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民数記21章で、イスラエル人たちはマナのことで文句を言い出した。民数記11章の4節では、イスラエルの人たちを扇動して、マナはあまりにも味気ないと言わせたのは、烏合の衆であったことが分かる。彼らがエジプトで培った食欲は、マナを受けつけなかったのだ。今日も、同様の原則を当てはめることができる。世俗の本やその他の印刷物、また世的な考えは、天来の命のパンに対する関心を失わせてしまう。さらに、イスラエル人が文句を言ったとき、火のヘビが現れて人々を噛み、病に倒れさせた。神はモーセに、真ちゅうのヘビを作り、さおの上に掛けるように言われた。信仰によってそれを見上げる人は、誰でも生きるようになるためであった。同様に私たちも、神の単純なみことばに頼って生きる経験をしなくなると、罪という火のヘビにかまれて死んでしまうのである。神に向かって救いを叫び求め、信仰によってふたたび十字架上の救い主を見上げるとき、私たちはいやされる。そのとき私たちは、再び罪祭の経験をし、魂は再び清めにあずかる。永遠の生命を相続しようと思うなら、生ける神の言葉をだらだら食べてはいけない。さて、あなたは毎日マナを食べているだろうか?
原稿:職場新聞への寄稿より:来たるべき日に備えて 4 母の涙
翌朝、それが母の父、私の祖父が亡くなったのだと知らされた。私にとっては母方の祖父であり、遠くに離れていて、夏休みと冬休みに少し会うだけの存在であったが、母の父への思いの深さ、死への悲しみの深さは、強烈な印象として残ることになった。そして、その日学校を休み、汽車とバスを乗り継いで3時間ほどの所にある母の実家へ葬式に出かけた。そのとき、お棺に納められた祖父の痩せた青白い顔と、死に装束の白さは私の目に焼きついた。初めて人の死に直面した私の心に浮かんだ、「人間は死ぬとこうなるんだ。死ぬってどういうことなんだろう」という思いは、その後の私の人生にずっと何らかの形で影響を与えて続けていたのだと思う。