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パウロはここで、真に回心し、自分たちの分を果たした人たちが、神のイスラエルであると力説しているのである。私たちが真心から神に献身するとき、神の律法をこよなく愛する新しい心が与えられる。私たちは、この律法を自分の力で守ることはできない。「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。しかし、私たちの内になされるみ業のゆえに、神の律法を守ることが可能となる。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(8:4)。このような、真の回心について、次のように理解できる。
新生〔新しい誕生〕において、心が神の律法と調和していくにつれて、心は神と調和するようになる。この大変化が罪人のうちに起こるとき、彼は死から生へ、罪から聖へ、違反と反逆から服従と忠誠へと移行するのである。
血と肉を受け継いで生まれた古い性質は、神の国を相続することができない。古い道〔生き方、流儀〕、遺伝的性向、かつての習慣などは、放棄されねばならない。なぜなら、恵みは相続されないからである。新生は、新たな動機、新たな好み、新たな性向からなっている。聖霊が与える新たな命に生まれる人たちは、神の性質にあずかる者となったのである
罪祭の儀式のうちに十字架を見るとき、この回心の経験を得ることができる。聖霊の働きかけを通して、罪人を贖う神の愛が心に注がれるとき(ローマ5:5参照)、それを欲している時ですら神の戒めに従うことができない、私たちの腐れ切った自我は、新しい心に生まれ変わり、神の律法を愛し、喜んで従うようになるのである。これが、再生〔再び生まれること〕の神秘〔奥義〕である。それは単なる理論ではなく、真の経験である。罪人にこの再生を理解させ、経験させるために、神は罪祭の儀式を定められた。神の恵みにより、私たちは日々、この経験を継続しなければならない。これが聖化である。
説教集 : 受ける愛、与える愛 2 変わらない愛を
聖書には、このような人間同士の愛ではなくて、真実で不変の神の愛が描き出されています。そして人が、この神の愛を知るときに、心は満たされ、安らぐことができるのだと言います。聖書は『新約聖書』と『旧約聖書』に分かれていますが、この、「約」という言葉は、契約の約、約束の約です。つまり、聖書には、神の人間への愛の約束が書いてあるのです。その約束の言葉をいくつかご紹介しましょう。
イスラエルが安息を求めたとき時、
主は遠くから彼に現れた。
わたし(神)は限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに
真実をつくしてきた。
(エレミヤ書31章2、3節)
女がその乳飲み子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことが
あろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたし(神)は、あなたを忘れない。
(イザヤ書49の15節)
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
(ヨハネ第一の手紙4章9、10節)