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聖所の中の備品
信仰によってキリストの後について、聖所の中へ入ってみよう。聖所〔第一の部屋〕に入ると、三つの備品が目に留まる。金の燭台とパンの机〔テーブル〕、そして香の祭壇である。これらの物品は、神がどのように私たちを神聖な者とし、救いの経験を継続できるようにして下さるかを、象徴的に示している。外庭に置かれていた祭壇と洗盤は、真ちゅう製であった。聖所に置かれていた燭台とパンの机と香壇は、どれも金で作られていた。金製の物品も真ちゅう製の物品も、金づちで打たれ、形づくられた。金づちは、神の言葉を表している。「主は仰せられる。わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚〔ハンマー〕のようではないか」(エレミヤ23:29)。金は信仰を象徴している。真理である神の言葉をとおして、信仰は圧せられ、鋳られる。愛によって働く〔行う〕信仰を表すために、聖所の備品は純金で作るようにと、神はお命じになった。それは、完全で混ぜ物のない信仰、日々の生活にあらわされるべき信仰である(Ⅰペテロ1:7;ガラテヤ5:6参照)。
真ちゅうは、亜鉛と銅との合金である。聖書の中で、こういった混合金属は罪を表している。「わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く」(イザヤ1:25)。各物品の原料となった金属は、それぞれの部屋に入るときの罪人の状態を表していた。外庭に入ってくる罪人は、罪悪感を抱えていた。真ちゅう製の祭壇と洗盤は、自分が清められる必要があることを罪人に思い起こさせた。外庭での儀式の後、罪人は清められ(義なる者と認められ)、罪のないまま聖所に入ることができた。金の備品は、神が彼を清めてくださったことを保証した。罪は除かれたが、聖所の中にとどまるには、この状態を継続しなければならなかった。
説教集:永遠の愛 ④
この溺れかかった経験の中で、私は自分が今、死に直面したら、安らかに死を迎えることはできないということがよくわかりました。それは、私がまだ若くてやりたいこともやっていないからというようなことだけではなくて、本質的な自分の罪を精算していないので、このままでは神様の前に出られない存在であるということがはっきりわかったからです。
聖書には、「一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることとが、人間に定まっている」(へブル人への手紙9章27節)と書かれていますが、この神様の裁きの前に立つことができない自分を発見しました。それから私は、どうしたらこの問題を正しく解決できるかと、答えを探しました。聖書を今までよりもっと真剣に読み、熱心に祈り、また、信仰生活の秘訣について書いてある本などを読みました。そしてわかったことは、まず、自分の知っている罪を告白するということでした。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第1の手紙1章9節)
「わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32篇5節)
しかし、自分の罪を告白するということは、これもまた、死ぬほどつらい、恥ずかしいことです。心の中で何度も戦いましたが、小さい時からの、知っている限りの悪業の数々を、少しずつではありましたが、おわびしたり、償いをしたりしていきました。そうするたびに、目の前が明るくなっていくような思いがしました。 そうやって、自分が人に迷惑をかけたこと、噓をついてごまかしたこと、盗んだことなどを、気がつく限りの罪の告白をしていくうちに、自分の誇りも名誉もこっぱみじんにされ、精神的な意味では死んだも同然と言うような自分であることがよくわかってきました。自分自身を誇れるものは何もなく、生きていても死んだと同じ、何もない自分、そこまできたら肉体の死もまた乗り越えられるにちがいないと思うようになってきました。
新約聖書の使徒パウロという方は、「わたしは日々死んでいるのである」(コリント人への第1手紙15章31節)と言っています。もちろん、パウロはキリストの忠実な僕ですから、私とは違うレベルの問題でそう言っているのですが、精神的な意味で、日々、自分のプライドとか自我、自己愛といわれるものに死んでいるなら、肉体の死は乗り越えられないものではないのです。