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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 57

2013年07月19日 | 日記

  57

 テトスへの手紙3章5節から7節の中で、使徒パウロは、外庭の経験における洗盤の役割を説明している。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」。

 民数記16章には、250人のつかさらと結託して謀反を起こしたコラ、ダタン、アビラムのことが記されている。神は、彼らを地に飲み込ませて裁きを執行なさった後、彼らが聖所の儀式に用いた真ちゅうの火皿を集め、これらを打ち延ばして祭壇の覆いを作るようにとお命じになった。

 これらの真ちゅう製のうろこは、祭壇に置き去りにしなければならない反逆心を表していた。私たちは、聖霊の恵みとみことばの力により、洗盤で神への反逆心を洗い落とさねばならない。真理の教えによって、洗い清められねばならない。そうするときに初めて、キリストと共に聖化の道を歩むことができるようになるのである。

 

  説教集:どうしても愛せない時 ③ 赦す理由を見つけて赦す

 聖書の教えの中心は、「赦し」ということです。ところが、赦しというと、私たちは、どうしてあんなひどいことをした人を、赦さなければならないのかと思うかもしれません。

 実は、赦すということは、自分を幸せにすることなのです。人を赦さないと、自分自身が不幸になってしまいます。人を赦さないでおくということ、これは大変に大きなマイナスのエネルギーとなります。このマイナスのエネルギーは、私たちの心と体に大きな悪影響をもたらすのです。

 現代では、がんをはじめいろいろな病気がストレスによって起きやすくなることが知られています。人を赦さないという心は、最大、最悪のストレスとなって、私たちをむしばむのです。

 もちろん私たちは、たとえば、「あんな人を赦したら正義もなにもあったものではない」などと思うかもしれません。ある場合には、法律的な手段を行使して罰を与えるようなこともあるでしょう。しかし、基本的には私たちは、相手に対する悪感情(たとえそれが正義のために怒っているというようなものであっても)を持ち続けてはならないのです。そのような感情は必ずその人自身にはね返ってきて、その人の心と体を損なうことになってしまいます。

 さて、ではどうしたら人を赦せるかということですが、クリスチャン・カウンセラーである伊藤重平先生は、「赦すためには、赦す理由がいる」と言っておられます。問題をうやむやにしたり、感情を押し殺して赦したように見せかけるのではなく、何か理由を見つけて人を赦すのです。そうしないと理性が納得しないのです。たとえば、「ああ、あの人があんなに怒ったのは、虫のいどころが悪かったんだ」とか、「誰だって失敗はあるんだから」とか、「まだ若いんだから」、「あの人はあんないいところもあるんだから」、「私もやったことがあるから」と、そのように考え、何か理由を見つけることで人を赦すことができるようになります。

 作家の三浦綾子さんの本にこういうことが書いてありました。三浦さんが若いころ、家族で食事をしていたら、弟さんがあやまって茶碗を落として割ってしまったのです。それを三浦さんがひどく叱ったところ、お母さんは「綾ちゃん、あなたは一回も茶碗を割ったことがないの。そんなにきつく言っちゃだめよ」と優しくたしなめられたというのです。

 人を赦せないと私たちが言う場合、そこには、自分は正しい、自分だったら絶対しない、というような思いがあります。同じ立場になったら、自分だってやるに違いない、と思える人は赦すことができるのです

 聖書の中にこのような言葉があります。

 互いに情け深く、憐み深い者となり、神がキリストにあってあなた方をゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい            (エペソ人への手紙4章32節)。

 これを書いたのは使徒パウロという方です。彼はクリスチャンになる前は、キリスト教の大迫害者でした。その彼がキリストと出会い、心を入れ変えて、宣教者になったのです。彼は自分のことを、別の箇所で、「罪人の頭」(テモテへの第1の手紙1章15節)とも言っています。彼はキリストを知る以前には、クリスチャンを迫害していた、という汚点を生涯忘れることがありませんでした。しかし、このような罪深い自分でさえ、キリストによって赦されたのだから、私たちは誰をも赦さなければならない、と言うことができたのです。

 自分の弱さや罪深さを本当によく知っている人は、他人の過ちを赦すことができるのです。