチラ眺めていたのです。その姿があまりにも不自然だったためか、ペテロはついに一人の女中に見咎められてしまいます。「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」(同26章69節)。一瞬の虚を衝かれたペテロは思わず「そんな人は知らない」と答えます。
自分の身に危険を感じたペテロは何くわぬ顔で外へ出ようとしますが。また、「あなたはイエスと一緒にいたじゃないか」と咎められ、再び「そんな人は知らない」と言います。そして三度目に、「確かにあなたも彼らの仲間だ」と言われた時には、「その人のことは何も知らない」と、激しく誓って言ったのです。(同26章74節)
ペテロが、無我夢中で「知らない、知らない」と言っていたその時、突然、鶏のけたたましい鳴き声があたり一面に響きわたりました。その声に、ハッと我に返ったペテロは、「『鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣き」ました。(同26章75節)
なんということでしょうか。これはペテロにとって最悪、最低の事態でした。「あなたを知らないなどとは決して言いません」と言ったその数時間後に、本当に「知らない」と言って、キリストを拒んでしまったのです。ペテロは自分のふがいなさに泣き、とり返しのつかない自分の失敗に、拳で地面をたたいて後悔の涙にくれたことでしょう。「どうしてあんなことを言ってしまったのか。なんでキリストを裏切ったのか」。自分でもよくわからない、自分の心の複雑さに驚き、誓いにそむいた自分の弱さを思って嘆き悲しむペテロでした。